そろそろつくることの常識を仏教でアップデートするタイミングなのだと思う

こんにちは。お寺出身、現在はフリーランスとして関東で働く三浦です。5月5日に寺社フェス向源にて「無我の創造ー仏教思想から紐解くクリエーション2.0の世界」と題したトークイベントを実施いたしました。

向源さん、ありがとうございました!


ゴールデンウィーク中にもかかわらず、仏教者の方、音楽家の方、デザイナーの方、教育者の方など、さまざまな職業の50名前後の参加者の皆さまにお越しいただきました。一緒に場を作ってくださって、ありがとうございました!

登壇者は「スクールナーランダ」を手がけるアートプロデューサーの林口砂里さん、アカデミックの領域でパターン・ランゲージという手法を研究されている井庭崇さん(慶應義塾大学総合政策学部 教授)と、2013年の世界経済フォーラム(ダボス会議)でYoung Global Leaderにも選ばれた僧侶・松本紹圭さん(東京神谷町・光明寺)です。

 

イベントを実施し私なりに腑に落ちたことは


「今後の世界の中で創造・創作・企画の文脈で仏教が担っていくことができる役割がある。その役割とは、人が自我(エゴ)を手放していき、より創造的に、人間的に生きていくことを導くところにある。」

 

ということでした。

仏教と芸術の関係性が密だった時代

そもそもですが、仏教は芸術の分野との相性は悪いわけではありません。「仏像・仏画」、「寺院建築」など、仏教が日本に伝来して以来、自らも変容しながら、その過程でさまざまな作品が生まれてきました。

特に私にとって印象深いのは室町時代〜江戸時代の仏教(特に禅宗)の文化への波及です。茶道、俳句、庭園、能など現代まで受け継がれてきた文化が仏教思想と相互作用を起こしながら発展していきました。

 

その際のキーポイントになったのは禅をマスターしている人たち(禅匠)です。

 

その相互作用がより促進された理由をあげるならば、
(1)禅匠自身が芸術家でもあった点や
(2)禅匠が外国文化を体感し、それを持ち帰ることができたポジション取りをしていた点
(3)それが可能だったのは彼らが当時の支配階級(武士階級/幕府)から庇護を受けることができた点

などがあります。

 

他にも、戦乱の世の中で常に「生きること/死ぬこと」が問われるような死生観が揺らぐような環境だったこともあり、死生観を考える際の触媒として仏教思想が機能していたのでしょう。

しかし、このような流れがあるにもかかわらず、最近の仏教思想と文化の関わりは室町時代の結びつきと比べると抜本的なものは少ないのかもしれません。

 

「エゴの手放し」と文化的波及の可能性

私は上記のようなことを考える中で「仏教思想はどのような活かされ方をすれば、室町時代のような文化的波及を起こす思想として、文化の発展に再び寄与することができるのだろうか?」ということを考えるようになりました。

その一つの仮の答えが、「エゴの手放しを手助けする」という仏教の一つの機能的側面にあるのだと思います。

いまはどういう時代なのかというと、「創造」が重要になる時代です。

自分ではない何者かが提供してくれる大きな物語が私たちに一方的に意味を与えてくれるという依存関係ではなく、自分たちの質感を大事にしながら居心地の良い時代を作っていくことが志向されていくように時代は変化してきていると感じています。

主体性を持つことやアートの重要性が語られているのはこの時代の変化に対応していると思います。そこでは「わたしが何をするのか」ということが常に語りかけられます。

しかし、私たちがお互いに「かくあるべき・こうあるべき」という自我をぶつけあって、勝者・敗者を定めていくという構図が生み出され続けるのは必ずしも私たちが望む世界ではないのかもしれません。

わたしという存在が創造するということが重要になるにもかかわらず、自我を肥大化させていくのは違和感がある。その中で企画の切り口として設定してみたのが「無我の創造」でした。企画したとはいえど、企画した段階では「このゲストの人たちを呼んで、話したら、新たな知識と知識の接続が起こるはずだ」という風に直感的にアイデアが降ってきただけでした。実施にイベントを体験してみて、そこで見えてきたことについて以下に綴ります。

 

