お正月休みに読みたい!2017年仏教関連本ベスト5

今年も数多くの仏教関係書が刊行されました。できるだけ多くカバーしようと思いながら、わりとたくさん読んできました。今回は、そのうちの個人的ベスト5を紹介したいと思います。

あまり選り好みせずに多種多様な本に目をとおしていると、数ページで挫折してしまう、微妙な本がある一方、面白すぎて、過ぎ去る時間も周囲の人びとの存在も気にならなくなる、素晴らしい本にも出逢います。

そのうち2017年を代表する、後者の側の本について、「忖度」も「インスタ映え」もまったく無縁に選んだ結果を発表します。

第5位 『落語に花咲く仏教:宗教と芸能は共振する』 釈 徹宗

落語のバックボーンには仏教があります。いくつかの噺のネタとして、寺院や僧侶や経典が使われたりする、だけではありません。この日本生まれの奥深い話芸の根底をなす精神に、仏教があるのです。

そうした落語と仏教の関係について、現在、もっとも鋭い思索を行いながら、一方で噺家さんたちとのコラボ企画も積極的に開催しているのが、この釈先生です。そして本書は、その釈先生の「落語と仏教」研究と実践の、ひとつの代表作であると思います。

前半では、宗教と芸能がそれぞれどのような性質をもっているのかを、理論的に検討します。その上で、日本において両者がいかに密接にかかわってきたのかについて、念仏踊りや絵解きを事例に、具体的な解説を行っています。

目には見えないものの価値を前提としながら、それを目に見えるかたちで、あるいは声を通して表現してきたという点で、宗教とアートは通じ合う部分が多い。他方で、宗教が一定の信徒を囲い込むことで本領を発揮するのに対し、アートは異なる信念に生きる人びとを、五感を刺激しながら軽やかにつなぎます。両者は、互いに補い合う関係にあるわけです。

そして、この宗教と芸能の相互補完性を、日本において最も明確にあらわしているのが、落語なのです。たとえば「後生鰻」という噺では、不殺生戒を真面目に実践しすぎた結果、とんでもない失敗を犯してしまう人物が、面白おかしく描かれています。

仏教の戒律はとても大事で、宗教的な意義は大きい。けれど、その「正しさ」を偏狭に徹底しすぎると、ときに問題になりうる。そうした宗教が示す「正しさ」の危うさを、笑いに転換して乗り越えさせてくれるのが、落語なわけです。

本書の後半では、こうした落語の力が、いくつもの事例をあげながら多角的に説かれており、落語好きには読んでて非常に嬉しくなってくる内容になっています。しかも、それらの落語はもともと、仏教の説法の延長で出来上がってきたことが、これも丁寧に説明されるわけです。

つまり、仏教を基盤として生まれた落語が、仏教の思想や文化を相対化するような役割を担ってきた、ということです。仏教の歴史は、過去の仏教の相対化の歴史とも見なせますが、その果てに落語という、仏教を巧みに相対化する芸能すら生まれてきたのです。この日本という、だいぶかわった仏教が根付いた国のなかで。

仏教とはいかなる宗教なのか、特に日本の仏教とは、いったい何なのか。この日本の仏教徒にとっての大きな問いに対して、ひとつの重要なヒントを与えてくれるのが、落語なわけです。その落語の本質の一端について論じた本書は、だから仏教について深く考えたい読者にこそ、読まれなくてはならない一冊であると思います。

第4位 『集中講義  大乗仏教―こうしてブッダの教えは変容した』 佐々木 閑

大乗仏教に関する最強の入門書という印象です。インドのお釈迦様の仏教と、日本のお坊さんが説いている仏教ってどう違うの?(同じなの?)という質問に対し、本書以上に鮮やかに的確に答えてくれる本は、おそらく無いと思います。

講師の佐々木先生の立ち位置は、あくまでお釈迦様の仏教にあります。「自分の力で道を切り開く」ことを重視する、個人個人の生き方の教えです。大乗仏教のさまざまな教義は、このお釈迦様の仏教から派生してくるわけですが、多かれ少なかれ、お釈迦様の仏教を勝手に再解釈した結果として成り立っています。「自分の力」よりも、阿弥陀如来など謎のキャラクターの願いのほうが大事になったりします。

