2008年4月 3日

A. およそ75,000です。

日本にはどのくらいのお寺があるのか、ということですが、総務省統計局のデータ(宗教・23-22のA)に依りますと、仏教系では75,924のお寺があり、その他の施設が1,830あるそうです。

で、都道府県別でお寺が一番多いのはどこか、ということですが、これも同じ総務省統計局のデータ(宗教・23-22のB)に依りますと、愛知県が5,145と最も多く、ついで大阪府、3位が兵庫県、4位が東京都、5位が滋賀県、6位が京都府となってます。ただしこの数字は、宗教団体の数であり、純粋に寺院だけの数ではないようです。

こちらのブログでは、ソースは定かじゃないですが、寺院数では5位が京都、6位が滋賀となってます。

それにしても、全国で、75,000もの寺院があるんですね。よく寺院の数はコンビニよりも多い、なんてことを耳にしますが、コンビニは全国でおよそ40,000店舗で、寺院数のほうが、相当数上回っているようです。ですが、コンビニほど、人々のお役に立てているのか、と考えると、少々複雑な思いがいたします。

都道府県別では、なるほど、愛知県がトップですか。ちょっと意外な気がいたします。なにか理由があるのでしょうか。京都や大阪、滋賀が多いのは納得ですが、奈良が意外と少ないようで、ブログのほうのデータでは19位になってますね。これまた意外です。

こういうデータも、調べてみると、いろんな発見があって、面白いものですね。

2008年4月 3日

A. 歴史上に存在した人間、ではありませんが…

あみださま、つまり阿弥陀仏という仏様は、人間だったのですか、というご質問ですが、これは非常に難しい質問です。宗派によってもいろいろと考え方も違ってくるかと思いますしね。それでも、大まかにですが、私の思うところを述べさせていただきます。

まず、阿弥陀仏について書かれたお経「仏説無量寿経」を読みますと、あるところに法蔵という名の王子がおり、世自在王仏という仏様の説法を聞いて、仏門に入ることを志し、四十八の誓いを建てて、長い長い時間修行する事で、その誓いのとおりになるように完成し、阿弥陀仏という仏となった、と書かれております。では、阿弥陀仏となる前の法蔵というのは人間なのか、と言いますと、人間のように経典の中に書かれておりますが、実際に歴史上に存在した人物ではありません

ではなぜ人間のように書かれているか、なのですが…ここからがちょっと、難しいのですけども、そもそも、阿弥陀仏という仏様も、釈尊のようにこの世界に肉体を持って仏となったような存在では、ないんです。

じゃあどう言う存在なのか、と言いますと、阿弥陀仏という存在は、釈尊のさとりの内容であり、全ての命にはたらく「力」と言うか、ありとあらゆる命を繋いで、個々の命と全ての命を存在せしめる大きな「いのち」とでも言いましょうか、目には見えないし肌で感じる事も出来ないが、確かに在る、そういう大きな「はたらき」に、アミダ(=amita、「時間的・空間的無限」)という名を冠した仏として、釈尊が表現したわけです。つまり、無限ともいえる大きな「はたらき」は、言葉にはできないものであるけれど、それを人に伝える為に、仮に、名前や姿・形を与えた、と考えればよいかと思います。

ちょっと俗っぽい例えかもしれませんが、特定の人の事が気になって、好きだと感じたり、その人の事を大事だとか、いとおしく思ったりする「気持ち」は、目には見えませんが、その感情に「愛」という名前を与えるのと、同じような感じでしょうか。そして、「愛」があれば、それ自体は目には見えなくても、何らかの「はたらき」となって現れてくるものでしょうしね。

話が逸れましたが、法蔵という人物は、その阿弥陀という「はたらき」が生じる為の、因となる存在です。仏教では因果を説きますから、阿弥陀という「果」が生じるためには「因」となるものが必要なわけです。しかし、阿弥陀という「はたらき」が大きすぎて言葉に表せないものですから、当然その阿弥陀という果を導く因となるものも、とてつもない大きなものでありますし、不可思議なものであり、言葉にし尽くす事はできません。そこで、法蔵という人物が、無限とも言えるほど長い時間をかけて誓いを建て、それよりももっと長い時間をかけて修行して、そしてその誓いを完成させる事で、阿弥陀仏という仏となった、という言わば、擬人化させた例えを用いて、阿弥陀という大きな「はたらき」を説かれたわけです。

