【寄稿】僧侶の仕事はAIロボットに代わられるのか

本記事は真宗大谷派・玄照寺ご住職の瓜生崇さんよりご寄稿いただきました。瓜生さんはお寺の住職を務めつつ、仏教書専門の電子書籍出版社「響流書房(こうるしょぼう)」を立ち上げられ、また「浄土真宗の法話案内」というウェブサイトの運営にも携わられるなど、精力的にお念仏の教えを弘める活動に取り組まれています。そんな瓜生さんが、この彼岸寺で掲載されました「ブッダの教えを学んだ人工知能が誕生したとき仏教の未来はどうなるか?」という記事を受けまして、「僧侶」というものを改めて真っ直ぐに見つめ抜かれた記事を書いてくださいました。未来やテクノロジーの進歩に思いを馳せるのも楽しいことですが、こうした地に足の着いたお坊さんがいてくださることは、大変心強い思いがします。どうぞ皆さま、最後までお読みくださいませ。

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私が仏教を学び始めたときに、今日本に伝わっている大乗経典は、お釈迦様の入滅後かなりの時間が経ってから作られたものだと教えられました。
「お釈迦様が直接説いていない経典をその根本にいただく大乗仏教は仏教と言えるのか」これは私達にずっと寄せられ続けてきた批判です。しかし大乗仏教はそれに少しも揺らぐことはありませんでした。なぜなら、仏教はお釈迦様が完成させ、お釈迦様で終わった教えではないからです。
仏教とはなにか。それはお釈迦様が立たれた「生老病死」という私の人生の現実をごまかさず見つめることです。裸で生まれてきて、かならず消え去る幸せを育んで、最後は一人で死んでいく本当の私と真向かいになって生きることです。僧侶はその道を求める者です。
今の日本では本来の僧侶の意味である「出家者」はごくわずかですが、どうにもならない人生の現実に立って、自らの救いを求める者という根本の意味は一つも変わりません。
私は浄土真宗の僧侶ですが、お釈迦様も、私達の宗派の大先輩である法然聖人も、親鸞聖人も、その道を求めた方です。仏教は完成された結論だけを教えるのではありません。そうやってお釈迦様と同じ所に立って歩んできた人たちの歴史そのものが仏教です。だから仏教は人がこの世界に生きる限り終わらないのです。
そしてそのお釈迦様の出した結論を売り物にして生計を立てるのが僧侶ではありません。お釈迦様と同じところに立ち、お釈迦様が向き合ったことと同じことに向き合うのが僧侶です。無論生きる以上は僧侶を「仕事」や「職業」として考えなければならないこともありますが、それは「僧侶」の持つ役割のほんの一部に過ぎません。
その上で、最近この「彼岸寺」でも話題になった問いである、「僧侶の仕事はAIロボットに代わられるのか」について考えてみたいと思います。経済誌などでは「どの仕事がAIに代替されるのか」が話題になっているようですが、それを「僧侶」に当てはめるのはあながち荒唐無稽なこととは思いません。かえって「僧侶」とは何かを考えるいいきっかけになるでしょう。
 

◯すでに「僧侶の仕事」は大部分代替可能

しかしよくよく考えて見れば、AIの飛躍的進歩を待たなくても、すでに「僧侶の仕事」は今の技術で大部分人間以外のものに代替可能です。
読経はテープでも流しておけばいいし、儀式が見たければその道のプロがやったのを撮影してプロジェクションマッピングでもしたら良いでしょう。説法もそうです。往年の名説教を録音したものがいくらでもあるのですから、それを流して聴けばいいだけです。
そんなのAIロボットが代替するのとは違う話じゃないか、と思うかもしれません。しかし、これって「ペッパー」みたいなAIロボット僧侶がやってきて、これらの仕事を完ぺきにこなすのと大して変わりないと思いませんか?
そうは言っても、僧侶への人生や信仰の相談はAIが進歩しなければ代替できないではないかと思うかもしれません。でも、今だって坊さんに人生相談したければ、「ハスノハ」のような僧侶参加のQAサイトから僧侶の集合知を使えばいいのです。
え、それって人間の僧侶が回答を書いてるんだからAIで代替されるのとは別の話だろ!と思うかもしれません。でもAIロボット僧侶に相談したって、やることは過去に様々な僧侶の書いた膨大な回答例や文章群をデータ化したものから、解析してそれっぽい答えを組み合わせて答えるだけでしょう。AIって劇的に進歩しているように見えますが、実は今もその程度のものなのです。
つまりAIを待たなくてもとっくの昔に機械は僧侶の仕事を代われるのです。しかし、そんな「僧侶」の姿は今に至るまでほとんど誰も求めていないでしょう。となると、その発展版である「AIロボット僧侶」が出現しても状況は変わらないでしょう。なぜでしょうか。
 

