週末に妻が子どもを連れて帰省し、つかの間のフリータイムが訪れました。普段子ども中心の生活をすごしている私が、そのチャンスを逃す手はありません。遅ればせながら、話題の『アナと雪の女王』を映画館で観てきました。
噂通り素晴らしい内容で、純粋に楽しめました。案の定「ありの〜ままで〜♪」が耳から離れません。あまり観る訳ではありませんが、ミュージカルって好きなんです。「ありの〜ままで〜♪」ばかりでなく他の歌も素晴らしく、思わずサントラCDに手が出そうです。
さすがDisney、ストーリーもよくできていますね。わずか数分で場面設定を理解させる導入、スピード感ある展開と心情描写はゆっくり時間をかけてという緩急、感情移入しやすい魅力的なキャラクターなどなど、やはり大ヒットする理由がいくつもありました。
これだけの大ヒットですから、もう既に多くの人が論評し、口々に感想を述べています。彼岸寺でも賢裕さんと松島さんが話題にしているので、もう今さら無理に仏教的視点を持ち込む必要もないかと思いますが・・・
何かとストレスの多い毎日、社会に漂う閉塞感、将来に対する漠然とした不安・・・誰かに「そのままで大丈夫」「なんとかなるよ」「素直になればいい」と言ってもらいたい気持ちが、「ありのまま」という歌詞に象徴される映画の世界観に共感したのでしょう。これまた大ヒットしたSMAPの『世界に一つだけの花』で歌われる「一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」「一つとして同じものはないから No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly One」に通じるところですし、駅前の路上詩人も「あなたらしく生きればいい」「今のままで素敵、そのことに気づいて」「あなた色が世界で一番美しい」という類のオンパレード、もしかして相田みつをさんの「にんげんだもの」も自己肯定感・現状肯定感のはしり?
(このあたりについては『「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える』土井隆義・著をご参照ください。すごく良い本です)
しかしながら、「ありのまま」とする「本当の自分」ってあるのでしょうか? 仮にあるとして、誰がそれを「本当の自分」と認めてくれるのでしょうか? 自分が思う「本当の自分」って正しいのでしょうか? おそらく「本当の自分」や「もともと備えているはずのOnly Oneな自分」というものはコレといった正解がある訳ではなく、それだけ単独では成り立たないもので、結局他の人や物との関係の中でしか見い出し得ないものではないでしょうか。エルザ(雪の女王)が山奥の氷の城に閉じこもったように、松島さんご指摘のように圏外に逃避したとしても、それが「本当の自分」かどうかは確証されません。誰にも邪魔されない状態が「ありのまま」とも限りませんし、一人ぼっちになった時にもしかしたら違う「ありのまま」が見えてくるかもしれません。
誰かに確証されるまでもなく、自分自身が「本当の自分」と思い込める状態が「ありのまま」ということだ、という意見もあるでしょう。そのように信じ続けることができれば、誰にも惑わされることなく「ありのまま」生きていくことも不可能ではないかもしれません。しかし仏教が教えるところは「諸法無我(しょほう・むが)」です。「すべての物事は、永遠不変の我(が)と呼ばれるような根本がある訳ではない。単独で存在し得るものなどなく、さまざまな縁の中で存在し認識される」ということ。
つまり、誰にも何にも左右されない我などというものはないのだから、躍起になって「ありのままの自分」「本当の自分」を探す必要はない。仮に一瞬捕まえたと思えた「本当の自分」であっても、すぐに形を変え思いを変え、スルリスルリと手から離れていく。大切なのは、「諸法無我」や「諸行無常」の理(ことわり)を真っすぐ見つめ、「本当の自分」を求める執着から離れていくことです。それこそ、その時その時の自分自身を「ありのまま」見つめ、「これは本当の自分じゃない!」と現実逃避するのではなく、周りの人々との関係性の中で答えを見い出していくべきではないでしょうか。それが現実的な処世術でもあり、仏教でよりよく生きるということになるでしょう。
映画の答え、世の中を救う鍵は「真実の愛」でした。今の私の「真実の愛」は子どもに向いています。「本当の自分」なんて優先度が下がって、自分以外の誰かを大切にする。まさに慈悲の心。そんなふうに「ありのまま」に執着しすぎず暮らしていきたいですね。
※ 松たか子さんの歌う「レット・イット・ゴー 〜ありのままで〜」はデジタル配信のみ!