イキナリですが…。
僧侶として、衝撃的なコトを告白します。
アメリカで「写経」を始めるまで、
お経さんのコトを、全く知りませんでした。
寺に生まれ育ち、1日に何度か本堂で手を合わせ。
お経さんも、お勤めしていました。
それは、あまりにもアタリマエな生活の一部で、疑問に思うコトもなく、
どちらかと言うと、「仕方がないコト」として行っていました。
当然ながら、お経さんの内容について思いを馳せるコトもなく。
お勤めが始まると、ただ、ただ、早く終わるコトだけを、念じていました。
そんな調子ですから、お経さんの名前も知りません。
よくお勤めしていた「阿弥陀経」は、正座の限界時間を軽く超えるので、「長いお経」。
「正信偈」は、出だしを取って「きみょ~むりょ~」と呼んでいました。
その後、「阿弥陀経」は、コンパクトなボリュームから、
「小経」と呼ばれていると知った時の驚きは、今でも忘れられません。
仏さんの教えは、よく鏡に譬えられます。
自分を写す鏡です。
ひょんなコトから、スゴイ鏡に出遇った私。
鏡の素材も、製造方法も分かりません。
ただ、鏡に映った自分に驚き、それによって人生が生きやすくなったんです。
こんなスゴイ鏡があるってコト、黙っていろ、と言われても、黙っていられません。
それは、それくらい、衝撃的な出遇いだったんです。
1回目に書かせて頂いたように、アメリカで「写経」を始めたワタシ。
その時に、気安く教材として選んだのが「正信偈」でした。
理由はカンタン。
ワタシの知っていた、数少ないお経さんレパートリー、
「長いお経」「きみょ~むりょ~」2つの内の、短い方だったからです。
それと、もうひとつの理由。
それは、当時、実家の大行寺でも「正信偈」を使って写経を行っていたんです。
その資料を送って貰い、そのままアメリカでも使っちゃえ!と、カンタンに考えていました。
が、しかし…。
送って貰った資料を手にした時、その考えが、いかに甘かったかを思い知りました。
資料に、アタリマエのように登場する言葉。
「南無阿弥陀仏」「本願」「浄土」などなど。
今さらだけど「南無阿弥陀仏」て、なに?
「本願」って、なんなん?
ところで、「浄土」って、どこ?
アメリカに住んでいる方は、どんどん質問されます。
「写経」に来てくださった方に、もしも聞かれた時、
答えられない自分がいたんです。
言葉は悪いですが、ヤバイ!マズイ!シマッタ!とばかり、
慌てて資料を作りなおしました。
お気楽に「正信偈」を選んだワタシでしたが、
お気楽に済まされない状況に追いやられ、
半ば強制的に「正信偈」と向き合うコトになったんです。
そして、それが鏡との出遇いでした。
めちゃくちゃ面白かったんです。
物心ついた時から「きみょ~むりょ~」と、
慣れ親しんではいたけれど、コンナ面白い内容とは知らなかった。
思わず、「なんで、教えてくれへんかったん?」と、
ひとり言で悪態をついちゃったほど。
教えて貰うも何も、自分が受け入れて、
向き合おうとしていなかった、だけなんですけどね。
鏡があったのに、鏡の形にばかりとらわれていたんです。
大きい、小さい、立派な飾りがついている…。
そんなコトばかり気にして、鏡に映る自分自身に、向き合わなかった。
そう。
前回、どんなお経さんを英月訳として提供するか、と言っていましたが、
提供させて頂くのは、「正信偈」。ワタシの出遇った、スゴイ鏡です。
ところで…。
勘の良い方は、既にお気付きかも知れません。
「正信偈」って、「きみょ~むりょ~」で始まるってコトは、
お経さんじゃナイんじゃない?
はい、仰る通りでございます。
ココで、今回2度目の衝撃的告白です。
「お経さん、ごちそうさま!」「写経」と言いながら、
使うのはお経さんじゃナイものです。
お釈迦さんの教えは、「八万四千の法門」と言われるように、
それはそれは、多くのお経さんが伝えられています。
なのになぜ、わざわざ、お経さんではない「正信偈」をエコ贔屓して使うのか?
次回は、「正信偈」を選んだ理由についてお話します。