「そもさん、せっぱ」が再スタートして数日が経ちました。twitterで、すでにいくつものご質問が寄せられ、いろんな方にご回答をいただいており、私も嬉しい限りです。
さて、そのお寄せいただいたご質問とご回答のやり取りの中から、ワタクシ賢裕がコラムを担当させていただくわけですけれども、第一回目のコラム、やはり一番初めにいただいたご質問を取り上げてみたいと思います。
その記念すべき第一号となったご質問は、「TVや雑誌などで「オーラ」という言葉をよく耳にしますが、仏教にはオーラという概念はありますか?」というものでした。なるほど、確かに「オーラ」という言葉、近年よく耳にするようになったように思います。「あの人オーラがあるね」のように、私も「オーラ」という言葉を使った経験があります。
けれど回答の中にもありましたが、この「オーラ」という言葉、概念がハッキリしません。
回答いただいた方それぞれ個人個人の思われるところのご回答からも、
“聞いたことないので定かではありません”というご意見や、
“スピリチュアル業界で言う「オーラ」(体から出る色のついた縁取りで感情や健康状態で色が変わる)はありません。身光が近いかもしれません”というご意見、
“後光はそれに当たりませんか?”というご意見など、様々でした。
これは「オーラ」という言葉を、どう定義するかで変わってくるものなのでしょう。
定義を厳密にして、人が発するスピリチュアルなエネルギーを「オーラ」としてしまえば、それは仏教的ではありませんし、人の持つ雰囲気や迫力、気配というよ うに定義を広くすれば、悟りをひらいた「ブッダ」の体から溢れ出る尊い雰囲気を光として表現した「後光」や「身光」というものは仏教の中に見られる「オーラ」的なものと言えるかもしれません。
私個人の意見を言わせていただくならば、「オーラ」というものが無いとハッキリは言い切れません。
自分の目に見えない、肌に感じることができないからと言って、それが無いものだとしてしまうのは、少し乱暴ですからね。
目に見えたり感じたり出来ないレベルで、「何か」ある可能性は否定しきれないと思うのです。
けれど、仏教的に言えば「だから何?」なのです。「オーラ」というものが有ろうが無かろうが、そんなことは仏教においては重要なことではありません。
ご質問は、ご友人が”あなたの「オーラ」はオレンジ色と診断された”というところから、だそうですが、オレンジ色の「オーラ」を持つことにどんな意味があるのでしょうか?
血液型や干支、星座などもそうですが、私たちは人をいくつかのタイプに分類して考えるのがなぜか好きなものです。
けれど、自分のタイプを型に嵌めたり、そこから一種のマニュアル化を生き方に施したとしても、それで人の抱える問題が解決されるわけではないでしょう。
そしてもう一つ。「有る」・「無い」というところにとらわれてしまうことを、「有無の邪見」といいます。
「有る」ことにとらわれた考え方も、「無い」ことにとらわれた考え方も、どちらも正しい物の見方ではないということです。
なぜなら「有る」・「無い」と物事を両極端に分けて考えても、答えは人の都合や立場によって変わってしまうからです。
大切なのはそういうよく分からない事象の有無に惑わされないこと。
「有る」とか「無い」とかいう答えの出ない事柄に執心しても、結果として苦しみを生むだけです。
それよりも「今、自分が生きているこの生命を、より良い方向へ向けていきましょうよ」というのが、仏教の教えで大切な事であると思います。
ですから、仏教に「オーラ」という概念が有るかどうかということよりも、仏教は「オーラ」のような物の存在を意味あるものとして説く教えではない、と考えるのが良いのではないでしょうか。
その他、興味深い回答には以下のようなものがありました。
やりとりの詳細につきましてはTogetterにまとめてありますので、そちらもご覧ください。
http://togetter.com/li/94086