おーい、仏教。愛は無常だなんて言うなよ!彼岸寺代表・日下賢裕さんが振り返る「お坊さんの青春時代」

お坊さんや仏教者へのインタビュー(あるいはおしゃべり)から、身近な言葉で語られる仏教を読者と共有する連載「お坊さんといっしょ」。ひさしぶりの更新は、「彼岸寺」代表、ケンユウさんこと日下賢裕さんが登場。「青春編」と「念仏編」の2回に分けてお届けします。

 ケンユウさんと「彼岸寺」の出会いは12年前。「彼岸寺」を立ち上げた松本紹圭さんと西本願寺伝道院での布教師課程において、寮でたまたま相部屋になったのがご縁だったそう。当時のおふたりは24、5歳という若さ……今はお二人とも二児の父です。時の流れを感じますね。 まずは今回の「青春編」、ケンユウさんが20代の頃に感じていた仏教のこと、彼岸寺に感じた可能性について振り返ってお話いただきました。

若い頃は仏教があまり好きになれなくて

――ケンユウさんは、大学は広島大学でしたよね。宗門校への進学は考えなかったんですか?
大学生の間くらいは好きなことをさせてほしいと親に頼み込んだんです。「国立大学ならいいけれど、ダメなら龍谷大学に行きなさい」と言われて。高校時代は「お寺はいやだ」という気持ちがあったので、龍谷大学に行きたくない一心で勉強をがんばりました(笑)。
歴史が好きだったので史学系の学科のある大学をと思うと、実家のある石川県からほどよく遠い広島大学がちょうど良かったんです。
――じゃあ、学生時代は仏教やお寺のことはしばし忘れて過ごしたのでしょうか。
そうですね。でも、親に薦められて「仏教青年会」という集まりには2、3回顔を出しました。お寺出身の人がいるのかと思うとそうでもなく、一般の学生が先生と本の輪読会をするサークルのようでした。そのとき輪読した本、なんだったと思いますか? 亀井勝一郎の「愛の無常について」ですよ。まだ若かった私は、その本を読むのがスゴくイヤで。
――もしかして、「愛は無常だなんて言わないで!」と思ったんですか(笑)。
はい(笑)。仏教って、若い時代に好ましく思う価値観をすべて否定するというか……。若い頃は、仏教のすごく冷静なところがあまり好きになれなくて、仏教を学びたいと思えませんでした。「人生は苦である」とか言われたら、何のために生きているのかわからないじゃないか!みたいに思ったりしてね(笑)。
――たしかに。仏教は、ロマンチックに冷や水をかけるようなところがありますね。もしも今、20歳の青年が「愛は無常とか言われたくないですよ」と言ってきたら、ケンユウさんはなんて答えますか?
あはは(笑)。その気持ち、わからなくないから「そうだねえ。そう思ってたよ」と言うでしょうね。「でもまあ、10年くらい経つとまた感じ方も変わると思うし、仏教が言っていたこともわかってくるようになると思うよ」って。

西洋哲学を経由して再発見した「仏教のスゴさ」

――20代のケンユウさんが、仏教を好きではなかったというのは意外でした。いつから、仏教に惹かれるようになったんですか?
大学2、3年生の頃かな。当時、哲学科の友人が多かったから、夜にお酒を飲んで熱い哲学トークをすることがよくあってね。すると、西洋哲学が近代にやっとたどり着いたようなことを、2500年前のお釈迦さまがすでに言っていることもあったりして。そこで、改めて仏教を見直したんです。仏教、捨てたもんじゃないなって。
それに、哲学トークをしていると、意外と仏教は正しく知られていないんだなと感じることもあって。初めて、仏教を正しく伝えるお坊さんの役割って大事だな、お坊さんになるのも悪くないなと漠然と思いはじめました。
――まずは、思想としての仏教に目覚められたんですね。一方で、お寺で生まれ育った子どもとしては、お坊さんの仕事はどう思っていたんですか?
うーん、子どもの頃は父を見ていて「お坊さんはお参りするもの」だと思っていたんですよね。後々になって、お坊さんは教えを伝えるという大事な役割を担うことも気づくのですが、小さいときには父が法話する姿はあまり見なかったし、聞いてもよくわからなかったのだと思います。
――お坊さんの役割について考えるようになったのは、いつ頃からだったのでしょう。
大学卒業後に中央仏教学院で2年間学び、伝道院で研修を受けてからですね。改めて「仏教をちゃんと知ってもらいたいなあ」という気持ちを持つようになったのは。
学生時代の体験もありましたし、メディアなどではどうしても本来の仏教とズレたところに興味を持たれがちですよね。「ご利益」「お守り」「願いがかなう」とか、そこじゃないだろというのはすごく思っていて。お札やお守りを出さない浄土真宗は「葬式仏教」だと極め付けられるのですが、それもまた違うなあと思っていたんだと思います。
その思いもあって、まつけい(松本さん)に「彼岸寺、一緒にやらない?」と誘われたとき、参加しようと思ったんでしょうね。

ゼロ年代のネット×若い僧侶の情熱が生んだもの

――今、改めて振り返ると「彼岸寺」や「メリシャカ」は、お寺からいったん外に出てふたたび戻るまでのお坊さんのモラトリアム、あるいは副住職時代という比較的自由な時代に、僧侶としての自らを研鑽する場でもあったのかなと思います。
2000年代、インターネットがいよいよ本格的に普及したことに対する希望を感じたんだと思うんですよね。全く知らない人たちに向けて、オープンなやり方で仏教を届けられることに、ものすごく可能性を感じたんじゃないかな。
たぶん、まつけいはそれをいち早く感じた一人で。だから、ブログで自分がお坊さんになっていく日々を日記に書いて公開したんだと思います。「メリシャカ」も、ネットを使って浄土真宗を広めたいんだ!という思いで始まって。たしか「mixi」経由で「一緒にやりませんか」という連絡が来たんですよね。
――当時のSNSといえば「mixi」でしたね、なつかしい! そう考えると、ソーシャルネットワークがお坊さんの情報発信に与えた影響も大きいですね。
はい。「twitter」や「facebook」が始まって、まったく知らないお坊さんと知り合うことができるようになりました。宗門校に行かなかった私は、浄土真宗のお坊さんと知り合う機会は限られていました。龍大に行かなかったということは、本願寺派僧侶としてはアウトローな立場ですから。
――ネットの普及によって、超宗派でのお坊さんネットワークも生まれ、若いお坊さんのなかで宗派を超えて志を共にする仲間を見つけようとする動きも生まれたのかなと思います。
ほんとに、ネットがあったおかげで助かったなと思っています。龍大出身の人の話を聴くとうらやましいなと思うこともありますしね。真宗学のゼミに入っていれば、指導教官になってもらえる先生がいたでしょうし…。でも、もしあのとき龍大に進んでいたら仏教が嫌いになっていたかもしれない。一般大学に行ったおかげで、仏教の良さに気づいたのかもしれませんしね。(「念仏編」に続く

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。