とはいえ、本書の佐々木先生は、お釈迦様だけが絶対で、大乗仏教は間違っているなどとは決して言いません。先生の別の本を読んでいると、釈迦の仏教の特別視と、大乗仏教の逸脱ぶりへの批判的な念がもっと強いような気もするのですが、少なくとも本書では、大乗仏教に対しての寛容な語り口が際立っています。この点、大乗仏教を信じて生きて来た多くの日本人にとっても、安心して読んでいくことができます。

その安心感あふれるスタンスから、大乗仏教が成立してくる経緯はもちろん、般若経、法華経、浄土教、華厳経、密教それぞれの特徴や、さらには日本仏教の性格まで、驚嘆すべきわかりやすさで解説されています。先生の頭脳のスペックの高さもあるでしょうが、日本仏教の特定の宗派に肩入れしていないがゆえの、現代人にとっての理解のしやすさがあるのかな、とも思うところです。

逆に、日本の宗派の仏教の、現代人にとっての理解のしがたさを改めて考えさせられもしました。

第3位 『京都地蔵盆の歴史』 村上 紀夫

関東などに住んでいる方にはあまりピンとこないと思いますが、京都では夏の地蔵盆の行事が非常に盛んです。ある調査によれば、京都市内では8割近くの町で、この行事が実施されているようです。本書は、その地蔵盆の成立と展開を歴史学的に跡づけた、京都文化論であり、仏教文化論です。

地蔵盆の原型となる地蔵会の風習は、江戸時代の初期にさかのぼれるようです。子どもたちが拾ってきた「お地蔵さま」を町内で祀るという、一種の流行現象からはじまったとのこと。この地蔵会はやがて、町内のコミュニティの安寧を祈るとともに、お地蔵さまの守護のもと、子どもたちが楽しい時間を過ごすイベントとして定着していきました。

それが一つの断絶を迎えるのが、明治時代です。文明開化の風潮をうけて、古臭い地蔵堂の撤去が命じられ、毎年恒例の盆行事もやめさせられました。しかしながら、土地に根ざした仏教文化に対するニーズは消滅することなく、しばらくすると地蔵会も盆行事も、次々と復活していきました。

この復活の過程で、地蔵「会」から地蔵「盆」へと名称が変わっていったようで、その背景に当時の新聞の影響があったのでは、という指摘が興味深いです。また、明治20年代以降の、コレラの流行を受けた防疫行政の展開によって、地蔵に食べ物をお供えする習慣がすたれ、かわりに福引きで日用品やオモチャを分配する風習が広まっていったという経緯も、なるほどなと思います。

このように、地蔵会というローカルな伝統文化の歴史を詳しく跡づけていくことで、ある地域社会に生きる人びとにとって、無くてはならない仏教文化とは何なのかが、はからずも見えてくるのが面白いところです。

社会状況の変遷にあわせ、そのかたちを変えながらも、一つの仏教文化として長いあいだ守り続けられてきた地蔵盆。こうした仏教文化の根強さは、京都以外の地域の、地蔵盆以外の風習にも、別のかたちで見出すことができるのではないでしょうか。

第2位 『内側から見る創価学会と公明党』 浅山 太一

創価学会は日本生まれの仏教の一つです。これを「新興宗教」だからといって、仏教とは違うものと考える人もたくさんいます。しかし、創価学会が仏教でないならば、日本の伝統仏教はいかなる意味で仏教なのでしょうか。正直、よくわからないです。

そんな日本の仏教の一種かつ、巨大な勢力を誇る宗教団体である創価学会について、個人的には「革命」的なんじゃないかと思わせるような研究書が、先ごろ刊行されました。今回取り上げているほかの本と異なり、一読してからの時間があまりたっておらず、評価が偏っている可能性はあります。しかし、めちゃくちゃ斬新で素敵な作品だなと感じました。この感想は、今後もおそらく揺るぎないです。

根本的な問題関心としては、現在の創価学会と公明党の思想や方針がズレがちなのにもかかわらず、選挙になると、創価学会の会員さんたちの公明党に対する支援が盤石なのはなぜか、という点にあります。この謎を解明するため、戦後の創価学会の宗教思想の変遷や、政治活動の位置づけの変化が、実証的に検討されていきます。

のみならず、創価学会の一時期の急成長の理由や、改めての転換期にある現在の学会の動向についても、著者独自の観点から、鋭く考察されています。

この宗教社会学的な研究の試みが、まずは学術的に興味深いというのが、本書を推す理由の一つです。しかし、それだけであれば、今年のベスト作品の一つに選ぶことはなかったと思います。本書を読んでいて個人的に最も興奮したのは、著者の創価学会に対するスタンスや語り口の、「革命」的にすら感じる新しさにありました。

