ようこそ!造佛所のえんがわへ。
ここでは、「あなたにとって仏像とは?」という質問を彫刻刀に、対話で仏像を浮き彫りにしていこう、そんな試みをしています。
まだまだ荒彫り中の現在、眞牧山長谷寺(しんぼくざんちょうこくじ)に参りました。地元の人から「まきでら」と呼ばれて親しまれている臨済宗妙心寺派のお寺で、今日はご住職の小林玄徹和尚にお話を伺います。
高知県の山の上にありひっそりとしている寺院ですが、中世まで密教の聖地として大変栄えていたそうです。
奈良時代に聖武天皇の勅願によって行基が大和長谷寺(はせでら)と同時に建立したと伝わる古刹で、明治時代の廃仏毀釈で一時廃寺となったものの明治16年に再興され、現在に至ります。
小林玄徹(げんてつ)和尚とは、私たちが高知に引っ越した2017年に出会いました。仏像修復のご相談で弊所にいらして以来、博物館イベントでご一緒したり、法要や坐禅会に通わせていただいたりと、お付き合いさせていただいています。
そのご縁で、2020年の春から仁王像(サムネイル画像)を弊所で修復させていただくことになりました。私たちはお寺の近くに住まいと工房を移し、数年がかりで取り組みます。
お寺近くの集落は昭和30年頃から過疎化が進み、現在11世帯のみ。高齢化も深刻で、10年後には消滅するのではないかと言われている地域です。
お寺周辺の人口が減少の一途をたどる状況にあって、大きな修復事業を決断された玄徹和尚。ぜひ「あなたにとって仏像とはどのような存在か」と聞いてみたい、同じような状況にあるお寺さんや檀家さん、co-buddhistの皆様と分かち合いたいと思いやって来ました。
今日はちょうど坐禅会の日で、玄徹和尚のほか、すでに何名かお見えのようです。せっかくなので、坐禅してからお話を伺いましょう。
吉田:こんにちは!
玄徹:こんにちは、今日はようこそ(山に)上がってきてくださいました。坐禅の前にお茶をどうぞ召し上がってください。
吉田:ありがとうございます。はぁ〜美味しいです(しみじみ)。茶礼と言っても、皆さん和気藹々として気楽な感じですね。
玄徹:はい、いつもこんな感じでやってます(笑)。さぁ、そろそろ座りましょうか。
吉田:坐禅会とお食事をありがとうございました。毎回皆さんでお茶会と食事をされるんですか?
玄徹:はい。これはもうずっと続けていますね。
吉田:まるで一緒に修行している仲間に入れていただいたようで、楽しかったです。
玄徹:それはよかった。色々と略している作法なんかもあるんですけどね、坐禅前後のお茶の時間と昼食は欠かしたことはありません。
吉田:先ほど、他の方も言ってらしたのですが、ここでいただくものは全て美味しく感じますね。食材やお料理の仕方もいいんでしょうけど、和尚さんと奥様のお人柄も大きいと思います。
玄徹:ははは。山っていうのがね、ちょっと違う雰囲気がありますよね。今日はどんな話ができるかわかりませんけど、よろしくお願いします。
吉田:はい、よろしくお願いします!
消滅集落の薬師如来がもたらしたもの
吉田:今日お伺いしたいのは、「あなたにとって仏像とはどんな存在ですか?」という質問だけです。一般的な答えではなく、玄徹さんの個人的な思いとか、これまでの仏像とのエピソードなどをお聞かせいただけたら嬉しいです。
玄徹:わかりました。
吉田:玄徹さんから最初に弊所にご相談いただいたのは、七寸くらい(21cm)の薬師如来様の修復でしたね。驚いたのは、御安置場所でした。
玄徹:あぁ、山奥やからねぇ。
吉田:はい、お寺のお像ではなく、ここからさらに奥まったお堂で、引き取りのために初めて伺った際は、予想以上に山深くて携帯の電波も届かず……カーナビも動かなくなって、完全に道に迷ってしまいました(笑)。到着したときには御霊抜きの法要も終わっていましたね。
あのとき、「消滅集落」に初めて足を踏み入れたんですが、人の気配が一切ない空気に飲み込まれそうでした。そんな場所にあるお堂だったので、「修復されたはいいけど、これからこのお像はどうなっていくんだろう」と正直思ったんです。
そうしたら、私の心を見透かされたように、玄徹和尚が「大丈夫、大丈夫!」と笑っておっしゃって。それがなぜか忘れられません。
