「仏壇って用意しないといけないんですか?」
「仏壇を置きたくないんですけど・・・必要なんですか?」
時々こんな質問を受けることがあります。
現代では家族構成や生活スタイルの変化、家の間取りが優先されて、仏壇を置かないという家庭も相当増えていることでしょう。
生まれた時から家に仏壇がなくて、仏壇に参るということが何をやっているのかわからないという方も多いのではないでしょうか。
そこで、今日はそもそも仏壇とは何か?ということを書きたいと思います。
そもそも仏壇って何?
「仏壇って何なの?」
その問いに一言で答えるならば、「浄土という世界のジオラマ」と言えるでしょう。
ジオラマというと、現実世界にある風景をプラモやミニチュアを使って小さなサイズで立体的に表現したものですね。
アニメや特撮が出てきてからはその空想の世界を表現するジオラマが出てきましたし、タモリ倶楽部を見ていたら最近では昭和の団地を作るマニアックなものもあって・・・なんかジオラマ界もすごい世界ですね。
そんなジオラマの1つのはたらきは見えないものを見える形にするということです。
大きすぎて全体が把握出来ないものを見えるサイズにする。
イメージの世界を人と共有できるように見える形にする。
仏壇もそんな見えないものを見える形にしたひとつのジオラマなのです。
目に見えない浄土の世界を目に見える形に。
お経には浄土の世界がいろいろな表現で説かれています。
しかしながらその世界は人間が知覚できるようなものではないんですよね。
色もないし形もない、においも手触りも音もない。
そのお経に説かれた浄土という世界を人間の五感でわかる形に表現したものです。
そのジオラマの中で比較的大きなサイズのジオラマがお寺の内陣(ないじん)です。
▼本山興正寺(京都)の阿弥陀堂を参拝席から撮った写真。
阿弥陀仏はキラキラネームの記事でも紹介しましたが、阿弥陀仏は光の仏様。
浄土という世界はその光の仏様の世界ということで基本的に金ピカなのです。
浄土真宗のご本尊は?
この空間のセンターにくるのがご本尊。
浄土真宗では阿弥陀如来という仏様です。
浄土真宗は数ある仏の中から阿弥陀如来を推しメンならぬ推し仏としてお祀りしているので、全国どのお寺にいってもご本尊は基本的にすべて阿弥陀如来です。
▼もちろんうちのお寺善照寺もそう。
そして阿弥陀仏の浄土の世界には花があって灯明の光があって、線香や焼香の香りがあって、僧侶達がお勤めをする声明や雅楽などの音楽があって・・・・というように浄土という仏の世界がこのお飾り(荘厳といいます)の中に表現されています。
この素晴らしい荘厳によって、仏前に座る人を
「浄土ってええ世界やなぁ、自分もこういう世界に憧れるなぁ。」
という気持ちにさせる働きがあるわけですね。
このお寺の内陣をもっとギュッと小型にしたものが各家庭にあるお仏壇なのです。
ですから、浄土真宗の仏壇は金ぴかで絢爛豪華なのです。
何のために仏壇を置くのか?
そう考えると、仏壇を迎える意味というものが見えてくると思います。
ざっとした言い方にはなりますが、浄土の世界というのはすべてのいのちが尊重され、奪い合うこと無く、お互いを輝かせるような世界です。
仏壇をおくということは阿弥陀仏というご本尊を迎え、合掌しお念仏することでこの世界に向き合うということですね。
▼仏壇というのはそのような浄土という世界をこの世に生きる我々に教える装置ということです。
普通に人間の価値観で生きていると、人と自分を比較し、足を引っ張りあい、人をけなし、出る杭は打ち、どこまでも自己中心的にしか生きられないもの。
そのように自己中心的にしか生きられない人間が、いのちとは何か?どのような生き方をするのか?という大事な考え方と向き合う場所なのです。
仏壇を置いてご本尊を迎えるというのは「あなたは何を本当に尊いものとして、どういう世界観を大事に生きていますか?」ということが問い直されているわけですね。
浄土真宗という宗旨を選び、ご本尊に阿弥陀仏を安置した仏壇を南無阿弥陀仏と唱えて手を合わせるということはすべてのいのちが尊重され、奪い合うこと無く、お互いを輝かせるような世界観を大事にしますよということなのです。
ようわからんけど手をあわせといたらええっていうんだったら、そこら辺の電柱に手をあわせても一緒ですよ。
仏壇まとめ
ほとんどの方は「家族の位牌や写真を置く場所」と思っている方がほとんどだと思いますが、仏壇というのは家庭内の小さなお寺でありご本尊をむかえる場所だということです。
▼もちろんご家族やご先祖も大事ですが、主役となるとやはり仏様ということになります。
それは亡くなった家族をないがしろにするということではなくて、もっと大きな視点でいのちというものをとらえて欲しいということなのです。
この記事を読んで下さっている人にも必ず2人の親がいるはずで、そのそれぞれの親にも2人の親がいて、その親にも親が、その親にも親が・・・・と10代もさかのぼったら1024人ものご先祖がいるわけです。
歴史に「もしも」はありませんが、そのうちの誰か1人でも欠けていたら自分のいのちは生まれなかったし、その先祖を生かした力がなければ成り立たなかったわけです。
ですから、仏壇の前で自分から近しい人たちのためだけに手をあわせるという近視眼的な考え方でおさまるのではなく、自分の近しい家族を偲ぶことを通して浄土の世界に触れるという大きな視点を持って欲しいのです。
想像もつかない無数のはたらきの中でいのちがつながってきたという事実の上に自分がいることを再確認し、何を理想として自分が受け取ったいのちのバトンをどのように生かすのか、それを考える場所なのです。
※記事中に浄土の世界「観」と書いてありますが、まったく知識の無い方にも理解してもらいやすいようにあえてこのように表記しております。