井庭崇さんの「無我の創造(Egoless Creation)とパターン・ランゲージ」

【井庭崇氏】慶應義塾大学総合政策学部 教授。博士(政策・メディア)。専門は、パターン・ランゲージ、システム理論、創造技法。マサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院 Center for Collective Intelligence 客員研究員等を経て、現職。株式会社クリエイティブシフト代表取締役社長、および、The HillsideGroup 理事も兼務。最近は、創造性の研究(無我の創造: Egoless Creation)や、創造社会(Creative Society)についての研究・発表も行なっている。

 

ちなみにイベントの話の下敷きになっているのは、ゲストに来ていただいた井庭崇さんの論文「無我の創造(Egoless Creation)とパターン・ランゲージ」です。

井庭さんの論文はブログにて公開されています。ぜひチェックしてみてください。少々難しいかもしれませんが、”無我”や”創造”とは何かを普段とは違う角度から眺めてみるいい機会になるかと思います。

井庭崇のConcept Walk:http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid535.html

さらにイベントで使用されたスライドも公開されています!(ありがとうございます!)
https://www.slideshare.net/takashiiba/egoless-creation

 

小説家の村上春樹さんやジブリの映画監督の宮崎駿さんなど、誰もが知っている方々の言葉を引用しつつ、創造的行為を行う際の重要なのは「エゴを抜くこと」であると井庭さんは論文の中でおっしゃっています。

井庭さんが引用されていた村上春樹さんと宮崎駿さんの言葉を紹介します。

「本を書き始めるとき、僕の中には何のプランもありません。ただ物語がやって くるのをじっと待ち受けているだけです。それがどのような物語であるのか、そ こで何が起ころうとしているのか、僕が意図して選択するようなことはありませ ん。」(村上春樹 (2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋)

「その登場人物をこしらえたのはもちろん作者ですが、本当の意味で生きた登場人物は、ある時点から作者の手を離れ、自立的に行動し始めます。これは僕だけではなく、多くのフィクション作家が進んで認めていることです。実際そういう現象が起きなければ、小説を書き続けるのはかなりぎすぎすした、つらく苦しい作業になってしまうはずです。小説がうまく軌道に乗ってくると、登場人物たち がひとりでに動きだし、ストーリーが勝手に進行し、その結果、小説家はただ目の前で進行していることをそのまま文章に書き写せばいいという、きわめて幸福な状況が現出します。そしてある場合には、そのキャラクターが小説家の手を取 って、彼をあるいは彼女を、前もって予想もしなかったような意外な場所に導く ことになります。」(村上, 2015, p.256)

「クリエイティブというとかっこいいけれども、そうではなくて、自分の今の能力と、与えられている客観的な条件の中で、最良の方法は、ひとつしかないはずで、この路線、方法を決めてしまった以上(この方法を決めるまではいろいろな決め方があるのですが)、その方法は毎回、ひとつしかないはずだ。それにより近い方法を見つけていく作業にすぎない。映画は映画になろうとする。作り手は 実は映画の奴隷になるだけで、作っているのではなく、映画につくらされている 関係になるのだ、と。」宮崎駿 (1996) 『出発点 1979〜1996』(徳間書店)

私たちは「自分がこうだ、こうしたい(作意)」という風に何かを作る時に考えてしまいますよね。その作為を抜くことについて井庭さんは何度もイベントでお話をされていました。

「自分っていうのはあっていいし、自分っていうのはなきゃいけないんだけど、それと作るものに対して自分の表現であるとか自分がこうしたいというものを投影するんではなくて、それがどうあるべきかっていうことで作っていくっていうことですね。」

私たちは何かを作る時に、自分という存在がさも確固たるものとしているという風に思ってしまうのかもしれませんが、そうではない感覚も同居しながらものを作っている人たちがいることも確かです。

 

作為の手放しは仏教の得意分野なのでは?

じゃあどういう風に作為を手放していけばいいのでしょうか?

