京都・西本願寺で開催された、新しい学びの場、「スクール・ナーランダ」。そのレポート第二弾、2月4日(一日目)の授業編です。(本願寺ツアー編はこちら)
第一回目となる京都での授業のテーマは「わけへだてと共感」。社会を築いて生活をする私たちにとって、他者と「共感」できることはとても重要な能力の一つです。しかし一方で、「共感」できない他者や集団には、それを認めないという「わけへだて」を生み出すこともしばしば。特に最近では、国の内外を問わず、「分断」とも呼ばれる「わけへだて」が感じられる時代となりつつあります。このような私たちが抱える「わけへだてと共感」という問題について、仏教だけでなくをはじめ、様々な分野のまなざしからスポットを当てることが、今回のねらいです。
■ロボットから人間心理を研究する!?- 認知科学者・高橋英之さん
トップバッターとして登壇されたのは、大阪大学大学院基礎工学研究科特任講師で、認知科学者の高橋英之さん。ロボットを通して人間の心のメカニズムを探る、ということを研究されておられるそうです。ロボットと心の研究というと、ロボットが心を持てるのかということを考えがちですが、それ以前に、人間の心とは一体どのようなものなのかを科学の目線から分析することや、ロボットなどに対して、人がどのような思いを抱くのかということが主な研究テーマなのだとか。
高橋さんのお話でとても興味深かったのは、私たちは意外にも簡単にロボットに対して「心がある」と感じるというお話でした。人間には相手に心があると感じている時の脳の反応があるそうで、例えば他者からサービスの一環としての言動からでも「心からの行い」と、脳が感じる反応があり、それと同様に、ロボットにも「心がある」ように感じたりするのだとか。
しかしながら、ロボットに限らず他者(人間)に心があるということを証明することはできないともいわれています。それでは他者に感じる心は幻想なのか?という疑問が起こってきますが、それを幻想と捉えるのではなく、他者に心があると感じることこそが、「共感」であり「価値観の共有」というものにつながる、とお話もされました。
現在、ロボットの頭脳である人工知能には、この「共感」や「価値観の共有」ということができないそうで、「共感」「共有」しているように「振る舞う」ことはできても、一つのものを見て、同じようなことを思うということはできないそうです。つまり、「共感」というのは、ロボットが未だ持ち得ない、人間だけが持つ能力であるのかもしれません。
しかし、人間も常に「共有」ができているわけではありません。人の顔色を伺い、「共有」するふりをするというシーンは、私たちの日常でも多く見られること。このような「ニセの共有」とも呼ばれるものは、新しいものを生み出していくどころか、むしろ互いに萎縮していく悪循環にも繋がってしまうものである。本当に大切なのは、互いに尊重し、認め合っていけるような対等な関係の上に生まれてくる「真の共有」であり、ロボットと人も、そのような対等・対称的な関係が築ければとお話をいただきました。「ニセの共有」ではなく「真の共有」が大切である、というお話は、今の私たちが抱える様々な問題を解きほぐすような考え方だと感じました。
■作りたいものは「ご縁」 – コミュニケーションディレクター、アートディレクター・森本千絵さん
高橋さんに続いて登壇されたのは、森本千絵さん。博報堂に入社され、後に独立して「goen°」(ゴエン)を設立し、企業広告を始め、Mr.Childrenなど多くのミュージシャンのアートワークやPV演出、その他多岐にわたるデザインやアートにまつわるお仕事をされておられます。
そんな森本さんがお話くださる際にテキストとして配られたのが、なんと西本願寺が発行している「ごえん」という冊子。聞くところによると、当初はこの「ごえん」という冊子を使う予定はなかったそうなのですが、奇しくも森本さんの主宰する「goen°」と名前が同じというところに、文字通りご縁を感じられたようで、急遽、構成を練り直されたのだとか。
森本さんのお話は、主にこれまで手がけられたデザインやアートワークなどのお仕事のことを中心として、その中で生まれた・感じられた「ご縁」についてお話くださいました。森本さんがお仕事をされる中で、本当に作っていきたいのは単なる広告ではなくて、人や物事のいろんな繋がり=「ご縁」であったと、金沢のとあるおばあちゃんとの出会いから気付かされ、そこから「goen°」という会社の名前をいただいたというお話が、とても印象的でした。
そして「ご縁」というものは、私たちが普段意識していないだけで、よくよく意識してみると、いろんな繋がりが見えてくるものであり、人との出会いや「ご縁」というものを意識することから、より良いものが生み出され、そしてまた次の「ご縁」へと繋がっていく。一見バラバラに見えるものでも、どこかで繋がって、何かを形作って、そして過去からの繋がりが未来を紡いでいくというお話は、まさに仏教の「縁起」ということを思わずにはおれませんでした。
森本さんの講義で特徴的だったのが、参加者と一緒に身体を使って伝えることや表現することを実際にやってみよう、ということ。隣同士の人が手と手や身体の一部を触れ合わせて、端の人から大切にしている思いを触れ合う部分を通して伝えてみるという試みでは、触れ合うことを通して今日初めて会う参加者同士の距離が縮まったように感じられました。
また講義の最後には、NHKの朝ドラ「てっぱん」で、森本さんが手がけられたオープニングのダンスを「みんなで一緒に踊りましょう!」というサプライズも。戸惑いもありましたが、ダンスを通してみんなが笑顔に包まれて、楽しい雰囲気に会場全体が包まれました。SNSなどのバーチャルなつながりが増える中、身体を通して、伝えること、表現すること、感じることを大切にされている森本さんならではの試みでした。