著者自身も学会員なわけですが、その「内側」の立場を強く意識しながら、けれど創価学会への礼賛的な姿勢は微塵もみせず、むしろ、学会や学会員の常識的に考えておかしな部分を、徹底的に皮肉っていきます。完全に笑いのネタにしていきます。これは、真面目なお仲間からの反感を買うのは避けられないだろう、と思います。

と同時に、これが「外側」からの安直な批判や揶揄などではなく、あくまでも学会員としての自分の人生と、信仰を肯定するための言論活動として行われているのが、なんとも素晴らしい。かなりひねくれているとも言えますが、そのひねくれぶりの背景として、日本社会における創価学会の位置というのも透けてみえる。それがまた非常に興味深いところです。

とはいえ、同じようなひねくれぶりは、たぶん伝統仏教のなかで生きる人びとにも、一部では通じる部分があるように思いました。現代日本社会でやや微妙な位置にある「宗教」の「内側」の人として、がっつり「内」に染まるのは何か違和感がある、けれど、「外」よりもこの「内」にあることを大事にしたい。なぜなら、気がつけばその「内」のなかで生きていたのだから。

こうしたややこしい感覚に、少しでも身に覚えのある読者に、是非、この本を読んでほしいと思います。

第1位 『親鸞と日本主義』 中島 岳志

親鸞思想に影響された近代日本の日本主義(右翼思想)の内実について、かなり多面的に論じた、衝撃的な一冊です。人文書として圧倒的に面白く、かつ、提示される問題の重さに、ひたすら頭が痛くなってくる作品です。本書を思い出すたびに頭が痛くなるので、ここでベスト1に祀り上げれば、頭痛が和らぐのではと期待しています。

仏教教団の国家主義や、僧侶たちの戦争協力の実態については、前からわりとよく知っていました。体制順応的で「空気」に流されやすいのは、仏教関係者というか日本人の基本的な特徴なので、それは戦前でもたいして変わらないだろう、と想像するのも容易です。

対して、本書がおもに扱うのは、自分の頭で考える力があり、それゆえにこそ、自己の人生に悩んで、内省をつきつめた人びとです。そうした自己の存在や内面に対する批判精神あふれる少数者たちが、親鸞の思想に出逢うことで、苦悩からの救済の悦びと、暴力性をともなう日本主義への没入を、ともに手に入れてしまった。

そこでの救済は、もともとは阿弥陀如来の他力に由来するものでした。しかし、なぜかその宗教的な働きへの信頼が、日本という国や、あるいは天皇という人間へと、横滑りしていく。結果、国家による暴力としての戦争が肯定され、天皇の願いとして受けとめられる使命が、如来の願いといっしょくたにされていきます。

一見すると、わけのわからない思想の横滑りのようにも思えます。しかし、著者はそのスライドの理由を、それぞれの思想家や仏教者たちに固有の事情と、より巨視的な思想史上の問題の双方から、粘り強く考察していきます。個々の議論には精粗の差がありますが、しかし、大筋で説得的な見解が示されているように思います。

そうした見解をじっくりと読み込みながら、考えこんでしまうのは、こういうことです。すなわち、自分の人生をきちんと生きて、ちゃんと考えて、その先に仏教に救われることで、人間は、しばしば仏教の本来の理念とはかけ離れたところに突き進んでいってしまう場合もありうる、と。

その暴走ぶりは、あるいは、当の本人にとっては、幸せに感じられるのかもしれません。しかし、歴史を振り返ってみれば、それは社会的に危険なものとして表現されることがある。少なくとも、戦前の日本の仏教思想には、そういう問題が明らかにあった。

自分の頭で考えて、自分のための仏教を求めているつもりの読者の一人として、とても頭が痛いです。

以上、2017年の仏教関係書の、個人的ベスト5作品でした。もちろん、多くの本はそれぞれの著者の熱意や願いのもとに書かれており、それぞれに固有の価値があり、それらに順位付けするのは、いかがなものかと思う気持ちもなくはないです。

けれど、なかでもとりわけ現代の社会にとって重要で、そして自分にとって特に大切な本がある、というのも偽らざる事実です。今回は、そんな本について語ってきました。

来年も、そんな本にたくさん出会えることを願いながら。

仏教書のレビューを趣味とする京都在住の研究者。さまざまな本の紹介を通して、仏教の魅力や、仏教を通してものを考えることの面白さを伝えていきたいと思います。