それは「エゴ(自我)」の手放しにヒントがあります。仏教の話に寄せると、そもそもエゴは確固たるものとしてあるわけではないという諸法無我の考え方にあると言い換えることができます。

仏教に縁が深いお坊さんの松本紹圭さんは、「話せることは私のエゴの話しかないんですけども」と前置きをしつつ、こう話されました。

【松本紹圭氏】 1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長(一般社団法人お寺の未来)。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。仏教ウェブマガジン『彼岸寺』(higan.net)や、お寺カフェ『神谷町オープンテラス』を企画。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講。以来、計500名を超える意識の高い若手僧侶が「お寺から日本を元気にする」志のもとに各宗派から集い、学びを深めている。2013年、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leaderに選出される。『お坊さんが教える心が整う掃除の本』(ディスカバートゥエンティワン)他、著書多数。

『エゴ is イリュージョンといいますか。よく「エゴを出しすぎずに抑えましょうよ」という風に言うことがあるじゃないですか。それ自体が前提が違っていると思います。

エゴ自体幻想なんです。エゴがない、それが無いところに立っているのをあるかのように私たちはものを見、答え、振舞っています。諸行無常と諸法無我という言葉が仏教の根本的な考え方にありますけど、すごく簡単に言うと一切は変化する・諸行無常。変化しないものは何一つない、変化そのものの中に私たちがいるということです。

そして諸法無我。そこを生きる私に変わらぬコアというか核というか変わらぬ実体というものはないんだということを言ってるわけですね。始めからエゴレス世界を私たちが生きているというわけです。』

生きる中で、作る中で「こうしてやろうと思う(=作為)主体である「わたし自身が一種の幻想でしかない」という視点はなかなか衝撃的だと感じる人も多いのではないでしょうか?

さらに、アートプロデューサーの林口さんは、アーティストやクリエイターの方々との関わりの中で感じていることをこのような言葉にされていました。

【林口砂里氏】 アート・プロデューサー/エピファニーワークス代表。富山県高岡市出身。東京外国語大学中国語学科卒業。大学時代、留学先のロンドンで現代美術に出会い、アート・プロジェクトに携わることを志す。 東京デザインセンター、P3 art and environment 等での勤務を経て、2005年に(有)エピファニーワークスを立ち上げる。国立天文台とクリエイターのコラボレーション・プロジェクト『ALMA MUSIC BOX』や、僧侶、芸術家、科学者など多様な分野の講師を招く現代版寺子屋『スクール・ナーランダ』など、現代美術、音楽、デザイン、仏教、科学と幅広い分野をつなげるプロジェクトの企画/プロデュースを手掛けている。また、2012年より拠点を富山県高岡市に移し、伝統工芸と先端技術が出合う『工芸ハッカソン』のプロデュースなど、地域のものづくり・まちづくり振興プロジェクトにも取り組んでいる。

「私はたくさんのクリエイター・アーティストの方と一緒に仕事をしています。自己表現、自我表現で作品を作ってらっしゃる方の作品は心が動く、感動するというところまで至らないことがほとんどで、もちろん頭の中で言葉として楽しむことはできるけれども、言葉を超えた感動をそこから得ることはそれほどありません。

現代アートはコンセプトが大事なので、コンセプチュアルな作品がたくさんあります。でも一方で心が動く作品というのがあって、そういう作品に出会った時にそれを多くの人と共有したいという気持ちになります。

それを作っている方にどういう意識で作っておられるかを聞くと、評価されたいとか、自分の考えを広く知ってほしいという思いではなくて、誰に頼まれなくてもどれだけ批判されても切実に作りたい、あるいは自分が媒体となって作らされているという感覚を持っておられます。そういう方々の作品がいわゆる人の心を動かすのだなぁと見ています。

宗教学者の柳宗悦が、自我を超えた「創造の源泉」、仏教で言う「如や妙」から届くものが作品に映し出されるものを「民藝」と名付けましたが、まさにそうした作品を指しているのだと思います。」

私は、この「切実さ」という言葉が強く印象に残りました。私たちはついつい忙しい日常の中で自分にとって切実な何かということに意識を向けることをやめてしまうことがあります。

とはいえ、自分自身が持っている切実な感覚が自分に向き合う時間を取れずに持つことができないと、次第にその切実さは最初から無かったもののように自分の中で埋もれていってしまうこともあります。また、その切実さを失ってしまうのは他者の価値基準のものさしを自分に刷り込んでしまうことも影響するのではないでしょうか。

         

「他の人に〜〜だと思われたらどうしよう。」
「あの人と比べると自分なんて・・・。」

      

そのような心に出てくる声は、本来の創造的で人間的な人のポテンシャルを蝕んでいきます。  

しかし、これに対して仏教思想を参考にすることで、私たちは私たちが向き合う切実さを取り戻し、自分の作為を抜いて活動していくことがよりしやすくなるかもしれません。林口さんはアートやクリエイションの話として語られていますが、ビジネスも価値を作る創造行為という点では同じく、「切実さ」が扱われてもよいフィールドです。

切実さ、大事にしてますか?