玄徹:ははは。そうでしたっけ。本当にいいお直しをしてくださってありがとうございました。あそこの集落に元々住んでいた有志の寄付で始まった修復だったんですけど、後から寄付してくださる人も出てきて、昨年(2019年)の法要にはこれまで来たことなかった若い世代が、生まれたばかりの赤ちゃんを連れてお参りに来てくれたりもしたんですよ。
吉田:うわぁ〜〜それはすごく嬉しいですね。私は御安置以降お堂に伺ってないですけど、あの空間を思い起こすと、なんとなく明るさを感じるようになりました。「あのお薬師さまがいらっしゃる」と思うと、心の向け方が変わったな、違うなと思います。
玄徹:ありがとうございます。檀家さんもそうなんじゃないかと思います。新しい人がきてくれるようになったのは本当に大きいですね。法要では、お薬師さんを取り出して皆にみてもらってるんですよ。これまではお堂に何が入っているのか皆知らないでいたんですけど、今は全然違います。
吉田:「お仏像をまじまじと見るのは畏れ多い」みたいな気持ちがあったり、「目が潰れる」と言われることも昔はありましたよね。
玄徹:結構今でもみなさんそういう感覚があるみたいなんですよね。私自身も、こういうこと(住職)をやり始めるまではそうでした。「何がおわすかしら知らねども」みたいなね(目をギュとつぶって合掌した手をすり合わせながら)。
吉田:玄徹和尚が橋渡しになられて、お薬師さまと檀家さんの結びつきが強くなっただけでなく、次の世代がいらっしゃるようになったというのは嬉しいニュースです。仏像のお直しがきっかけで、いろんな人が仏様に心を向けてくださるようになるというのは、仏師側にとっても一つの理想というか。
玄徹:私たちもいつまでできるか…というのはわかりませんけどね。
吉田:集落に人がいなくなると、代々守ってきたお堂と仏像はどうするかという課題が出てきます。このお堂もそうでした。
玄徹:そうです。親世代は法要に行くけども、その子供の20〜40代は、仕事や育児などいろんな事情でなかなかこれないんですよね。
でも、今回は「おじいちゃん達が守っていた仏像が綺麗になったよ」ということで、若い世代が生まれたばかりの赤ちゃんを連れて法要に参加するきっかけになりました。
吉田:御安置に伺ったとき、打ち震えるような感動があったんです。それは、「仏像が触媒となって、断絶の危機からナラティブな歴史になったのではないか。もしかして、そのターニングポイントに立ち会ったじゃないか」ということが一つだったんですけど、今のお話を聞いて感動がますます深くなりました。
実際に自分のルーツとなる場所に行った記憶があると、その土地に対する考え方も変わりますね。住まないとしても。
玄徹:ルーツの一番大切なところですよね。
吉田:長く土地と結びついたお像だったからこそ、より人の心を動かしたんだと思います。
限界集落で仏像修復に踏み切った理由
吉田:今回、玄徹和尚にお話を伺いたいと思ったのは、長谷寺さんが由緒あるお寺ではあるものの消えそうな集落にあって、檀家さんも減っている中であえて仏像修復に踏み切られた思いをお聞きしたい、というのがありました。
玄徹:山門に大きな仁王さんがたっておられますが、手が取れたり汚れていたり、傷ましいお姿で修復したいとずっと思っていたんです。しかし、色々と調べるとお金も時間もかかる。文化財の指定も受けていないので、ある財団の助成申請も何度も申請しましたけど毎回落選して、檀家さんは高齢化していくばかり、実現できるかどうかわからない状態でした。
縁があって私がこのお寺を預かっているんですけど、やっぱりこのような貴重な歴史あるお寺っていうのはなんとか存続させて行きたいっていう思いが強いので……。出家する前からこのお寺のことは知ってましたから。
吉田:そうなんですか。たしか、玄徹さんは京都のご出身でしたよね。
玄徹:はい、京都の伏見です。高校時代に高知へ行こうと決めて、23歳のときに高知県物部村(現:香美市物部)で百姓を始めたんです。その頃にこのお寺のことを聞きました。古い人たちはここのお寺のことをよく知っているんですよね。
物部あたり(高知の山間地域)は木こりが多くて、昔は皆よくこのお寺にお参りにきていたようです。花祭りのときなんか、物部含め周辺の村々から大勢参拝に来てすごく賑やかだったと聞いています。70代くらいの檀家さんは、子供の時の記憶として覚えているようですね。
百姓している時には、まさかここの住職をすることになるとは思ってもなかったですね。実家もお寺でないですし。
吉田:何がきっかけでお寺に入られたんですか?
