彼岸寺さんのサイトに初めてアクセスしたのは、当時住んでいたアメリカからでした。たまたま見つけたのか、誰かに教えられたのかは覚えていませんが、シンプルなページに蓮の花のイラストがあり、松圭さん(彼岸寺創設者・松本圭介さん)の文章があったことを覚えています。
自分が生まれ育ち、逃げて来た場所に飛び込んだ人がいる。そして、web上にお寺と名乗ったサイトを作っている。物好きな人もいるもんだと、斜に構えて見ていたことも、いまだに覚えています。京都弁で言うなら「おきばりやす」と。それから20年近い時が経ち、今、これを書いているご縁の不思議。
寺の娘という環境にいる“せい”で苦しんでいると、自分にとっての不都合のすべてを、その“せい”にして、家出をするようにして渡米した私。しかし皮肉なもので、アメリカで暮らし始めたからこそ、ビザのために僧籍を取り、僧籍を持っているからとお葬式を勤め、それをきっかけにして、写経の会が始まり、お寺をつくろう!と、自分の意思とは関係なく、教えにつかまれてしまった…。まさに、「しまった」との思いがします。
こうして、改めて10年近いアメリカでの生活を振り返ると、無駄なことなど何もないのだと、知らされます。実家の寺の事情で京都に帰ってくることになったため、お寺はできていませんが、写経の会は今もアメリカで続いています。
さて、帰国して13年。日本のあちらこちら、そしてアメリカでも法話や講演のご縁をいただき、毎日新聞さんでは映画のコラムを連載中で、本も何冊か書かせていただいています(次回作、ただ今執筆中です!)。時々、テレビやラジオにも出ているので、外向き、つまり発信することに重きを置いていると、思われるかも知れません。
けれども、実際の私は内向きです。日本に帰ってからずっと聴講生として大学や大学院で学び続け、色々な勉強会に身を運んでいるのは、僧侶だから学び続け、聴き続けなければいけないとの思いもありますが、ただ聴きたいというのが正直なところです。
彼岸寺さんのサイトに、初めて訪れたあの日。アクセスした理由は覚えていませんが、理由やその時に感じたことは重要ではないのかも知れません。大事なのは、彼岸寺さんにお参りしたという事実です。見えないけれど、お寺はあるのです。今、あなたがお参りくださっているように。宗派を超え、お坊さんも、お坊さんでない方も、仏教に興味を持つ人たちが、教えを求める人たちが、集う場所。私自身が集い、そしてお育ていただいた、この大事な場所。ご縁をいただき、ありがとうございます。そして開山20周年、おめでとうございます!