 

さらに仏教の「エゴ」を手放すことがどのように機能してくるのかということに対して、松本さんからこのような発言がありました。松本さんがおっしゃるのは、「私たちが様々な価値基準を判断するためのものさしを知らず知らずのうちに持っていて、それがついつい知らず知らずのうちに自分自身を苦しめてしまうように機能してしまうということでした。

松本さん
「創造システム(下記に言及*)とおっしゃってるところでは、別にアウトプットが社会的評価が高い低いとかっていうことではないですよね。

その意味で、私自身が仏教に縁を持ち、その上で思うのは、仏教で言っている無我という考え方に触れるきっかけとして、このイベントもそうかもしれませんし、法事とかも一つの入り口かもしれないですし、鈴木大拙さんの本を読むっていうのもそうかもしれません。

そこで何か教えてくれることは結局、「私の人生こんなに惨めな人生だ」と思ってしまう時、それが惨めかどうかは世の中の物差しを内面化したものさしに左右されているということです。そのものさしが自分のものと思っちゃってるんですが。それは他の人から見てどうかという基準です。

それを自分自身の創造システムにおいて、これでよかったんだ、と自分自身の人生を心的にみるのではなく、創造システムを捉え直して(エゴレスなところから捉え直して、)、私にとっての価値ある物語を再発見していくところに仏教が機能しているのではないかなと思います。」

(*「創造システム」とは、何かをつくることに取り組んでいる創造を、ひとつの創造システム(creative system) として捉えるという井庭さんがイベントで紹介した理論のことです。創造システムの要素は、発見(discovery)であり、発見が生成・連鎖するということが、創造的な事態が生じているということだと捉える概念とのことです。たとえば、私がどう作るのかということではなく、作品がどのように発見の連鎖を通して発展していくか、それをシステム的な視点で捉えた概念です。詳しくは井庭さんの論文をチェックしてみてください!)

つまり、物事を作る際に、社会の基準を内面化してしまっている「わたし」自身が握りしめてしまっているものさしを手放していくこと。さらに、ものさしを手放しても、私自身が切実に向き合う必要があると思うものを無視せずに扱っていくことの重要性が見えてきます。

 

今の時代だからこそ、ものさしを手放して、新しい創造を作り出していこう

私たちはいろんな価値基準を内面化して生きています。この手放しが特に重要になってきているのは、私たちが今、時代の転換点に差し掛かっているからかもしれません。

これまで行ってきたことを問い直したり、これまで当たり前だと思っていたことを手放していくことには多くの場合、痛みが伴います。瞑想や仏教的な行いを通して、自らは内面化された価値基準を手放そうとしている人も私の周りに増えてはきています。しかし、職場や家庭に戻ると一気に逆戻りしてしまうということが起こってしまいがちなのではないでしょうか?

ではどうすればいいのかということですが、ものさしを手放していくことができる関係性を構築していく必要があるのだと思います。「これまでやってきたから」という同調圧力に屈せず、自らが変わっていくことを通して通用しなくなってきている価値基準を手放していく流れを作ることが重要です。

「創造的であるというのは、要するに、人間的であるということにほかならない。」by ミヒャエル・エンデ

私たち一人一人が世界の作り手であり、一人一人の中にすでにある創造性が見直され、花開いていく流れがやってきていますね。創造の民主化の時代を楽しんでいきましょう!

 

こちらの記事では私の視点からパッチワークのようにイベントで話されていたことを編集して書き上げました。イベントで話されたことの全文はまた後日私が更新しているnote に掲載しようと思っていますので、気になる方はぜひチェックしてみてくださいね。

 

三浦祥敬|note
https://note.mu/shokei612

1991年お寺生まれ。京都大学卒。持続可能な世界へのトランジション(移り変わり)をリサーチするインデペンデント・リサーチャー。特に人の内面の世界が移り変わることへの興味から、内的なトランジションをサポートする 1on1 セッションの実施やプログラムの実施、哲学をはじめとした領域とのコラボレーションをおこなう。文化を継いでいく人たちがゆるやかな連帯を紡ぎ、ともに持続可能な継承を探求・実践するコミュニティ「Sustainable Succession Samgha」を運営している。共著に『トランジション 何があっても生きていける方法』(春秋社)。