長男が生まれ、今日で100日目を迎えました。ごきげんだと笑顔を見せたり、身体をジタバタと動かせるようになったり、首もずいぶんとしっかりしてきて、少しずつ成長してきていることを実感します。特に最近「おっ!」と思ったのが、おもむろに手を組んで、じーっと見つめるようになったこと。赤ちゃんからすれば、手が動いている、あるいはひょっとしたら自分で動かせている、ということが不思議でならないのでしょうね。自分の手を見つめるのは、自己を確認し、肉体を認識する、自我の芽生えのような行動なのかもしれません。
さて、我々はこの「身体」を「私」として認識しているわけですが、その認識は、果たして本当に正しいのでしょうか。「私」が「私」と思っているものは、本当に「私」なのか?そのことを突き詰めて考えていかれたのが、お釈迦様であったと私は思います。いや、お釈迦様だけではありません。古今東西の哲学者と呼ばれる人たちの多くが、「私とはなにか?」という命題に取り組んだことでしょう。
お釈迦様は、その命題を考え抜かれ、そして一つの答えにたどり着かれました。それは「諸行無常」と「諸法無我」という言葉で表されるものです。この考えによれば、「私」が「私」だと思っているものは、実は私自身の心が生み出しているまやかしに過ぎない、ということです。「諸行無常」とは、全ては移り変わり続けている、ということです。私の身体も心も、常に変化し続けています。そして「諸法無我」とは、そんな変化を続けるものの中に、果たして本当に確かな「私」というものはあるのか。またこの「私」は決して単独で生じたものでもなく、滅することもあり、また私が私の存在の全てコントロール出来ているわけでもありません。それを果たして確かな「私」としてしまってよいのか。実はそうではない、「私」が「私」と思っているものは、誤った認識である、という理解です。
ならば「私」という存在はどうして成り立っているのでしょうか。その答えこそが「縁起」全ての物事はその関係性の上に「たまたま」依って立っているという思想に結びついていきます。「私」が在るのは、ありとあらゆる物事が関係し合い、その一つの帰着点として、この今の私と「仮に」成っているだけ。確かな「私」など、本当はどこにもないのです。
とは言え、そう知らされてもやはりこの身体も心も、「私だ」として認識してしまいます。たとえその認識こそが様々に起こり来る苦悩の根源であると知らされても尚、「私」は「私」として生きていますし、その強い強い自我を薄めていくこともまた一筋縄ではいきません。無我という真実を突きつけられても、我が子の自我への目覚めが嬉しいと感じてしまうこともまた、なんとも倒錯的だなあ、という気もします。
しかし、まだ生まれて100日の息子も、いずれこのような「私とはなにか?」というような哲学的なテーマにぶつかっていくことでしょう。その日が来ることを楽しみに、今はただ素直に我が子の成長を喜びたいと思います。