「池口さん、仏教って失恋に効くんですかねぇ」
傷心の知人が、ふと聞いてきた。もう10年も前のことである。
相談を受けたとき、恥ずかしながら、私は言葉に詰まった。あらゆる悩みを解決するのが仏教である。失恋みたいな誰もが経験する悩みぐらい、わけもなく答えを出せなければおかしい。私たち僧侶は、うまく解決に導けないなら、修行の成果なんてまるで誇れない。
しかし、それはあくまで建前の話。実際に、失恋のどん底にいるときに坐禅したらどうだろう。心穏やかに禅の境地に入っていけるはずもなく、むしろ脳内には別れた彼女への想いが渦巻くにちがいない。当時の私にはそれぐらいにしか仏教を理解できておらず、苦しまぎれに「いま坐禅してもねぇ」と知人に笑って言った。知人も失笑気味にうなずいていた。
悔しかった私は、それ以来、いろんなお坊さんに聞いた。「仏教は失恋に効くと思いますか」「失恋したときに坐禅しますか」と。私と同じように答えに窮するお坊さんも多かったが、圓融寺の阿純章さんは「ああ、坐禅すると思いますよ」と当たり前のように返事をしてくれた。呆気にとられたが、迷いの雲の向こう側にある景色をなにか垣間見られたようで、胸のすく思いがした。
いまの私なら、失恋したときに、「ちょっと坐禅しようか」と思える。坐禅して早々の数分こそ、脳内に別れた彼女との想い出が渦巻くかもしれないが、それでも呼吸を整えていくと、苦しんで迷子になっている自分がいることを俯瞰できるだろう。
テーマパークに遊びに行くと、「ご来場の皆さまに迷子のお知らせです」というお馴染みのアナウンスを耳にする。お坊さんとは、苦しいときにこのアナウンスをする係員なのだと思う。失恋の傷心から迷子になったときに、「永遠の恋なんてありません」「別れがあり出逢いがあるのが人生です」というアナウンスしてくれる人がいたらどうだろう。未練がすぐに消えることはないとしても、一息つけたならいくらか失恋の苦しみも和らぐはずである。
さて、「失恋のときも坐禅する」と喝破した阿さんの「迷子論」が、なかなか愉快で素敵である。
「仏教のおかげで、(迷いの)井戸の中にいても、どこか安心して生きていられるような気がする。どこに出口があるかも分からぬ迷子の私だが、どうせ迷うなら多くの迷子の方々と共にこの井戸の中を楽しめないだろうか」
私たちはいま、新型コロナウィルスの狂騒に突如誘われた。マスクやら消毒液やらトイレットペーパーやらを購入できず殺気立ったり、子供がいる家庭では突然の休校対応に追われてイライラが募ったりと、思い通りにならない日々に迷い悶えている。せっかくなら阿さんの『「迷子」のススメ』をもとに、迷子を楽しむ修行期間にしてみてはどうだろう。