ですから、あみださまはもとは歴史上存在した人間だった、というわけではなくて、釈尊が得たさとり、真実の内容そのものであり、それを言葉として人に伝える為に、法蔵という擬人化したキャラクターを用いて表現した、と考えればよいのかなと思います。

2008年3月27日

A. ブッダであり、ブッダのお弟子さんたちです。

お経は誰が作ったの、とのことですが、そもそもお経とは、ブッダの説かれた教え、説法を文字にしたものです。が、ブッダ自身が、それを書き記したわけではありません。ブッダは、お弟子さんはもちろん、多くの人々に教えを説いていかれましたが、文字には残されませんでした。ブッダがおられた時は、それでも良かったのですが、ブッダが亡くなられた後、後世に教えを正しく広め残す為には、やはり文字にする必要があると、お弟子さんたちが集まってそれぞれに聞いたブッダの教えをまとめて、文字に記していきます。それが、最初のお経です。

ですから、お経に書かれた内容は、ブッダの教えであるので、教えそのものはブッダのもの言えますが、実際文字に興してお経の形を作ったのは、お弟子さん、ということになるでしょう。

そして、今現在日本で使われているお経は、インドの言葉で書かれたお経を、漢訳された物です。そこでも多くのお坊さんが漢訳作業に携わっていますが、高校の歴史などでも出てくる有名な方を挙げますと、鳩摩羅什や、『西遊記』で有名な玄奘三蔵法師がおられます。ちなみに、三蔵法師とは、お経には、ブッダの教え「経」、戒律を記した「律」、教えを注釈した「論」の3つのタイプがあり、それをまとめて「三蔵」といい、その3つを修めたお坊さんを三蔵法師、というわけで、玄奘さんの他にも三蔵法師と呼ばれる方はおられます。

と、話が逸れましたが、そういう漢訳作業を行なったお坊さん達も、ある意味では現在のお経を作った方、と言えるかもしれませんね。

2008年3月27日

A. たまにありますし、ありがたいことだな、と思います。

この方は「私は子供時代には祖母に連れられて実家の菩提寺にお参りに行ったりしていたのですが、長い間お参りに行っていません。 旅行などではお寺に行ったりします」ということで、昔よくお寺に行かれていて、またお寺へ伺いたい、とのことですが、それはもうお寺としては、ありがたいことですし、お坊さん冥利に尽きる事であるな、と私は思います。

ウチのお寺にも、たまにですが、今は遠くに住まわれている方が、実家に帰ってきたときに、お寺に顔を出してくださるということや、ふらっと、お寺にお参りさせてくださいと来られる方がおられるのですが、やはり大変嬉しいものです。おそらく、どんなお寺さんも、そう言うことがあるのは嬉しい事であるかと思います。

ですので、どうぞ、気兼ねなくお寺へ行かれてはどうでしょうか。お寺は、たいてい留守、ということがなく、誰かしら人がいると思いますので、いつでも大丈夫だと思います。
ただ、住職が不在であったり、ご法事などを勤めている事もありますので、前もって連絡すると、なお良いかもしれません。

お寺は、お坊さんが修行する為の施設であると共に、人々に仏法を伝えるために開かれた施設でもありますから、また是非、行かれてみてくださいね。

2008年3月20日

A. 一般的には避けられるようですが…

香典に、新札を使っても良いか、というご質問ですが、一般的なマナーとしては、新札は使わないといわれているようです。それは、新札を使いますと、前もって人が亡くなる準備をしていた、と遺族の方々に不快な思いをさせることがあるため、使う事を避けるそうです。つまり新札を使わないのは、「急なことで準備できませんでした」という気持ちを表す意味のもので、特に宗教的な理由があるわけではありません

ですが、香典は、お線香をお供えする代わりとして仏前・霊前にお供えするものでありますから、絶対に新札を使ってはいけない、というわけではありません。ただ、遺族の気持ちを汲んでのものですから、自分が新札を使われたら嫌だな、と思われるのでしたら、そうすべきではないかと思います。