森本さんの活動は、目に見えないものや言葉で言い表せないものを、見えるもの、伝わるものへと変換していくこと、つまり目に見えない「ご縁」を目に見える形に表現していくことだというお話も、なるほどと聞かせていただきました。目に見えないものや言葉で表現できないものを形に表した時、きっとそこには共に心揺り動かされる「共感」が生まれてくる。そんなことを考えさせられるお話でした。
■仏教は感受性を育む教え – 本願寺派僧侶・天岸淨圓さん
仏教とはかけ離れた分野のお二人のお話をいただいた後は、いよいよお坊さんの出番です。一日目にお話くださったのは、行信教校(ぎょうしんきょうこう)という浄土真宗のお坊さんの学び舎の講師も務められる、天岸淨圓さん。天岸さんは、多くのお坊さんから慕われる先生の一人で、厳しくも温かい、そしてわかりやすいお話をしてくださるお坊さんとして知られています。
そんな天岸さんがお話してくださったのは、「死」を一つの媒介とした仏教の側面とは別の、もう一つの仏教の側面についてでした。
突然、天岸さんは参加者を一喝するような問いを投げかけられます。その問いは「朝、目が覚めた時、何か感じたか?」というものでした。私を含め多くの参加者がハッとし、ザワつく会場。朝、目が覚めることは当たり前で、明日も明後日も当然のように目が覚めると思っている私。そんな生き方というのは、「一日の色彩が極めて薄い」ものだと天岸さんは喝破されます。どうでもいいことにばかり感受性をはたらかせ、大切な「いのち」に関することには非常に鈍感であり、感受性が弱いと、私の在り方をズバッと言い当てられ、まるでお釈迦様に「汝は心が弱く劣った凡夫である」と言われた韋提希(いだいけ)夫人のような心持ちでした。
そしてそのような「いのち」にまつわる感受性を育むのが、仏教という教えの一つの側面であるとお話は進んでいきます。ではその感受性はどのように育まれるのか。仏教の大きな特徴の一つは、肉体と精神だけでなく、言葉を整えることの大切さを教えてくれる点にあるとおっしゃられます。「身口意(しんくい)の三業」という言葉がありますが、肉体(身)と言葉(口)と心(意)とは密接に結びつき、互いに影響しているというのが仏教の考え方であり、言葉を意識することによって、感受性(心)を育むことにつながるということです。
その一例として挙げられたのが「子どもができる」という言葉。私たちも日常よく使いがちな言葉ですが、このような言葉は、「いのち」に対する感受性の低い言葉になってしまうそうです。それを「子どもを授かる(恵まれる)」と言い換えるだけで、「いのち」へのまなざしは大きく変わるものになると、天岸さんはおっしゃいます。「子どもができる」と「子どもを授かる・恵まれる」は、指し示す事実は同じです。けれども、「できる」という言葉を使う親と、「授かる・恵まれる」という言葉を使う親では、きっと子どもに対するまなざしや姿勢(行い)も変わってくることでしょう。そのような親の違いによって、子どももまた、育ち方が変わってくるかもしれません。言葉くらいでと思うかもしれませんが、同じ事実でも、使う言葉によって意味合いが変わってきますから、良い言葉を使うことを意識し、それが身についていくことで、良い感受性が育まれ、そしてそれが行いにも影響していく。そんなことをお話くださいました。
そしてその感受性を育む中に、本来のいのちの在り方である「生老病死」という問題の見え方も変わってゆく。あるいは劣等感と優越感の間で悩み苦しむという在り方からもまた、離れていくことができる。そして、自分だけではなく、人の抱える喜び・悲しみに目を向けていけるという「共感」にも繋がっていく。仏教が育む感受性とは、そのようなものであるとお話をいただきました。
ほとんど仏教の専門的な言葉を使わず、また軽快な大阪弁とどこか皮肉めいたユーモアたっぷりの天岸先生のお話で、皆さん頷きと笑いの絶えない時間となっていました。仏教のお話、法話というものは敷居が高く、難しい、また聞きたくないものと思われがちですが、そんなイメージを塗り替えられるようなお話でもありました。
■鼎談とグループディスカッション
全ての授業が終わると、今度は登壇された3名の講師と、今回の「スクール・ナーランダ」をプロデュースしてくださった、エピファニー・ワークスの林口砂里さんによる鼎談も行われました。それぞれ普段は交わることのないようなバラバラの分野のお話であったものの、どこかでうっすら通じている、ということは感じられました。しかし、まだまだボンヤリとしか感じられないその交点が、林口さんと三人の講師のやり取りを通して、よりはっきりとわかるようになっていきます。一人ひとり、経験も感受性も異なる中で、本当に「共感」するいうことは、難しいもの。それでも、人の喜びや悲しみに「共感」していこうとしていくこと、それ自体が、他者の「いのち」を敬うことであり、またその「共感」していこうという作業の一つが、ロボットと人との関わりを考えることであったり、デザインやアートと呼ばれるものを生み出すこと、ということとして、3名の講師のお話がクロスする。そんな風に聞かせてくださいました。
最後は、参加者がいくつかのグループに分かれてのグループディスカッション。当初、このディスカッションは予定されていなかったそうですが、学生スタッフの提案で、一緒に語り合う時間がほしいということで盛り込まれたそうです。そのアイデアが見事にはまり、グループごとの話し合いはとても盛り上がっていました。学生スタッフが各グループのリーダーとしてみんなが意見を言えるような場作りをし、それによって、本当にいろんな意見や考えが引き出されている様子でした。またどのお話もとても興味深いものだっただけに、参加者それぞれが、語ることができる時間が設けられたことで、より一層、しっかりと考え、学びを深めることに繋がっていたように思います。
(授業編2に続く)