玄徹:師匠である増井玄忠師に出会ったのがきっかけです。年に何回かくらいですけど、野菜を出荷したときに師の坐禅会に行っていたんです。そこで非常に感化されましたね。
私は当時結婚していて子供もいたんですが離婚することになって、「一人になって山で百姓してもしょうがないかな」と思うようになったときに、お師匠様のところに行きたいと思ったんです。私は師匠のようにはなれないかもしれないけど、やっぱりすごく影響が大きかったですね。
雲水時代から始まる仏像との関わり
吉田:そのころの和尚さんにとって仏像はどのような存在でしたか?
玄徹:いやいや……全然遠い存在でした。見るのも恐れ多いって感じでしたね(手を擦りあわせて顔をふせ)。
最初に仏像に興味を持ちはじめたのは、県外の修行道場にいた時でした。当時、いろんな建物を修理している真っ最中で。その関連でご本尊さまから弁天さまからいろんな仏像の修復をしていたんです。まぁ、雲水の一人だったから直接関わってた訳ではないけど、順番に仏像が新しくなって帰って来るのを見ていました。
今から思ったら、あんまりいい修復の仕方ではなかったけどね。なんというか…(言いづらそうに)ちょっと安っぽいというか…。スプレーをパパパっとかけて軽く影をつけたみたいな仕上がりで、素人目にも「これじゃあかんやろうな、というかこんなんでええんか?」みたいな(笑)。まあ自分が主体的に関わっていた訳じゃないから、仏像修復ってそんなもんかなぐらいに思ってました。
で、高知に帰ってきたからですよね。住職になってから、色々と仏像の修復に関わり出したわけですけど、最初は現状維持とか復元とかあんまり知らなくて。
吉田:知る機会ってなかなかないですよね。私たちも、いろんなお寺さんと話をするうちに、「このお像を直したいと思っているうちに20年たってしまった」とか、「誰に相談したらいいかわからない」とかお聞きするようになりました。ご住職に思いはあるけど、資金面で苦労されていたり、文化財に指定されてもなかなか話が進まなかったりで。実際にはそういうお寺さんが結構いらっしゃるんだなという状況がわかってきたんです。
なので、最初に玄徹さんとお話したとき、復元か現状維持かで迷われていたことに驚きました。
玄徹:別なお寺の住職をしていた時に聖観音さまを直したんです。光背もボロボロで、出入りしていた業者さんに頼んだんですけど、思っていたのとは違うピカピカな感じで戻ってきて。もちろんそれが悪いというわけではないんですけど、「いいのかな?」と。
それで、いろんなところに相談していく中で、修復の仕方も自分なりに勉強し始めました。そのうちに「現状維持」というアプローチがあるというのがわかってきたんです。兼務でここ(長谷寺)の住職に入ったのはその頃でした。
当時は「仏像は信仰の対象だ」という以前に、仏像はもちろん本堂も書院も庫裡も傷みがひどくて。お寺周辺の人がどんどん減っていく現状にあって、「なんとか後世に伝えていくっていうことをしていかないと」というのが私にとっての使命みたいな感じがしていました。
最初は、庫裡でとりあえずの生活をするために、一通り建物を修繕しました。水を引いたり畳を入れ替えたり、駐車場を作ったり、耐震のことは10年くらいかけて。そしていよいよ仏像だというところで、仏像の修復家とご縁ができ始めたんです。
最初にお願いしたのは県外の工房の方だったんですが、はるばる山まできてくださって。小さなお像を直していただくことになったんですけど、復元するか現状維持にするかで悩みましたね。結局台座以外は復元して、台座は現状維持という形にしました。だいぶボロボロだったから、綺麗に直すのもいいんじゃないかなと。現状維持というには痛みすぎていたのでね。
彫りがそこまできちんとしているものでもないんだけど、江戸時代から部落でずっとお祭りされていたっていうのもあって、色々と相談した結果、そのような形で台座は古い感じを残しました。
吉田:台座で歴史性がわかるようにされたんですね。
玄徹:そうです。で、修復家の方にきてもらったついでに、お寺にある仏像全部の修復にかかる見積もりを出してもらいました。以降はそれが基準になりましたね。
吉田:それはいいご縁でしたね。
玄徹:はい。そうこうするうちに、文化財関係のご縁が広がってきて調査してもらったり。
吉田:その中で、私たちをご紹介くださったお寺さんがあったわけですね。
玄徹:県内にそういう人(仏師)がいるということで、修復の相談をさせていただきましたね。県外の有名な大学や施設、工房もそれぞれいいんですけど、高齢化した檀家さんを連れてちょこちょこ見に行くなんてことは無理だと思いまして。