もし手元に新札しかない場合は、そのまま使っても結構ですし、新札だと不快に思わせるかな、と思われたら、そのお札を一度折って、折り目をつけて使っていただければ良いと思います。

2008年3月20日

A. 絶対にダメ、という事は無いかと思いますが、それなりの反対はあるかもしれません。

お寺の方が、キリスト教系の大学…どこかで聞いた話だと思ったら、彼岸僧のyuzukiさんがICU卒でしたね。彼はどうだったのか、気になるところです。

それはさておき、どうでしょうね、まあお寺さんや親御さん次第、という部分もあるかと思いますが、一般的に考えれば、やはりそれなりに反対に合うといいますか、なぜその大学に行きたいのか、その大学じゃないといけないのか、ということは聞かれるかと思います。

とは言え、お寺の生まれだからといって、仏教系の大学に行かなくてはいけないわけではありませんし、仏教を大学で学ばなくてはいけないというわけではありません。ですから、キリスト教系の大学に、勉強したい事があるならば、私はそれはそれで良いと思います。キリスト教系の学校であっても、神学だけを学ぶわけではないですし、ね。

それに、仏教以外の宗教に触れるということも、私は有益な事であると思います。他の宗教を学ぶ事で、視野が広がったり、宗教的感性が深まったりするでしょうし、比較によって、仏教の理解も深まりますからね。

ですから、お寺の方が、キリスト教系の大学に行く事も、私は絶対にダメだ、ということはないかな、と思います。まあもちろん、家やお寺の事情もあるかと思いますので、その辺は、ご両親としっかり話し合いをすることが、一番大切ではないかな、と思います。

2008年3月13日

A. お茶を出していただくだけでも十分です。

お彼岸にお坊さんを招いて、お経をあげていただいた後の応対、ということですが、そうですね、ご法事のように親戚の方々も集まってお参りをし、その後皆さんで会食などされるような場合、お坊さんにも声をかけてみられると良いかもしれません。ただ、お坊さんのほうも、その後の予定などがある場合もありますし、お参りをお願いする段階で、会食の事もお話して、大丈夫なようであれば、というくらいで良いでしょう。

そのように、親戚が集まって会食をするわけでもないけれど、お坊さんとゆっくりお話をしてみたい、と思われるようなことが、もしあれば、その場合も、お参りをお願いする時に、一緒にお食事いかがですか、と気軽に声をかけてみて良いと思います。

もちろん、必ず食事を用意しなければいけないわけではありません。お茶を用意していただけるだけでも、十分です。お坊さんを呼んでお参りをしてもらう、という事で大切なことは、お参りをしてもらう事自体もそうですが、なかなか普段接する事の無いお坊さんと会話したり、いろいろ質問したりできるいい機会、と言うところにもあると思いますので、折角ですから、少しでもそう言う時間が取れるとよいのではないかな、と思います。

2008年3月13日

A. あるようです。

即身仏についてですが、今現在、20体あまりの即身仏が祀られている、とのことですので、実際にあるものと言えるでしょう。

で、この即身仏ですが、入定(にゅうじょう)という思想からくる物で、この修行によって、生死を超え、肉体を残したままで永遠の命を持った仏となるための方法として考えられていたようで、日本だけでなく、中国でも行なわれていたとされます。

で、即身仏になる方法ですが、二つの段階に分かれています。まずは、木食修行とよばれる段階で、穀物を断ち、木の皮や木の実だけを食べて、読経や坐禅などの修行を続け、徐々に体の脂肪分や水分を落としていきます。そして、次の段階として、土を掘って、石を組んでスペースを作り、そこに行者が入る木箱を納め、呼吸できるように竹筒を土から出して、その中で断食状態のまま、行者は鐘を叩きながら読経を行ないます。そして、その声や鐘の音が聞こえなくなった時、入滅したと判断されて、一旦掘り出され、その後また土中に埋められるそうです。そして1000日の後、掘り起こすと、ミイラ化し即身仏と成っている、と。

いやはや、実に壮絶な修行ですね。しかしなぜこのような事を行なったか、と言うことですが、自らの命を賭して仏と成ることで、世の人々を救う為、だそうです。こういうことを思うと、同じ僧侶でありながら、到底真似できない事だなと、頭の下がる思いがいたします。

