彼岸寺読者の皆さまこんにちは。夏はお化けや妖怪のハイシーズンですが、いかがお過ごしでしょうか。
お化けや妖怪の雰囲気というものはひんやりとしていて、涼を届けてくれることから、夏に肝だめしや怪談を行なうのでしょう。
この夏、手っ取り早く妖怪の「涼」に浸りたい方にオススメなのが、NHK Eテレで放送中のTV番組『水木しげるの妖怪えほん』です。水木しげる先生の妖怪の世界観を上手にアニメーションで表現していて、解説の佐野史郎さんのナレーションもまた淡々と涼しげで良い。
丁寧ながら短くまとめられており、お茶の間で妖怪の雰囲気を味わうにはもってこいの番組になっています。私は録画して娘と繰り返し観ています。
現代における「妖怪の生みの親」、水木しげる
妖怪文化を昭和の時代に花開かせた水木先生は、現代における「妖怪の生みの親」といっても過言ではありません。江戸時代の絵師、鳥山石燕が描いた妖怪たちを漫画のタッチで蘇らせ、巷間に伝わってきた妖怪たちに姿を与え、昭和〜平成にかけて妖怪という「共同幻想」を「キャラクター」として国民に浸透させたのです。
そんな水木先生が、2015年11月30日に逝去されました。漫画家でありながら「冒険家」という肩書きも自称して世界各地を飛びまわり、各国の「彼岸」情報を届けてくださっていた水木先生。いよいよ彼の地の冒険に旅立たれたのだと、私も一ファンとしてお見送りしました。
亡くなられる少し前の2015年7月にひとつの驚くべき手記が発見され、週刊新潮に全文掲載されました。生前にご本人があまり語られていなかったという「出征前」の水木青年の手記『水木しげる出征前手記』です。
ご存知の方も多いかもしれませんが水木先生は第二次大戦の折にラバウルへ出征し、生死をさまよう大変な経験をされ、右腕を失った状態で復員しました。(その過酷さはいくつかの自伝や『総員玉砕せよ!』等の作品で窺い知ることができます。)
戦争を知らない世代である私たちにとって、戦地での体験はおろか、出征前の心境までは想像するしかありませんが、少し思いを馳せただけでも、これ以上の苦しみが世の中にないであろうと容易にわかります。
その苦しみが書かれた生々しい手記が、亡くなられる少し前に見つかったということは、(今思えば)水木先生からのメッセージのような気さえします。
若き 水木しげるの悩み
その内容はといえば、戦地へ赴く前年に「あと一、二年すれば確実に”死”がくる」と、わかっている二十歳の武良茂(本名:むらしげる)青年が、およそ一人の人間の頭脳とは思えない速度で思考し、悩み、とにかくペンを走らせた渾身のアウトプットでした。
どんな思想をもって、どんな宗教を信じて、何を学んで何を為すのか?「すべき」や「やらねば」がいくつも溢れ出てくるのに、もう自分には時間がない。
「なんという時代だ!」そんな無念の呻きから自我の滅却を目指そうとするも、決して自我を滅することの出来ない苦しみ。
「多だ。多なる故に悩む。悩むが故に一たらんと欲す。一たらんと欲すれど本性が多なる以上、死する決意あらざる限り、一とは成り得ない。」
という実に仏教的な悩みを持ち、仏教に救いを求めようする姿勢も垣間みえます。
手記ではエッカーマンの『ゲーテとの対話』で描かれるゲーテの思想や生き方に大いに共感していることがわかりますが、実際に戦地に岩波文庫の上・中・下巻を持ち込んだそう。たった三冊の”生きる糧”です。
生への執着、幸福への願い
戦地での武良茂青年は「変わり者」でした。上官の言うことを聞かずに殴られ、それでも自分を曲げずにいたため、より前線へと送られてしまう。戦地において、自分も同じように振る舞えるか?と何度も問いかけてみますが、それは難しい。きっと出来ない。
武良茂青年の反発は「やけっぱち」には見えません。とにかく「生きる」ことへの執着は強いが、イコール「上官に従うこと」ではないだけ。そう思って行動までできた点が武良茂青年の常人離れした強みと言えましょう。
更には現地の住民と仲良くなって「パウロ」という名前までもらい、戦後は本当に永住しようかと迷うのです。自分だったらすぐにも復員したいだろうと想像するので、この迷いは意外に思えました。
しかし(深読みかもしれませんが)、武良茂青年が「本当の幸せとは何か?」について、突き詰めて考えたからこその逡巡ともとれます。
このような青年兵は恐らく稀有でしょう。自伝漫画などでは「のんきな性格」が幸いして生き残ったように描かれていますが、出征前の手記を読むと、少しキャラクターが噛み合わない。戦地での行動は「のんきな性格」に見えながら、実は隠れて『ゲーテとの対話』を熟読し、ゲーテのような高潔な魂でありたいと願い、努力をし続けていたのではないかと思えるのです。
出征前に「多なる故に」悩んでいた武良茂青年は、戦地においても自我を滅することができず、どうしても「多なる故に」、復員して『水木しげる』として戦地の悲惨さを伝える作品を残すことができたのではないでしょうか。
「多」であることが許される時代に
武良茂青年の大きな憧れはゲーテでしたが、彼が探求した「多」の中にはお釈迦様やキリスト、ニーチェや漱石も含まれていました。人物だけではなく、芸術や自然科学もあった。
そういった「参照可能な知」をたくさん携えていることは、戦下という混乱において、自我を失わないための支えとなっていたのではないかと推測します。さらに地続きである『水木しげる』という人生も、「多なる故に」貧しくとも心折れずに好きなことを続けられ、作品がヒットしても「多なる故に」我を見失わずに好きなことを続けられ、幸福なまま旅立たれたように見えます。
「多」であることは、前回の記事の結びで触れた「俯瞰の目」を増やすことに他なりません。
彼岸寺読者の皆さんも、気づけばそれぞれの「俯瞰の目」を持っているはずです。彼岸寺は「俯瞰の目」のひとつとして仏教を提案するメディアですが、この連載ではもうひとつ、「妖怪の目」を提案していきたいと思います。よければまたお付き合いください。(つづく)
[amazonjs asin=”4040820495″ locale=”JP” title=”戦争と読書 水木しげる出征前手記 (角川新書)”]