子どもに「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか? まだ私は聞かれたことがありませんが、考えただけでもドキッとします。子育て真っ最中の彼岸寺メンバーも人事ではありません。子どもに真剣な眼差しで問われたとき、大人はごまかさず、はぐらかさず、自信を持ってきちんと答えられるでしょうか?
本書はそんな誰しもが抱くであろうギモンに正面から答えようとする意欲作。子どもは聞く側として納得いく答えを得ることができるか、大人は答える側として自身も子どもの時にきっとギモンに思ったことに対して納得いく答えを導き出せるか、興味津々です。本書はそんな永遠のギモンに8人の著名な識者が答えたもので、しかも面白いのは同じ内容を子ども向けと大人向けに書いてあることです。
もちろん子ども向けにはやさしい言葉で分かりやすく語られています。それに対して、大人向けにはほぼ同じ内容でもより論理的に順序を替えたり補足したり、重要なキーワードを散りばめながら語られています。どの回答も回答者の個性のにじんだナルホドと感心させられるものばかりで、その回答を聞いた子どもが実際にどんな反応をするのか楽しみです。
私も実際に子どもに質問されたら……と考えながら読むと、一番しっくりきたのは脳科学者の茂木健一郎さんの回答(子ども向け)でした。「勉強することとは自分をかがやかせること」「勉強を続けるコツはマイペースを保つこと」「学校を利用する気持ちになれば勉強は楽しくなる」というように子どもにしっかり向き合って伝えたいと考えています。しかし実際にはなかなかじっくり腰を据えて相手してあげられずに、瀬戸内寂聴さんの回答(子ども向け)のように「勉強しないと心の栄養失調になる」「テストの点数は気にしなくていい」「得意なことに気付くと勉強が楽しくなる」と断定的に言いそうな気がします。
でも本書で最も印象に残ったのは、青山学院大学教授の福岡伸一さんの回答(大人向け)でした。「勉強には人類の文化史が折りたたまれている」「教養とは知識の時間軸を持つこと」という指摘の中で、勉強は脳のクセや思い込みや既成概念から自由になること、「自分は何者か」「世界はどうなるのか」という類の人類固有の「大きな問い」を目指しながら、各教科にあるような「小さな問い」に一つひとつ答えていかなければいけない、という解説に共感するものがありました。
福岡伸一さんの指摘の中で仏教や信仰に通じる部分もありました。
「大きな問い」にいきなり答えようとすると「神がすべてを決めています」とか「宇宙はつながっています」などというオカルト的な「解像度の低い言葉」が使われるようになります。それは私たちを自由にしてくれる言葉や発想ではありません。むしろ私たちを縛ってしまう。
「解像度の低い言葉」は伝わらないという指摘は、仏教や信仰を伝えるうえでも注意すべき視点だと思います。現代人に対していきなり「仏さまにお任せするしかありません」「仏さまが浄土をつくったのですよ」というような、ややもするとオカルト的に受け取られかねない「解像度の低い言葉」を安易に発していないだろうか。「仏典に書いてあるから」「分かる人だけ分かればいい」という態度で「解像度の低い言葉」のままで良しとしていないだろうか。仏教も現代の知識人を納得させることができる言葉によって、世の中の出来事・苦しみ・社会問題・歴史などの「小さな問い」に丁寧に答えていく必要があるのではないか。わが身に振り返って反省するところです。
しかしそうすれば、仏教も現代においてもっと求められる存在になるのではないでしょうか。そのときにやっと、「勉強」の中に、あるいはその背景に「仏教」が含まれる可能性があると思います。「宗教」や「道徳」という科目ではなくても、私たちの根底に流れる文化として「仏教」が学ぶべきものと位置付けられるのかも知れません。そのようなことを考えさせられる読後感でした。
さあ、あなたは子どもにどう答えますか? 合掌