と、ゴチャゴチャ書きましたが、百聞は一軒にしかず。実際に見に行かれてみるのが一番かもしれませんね。是非、私もお参りに行きたいものです。

2008年3月 6日

A. 一応ありますが、それほど厳密な決まりはありません。

お墓に供えるお花に決まりがあるか、と言うことですが、基本的には、仏さま、お仏壇にお花をお供えする場合と同じと考えてよいでしょう。

では、仏さまやお仏壇に供える花には、どのような決まりがあるのか、と言うことですが、一つは生花であること。もう一つは、毒のある植物は避ける、と言うことです。毒のある植物を避けるのは、そもそも仏様にお花をお供えするのは、仏さまの世界である浄土の相(すがた)や、仏さまの慈悲の心を表す、と言う意味があります。ですから、仏さまにお供えする花でありながら、仏花は私たちの側に向いています。そして、浄土には毒のある植物はないということで、お供えしないわけです。

あとはそれほど厳密な決まり事はありませんので、その2点に気をつけていただければどんな花でも大丈夫かと思います。

ただ、近年、マナーと言うことを気にしすぎて、縁起の善し悪しや、これは避けたほうがいいとか、亡くなってしばらくは、白を基調として、派手な色の花は用いない、というような事が言われたりしますが、これはお悔やみの気持ちを示すような意味はあっても、宗教的な理由があるわけではありません。

花はどんな花であっても、その命を美しく輝かせている尊いものですし、そこに縁起が善いとか悪いとかを考えるのは、私たちの都合であったり、真実に暗い迷いの心から来るものです。それになにより大切なのは、花の善し悪しを判断する事や、マナーや形式を気にし過ぎることではなくて、亡くなった方や仏さまにを大切に想い、お花を供えたいと思う、その気持ちですからね。

2008年3月 6日

A. 瞑想をどう考えるかによって変わってきます。

瞑想と坐禅。確かに同じようなイメージはありますね。この二つは全く別の物、というわけではなく、お互い関連のある物ですが、瞑想というものをどう考えるかによって、瞑想と坐禅との関係は変わってまいります。

一般的に瞑想と言いますと、心を静め定めたり、特定の物事に精神集中をしていく物と考えられます。このような瞑想は、ほとんどの宗教に広く見られるもので、実に様々な方法があります。

しかし、仏教における瞑想は、自らの心や一つの物事に集中するだけに留まらず、観察(かんざつ)・観行とも呼ばれる、あらゆる物事のありのままの在り方、真理を見つめていくことを行ないます。この真実を見つめる「智慧」を求めるのが、仏教における瞑想の大きな特徴です。

と、瞑想を二つの側面に分けてみましたが、仏教では前者を「止」、後者を「観」と呼びます。坐禅は本来、この「止」と「観」の両方を行なうものです。ですから、瞑想を「止」の段階に留めて考えるならば、瞑想と坐禅とは異なるものになります。「観」の所までを瞑想と考えるならば、坐禅はその一つの方法であるという関係になります。

もちろん、「止」と「観」とを行なう仏教的な瞑想は、坐禅だけではなく、天台宗で行なわれる、90日間堂内に篭って、座臥することなく、ひたすら阿弥陀仏の周りを念仏しながら歩き回る「常行三昧」という修行なども、一つの瞑想法と言えるでしょう。

ですから、瞑想と坐禅とに違いがあるというよりも、瞑想の目的が、ただ精神集中にあるのか、はたまた真実の智慧を得てさとりをひらくためのものか、というところで違いが出てくると言えるかと思います。

アニメ一休さんで、お坊さん同士が「そもさん、せっぱ!」と問答を掛け合うシーンがありますね。この連載では、ふだん聞きたくてもなかなか聞けないお寺や仏教への素朴な疑問に、お坊さんがわかりやすく答えます。読者のみなさんからの質問も、お待ちしています!
(なおご質問は、メールでinfo@higan.netにお送りください。みなさまからいただいたご質問の中からいくつかを取り上げさせていただきます。)
ケンユウ
石川県のとある温泉街に住む僧侶。みなさんからの質問に、わかりやすく答えます。
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