◯僧侶の役割

私は浄土真宗の一末寺の住職ですが、布教使として各地で法話もします。お寺に法話を聞きに来る方々の中には、私の倍以上人生を生きている方も少なくありません。私は若造で、人生経験も乏しく、おまけに大学で学んだのは仏教ではなく電子工学です。おそらく、人工知能が法話を組み立てるようになれば、私がするより余程洗練されたものが出来ているでしょう。
でもそんな私が法話に立てるのは、別に話がうまいからではありません。自分自身の歩む仏道の歩みとして、そういう役目を頂いただけのことです。一番前で話をするのは、私が一番前で仏教を聞く必要があるからです。私は「人に話す」という縁を頂いて仏教を聞いたというだけなのです。
法話は僧侶が指導者として仏教のウンチクを語る場ではありませんし、お悩み相談に仏教ノウハウで答える場でもありません。聞く人と話す人が一緒に仏道を歩む場です。法事法要もそうです。この悲喜交交の人生を一緒に歩み、私達の力ではどうすることもできない生老病死の現実に向き合い、その中で仏の教えをともに歩む一人として呼ばれているのです。
実は僧侶という立場は、縁があって「僧侶」という役回りを頂いているだけなのです。僧侶とそうでない人の境界線はそのくらいのものでしかありません。それが私達が大事に受け継いできた、日本の在家仏教のすがたです。
 

◯誰も代わってくれない道

だから、僧侶をAIロボットが代替するのではないか、私は僧侶として代替出来ない仕事をしているか、という問いがあれば、私は明瞭に答えられます。
「私の人生が私以外に誰も代われないように、僧侶は何者も代替することは出来ません。」
人工知能がすべての仏典を網羅してそれを体系的に把握したとしても、完璧に法話や法要をこなすロボットが誕生したとしても、それが私の仏道を代わりに歩んでくれるわけではないでしょう。仏教の歴史を重ねてきた歴代の僧侶が誰しもそうであったように、僧侶というのは共通の人生の課題を背負って迷いつつ生きる一人の求道者です。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説があります。僧侶を長くやっていると、いつしか自分が蜘蛛の糸を極楽から垂らすお釈迦様のように、仏教の教えを持って人や社会を善導するのが仕事だと勘違してしまうこともあるかもしれません。
しかし、僧侶はか細い蜘蛛の糸に必死にしがみついている人間の一人です。カンダタはこの私です。一体誰がそんなもの代わってくれるのでしょう。仏教が問題にしているのはこの必死に蜘蛛の糸にしがみつく「私」の存在そのものです。
もし僧侶が仏道を歩む「私」という存在を抜きにして、経典を読み葬儀を執行しお布施をもらって人々を指導するだけのものだとしたならば、その「仕事」がAIロボットに取って代わられても誰一人困らないでしょうが、それはもう「僧侶」とは言えません。
それでも、AIが発達すれば自我を持つようになり、私達と同じように生老病死の事実に向き合い、その解決を求めて僧侶となるのではないか、という見方もあるかもしれません。
もちろんそういう可能性は否定しませんし、AIが悟りを開いたっていいでしょう。しかし、それをAIが僧侶を代替したとは誰も思いません。共に仏道を歩む「衆生」が一人生まれただけです。
 

◯ともに歩む

私のお寺は滋賀県にあります。滋賀県は全国的にも兼業寺院が多いところです。お寺だけでは生活できないので、私を含めて他の仕事を兼ねながら僧侶をしている人が大半です。
つまり僧侶と言っても、みんなと一緒に朝起きて電車に乗って仕事して帰ってくる、ただのサラリーマンです。会社で机並べて営業の電話しているような人が、法話し、法要をつとめ、葬儀を執行するのです。
こういう言い方は失礼かもしれませんが、兼業の住職は普段仕事をしているわけですから、儀式や法話の研鑽は専業の僧侶と比較したら十分ではないかもしれませんし、お寺の行事や社会活動にも限界があります。AIロボットが僧侶の仕事を置き換える理由がその高い能力だとしたら、私のような兼業住職は真っ先に置き換えられる対象です。
しかし私は思います。これからの寺院減少社会の中で、おそらく最後まで残るのはこういう寺ではないかと。それはこれらの僧侶は、経済的にメリットがあるわけでもないのに様々な葛藤の中で寺院を継承し、だからこそ自分が僧侶という特別な立場であることを頼りにもせず、ただ生活の中の仏道を地域の人と「ともに歩む」存在だからです。
私達が長い時間をかけて育んできた日本の仏教とは、そういうものではないかと私は思います。だから、「僧侶の仕事はAIロボットに代わられることはない」のです。
◯瓜生崇
滋賀県の大谷派のお寺のネコ好き住職です。好きな動物はもちろんネコ。大事なことなので二度言いました。
彼岸寺 編集部

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