それで、仁王像については、吉田仏師に集落に住みこんでもらって修復してもらおう、ということで檀家一同話がまとまったというわけです。
吉田:先輩方の積み上げられたところへ入らせていただくことになり恐縮です。どうぞよろしくお願いします。
玄徹:ここの場合、「仏像作って魂入れず」じゃないけど、いくら建物が綺麗になったとしても、やはり一番中心になるのは仏像だと思います。だから、せっかく山の上までいらした方をご案内しても、仏像がボロボロだと心苦しいんですよね。
他にも直さないといけないお像はあるんですけど、仁王さんというのは、いらした人にとって必ず目に付くところですので、まずはそこから始めたいと思います。
修復に携わっているいろんな人とご縁ができたというのはありがたいですよ。皆さん結構気安くて相談しやすいですし。
吉田:それは私たちも含め、他の修復家の方達は玄徹和尚に感じていると思いますよ。それに、今は檀家さんと接する機会をたくさんいただいて、輪に入れていただいているのをとても光栄に思っています。ご飯を一緒に食べたり、一緒に坐禅したりする中で、檀家さんの思いを聞いたりすると、力をいただく感じがあります。
玄徹:檀家さんにも知ってもらいたいんですよ。特に次の世代にね。私らより上の世代は子供の頃からお寺のことを知っているけど、40代以下になるとほとんどお寺と縁がなくなってしまっています。こういう機会(仏像修復)に関心を持ってくれる人がどれくらい出てくるかわかりませんけど、少なくとも発信はできますから。
仏像修復を人と寺院の接点に
吉田:地縁が薄くなっている傾向は日本中で見られています。
玄徹:ここに関しては、地理的な問題もありますね。一旦生活の場を町に移すと、わざわざ山まで上がってこないですよね。距離もあるし。若い世代は、親の里帰りにおじいちゃんのところに何回かは来てるけど、あくまでよその土地という感じです。
次の世代にどうやって繋いでいくか。無駄な努力かもしれんけど、仏像修復を通じて伝えていくしか道はないと思っています。
吉田:寺院消滅を予測したデータによると、20年後には35%の宗教法人に消滅可能性があると言われています。(鵜飼秀徳 著『寺院消滅』日経BP社,2015,p.240)
玄徹:高知では今のところ、無住の寺院があっても兼務の人が管理していますけど、島根とか鳥取の方は兼務する和尚もいなくなってきていると聞いています。立派な本堂がそのままになっていたりとか、朽ちるに任せているお寺が出てきているそうです。高知もこれからどうなるか。
吉田:このままだと人口減少は確実ですものね。
玄徹:もしかしたら昔にもどるのかもしれないですが、やれるだけやって踏ん張れるだけ踏ん張っていこうと思っているんですけどね。
吉田:シビアですが、このまま集落から一人へり、二人減り、いつか集落とお寺が消えてしまっても、きっと誰も困らないんですよね。檀家制度の崩壊とか、地域共同体の解体、少子化、いろんな問題が挙げられますけど、それを一つ一つ解決するというのは一人や二人ではとてもじゃないけどできません。
弊所も今二人でやっていますが、この人数でどこまでやれるか?って思うことはしょっちゅうです。
でも考えてみると、ここにお寺がなぜあるかというと、遡ればお釈迦様が一人で歩き始められたということに行き着きます。そうやってたった一人から生まれたり、変わっていくということが身近にたくさんあるなと。だから、少人数でやれるだけやるということも無駄ではないと思えます。
それに、地縁が薄くなった世代に「あなたのルーツの場所で一緒にお祈りしませんか」と呼びかけられるのは、まさにお寺や神社です。
今日坐禅をご一緒させていただいて、一緒に座る時間だけでなく、茶礼、斎座で分かち合う時間もとても豊かで幸せを感じました。お寺とそこに集う人の活きた輪があって、私もその中に受け入れていただいている安心感があって……。
改めてお寺の意味を教えていただいたような気がします。本当に、こうやって手を合わせたり坐禅できる場所を守りたいですね。
玄徹:ありがとうございます。
(後編へつづく)
小林玄徹 住職 プロフィール
まきでら長谷寺・吸江寺(高知県)の住職。京都出身。高校時代に自然農法家の福岡正信氏の影響で百姓を志し、卒業後高知へ移住。香美市物部で百姓をしているときに山本玄峰老師の著作を通して禅の世界を知る。玄峰老師の直弟子であった護国寺の増井玄忠老師に出会って感銘を受け、30歳で出家、高知県下の複数の寺院の住職を経て現在に至る。2017年高知県立歴史民俗博物館にて「今を生きる禅文化」、2019年同館にて「吸江寺展」に特別協力。典座の経験から、精進料理のイベントも好評。
まきでら長谷寺ウェブサイト https://makidera.jp/
【参考書】