『お寺に行こう!』著者・池口龍法さん、プライベートインタビュー

「未来の住職塾」の松本紹圭が、『お寺に行こう!』の著者、池口龍法さんのインタビューを行いました。

松本)お久しぶりです。
事務所にお邪魔するの、1年ぶりくらいですかね。
お元気そうで何よりです。
今日は出版記念インタビューということで、
池口龍法さんのお話しを伺ってみます。

池口)はい、元気です。
松本さんはどうですか?
最近、FBとか見てると、
けっこう周りのお坊さんに気を使っているなという気がして。
投稿にトゲがないですよね(笑)

松)今は未来の住職塾の塾長として、新たなサンガが生まれるまでは、
慎重に行こうと思っているのかも・・・?
でも最近は、だんだんサンガがコミュニティ化してきましたから、
これからはもう少し気楽に行きますよ。

池)松本さんは、しがらみのないのが良さですからね。
ぼくはお寺生まれの血縁関係もあるし、
知恩院でも編集主幹しているし、
しがらみの中にいます。

松)池口さんにとっては、フリスタがしがらみから解放される場所ですね(笑)
ところで最近、『お寺に行こう!』という本を出版されましたが、
池口さんにとっての「お寺」って何ですか?

池)何かな?、
お寺に対するこだわりってないですからねぇ。
そんなぼくが『お寺に行こう!』って本を出してるからね(笑)
供養とか祈りもあるけど、歴史を見ても面白いお坊さんのパーソナリティが大切。
宗祖の人格もそうだけど、坊主バーみたいに夜のサンガを作ってみたりとか。
いろんなかたちで、住職のパーソナリティやお寺のコミュニティがあって、
そこから人がエンパワーされるっていうのが、ひとつのベースにある。
住職の文化圏ですね。

松)なるほど。やっぱり住職の個性が大事ですね。

池)個性あふれる良いお寺との出会いが大事だけど、
そういうお寺が広く世の中に知られているわけではないですよね。
特に最近、若手のお坊さんが頑張っているし。
いいお寺の若手もいっぱいいるし、そのことも知ってほしかった。
みんな頑張って、もっとお寺に来てもらいたいという
思いを持って発信しているし、
ぼく自身も世間に発信するお手伝いをしたいという思いもあった。

お寺ってとっつきにくい場所だったからね、ぼく自身も。
「お坊さん怖い」っていう意識もあったし(笑)
若いのに発言したら怒るみたいな。師僧である父も割と厳格でした。

松)じゃぁ今も怒っていらっしゃるんじゃないですか?(笑)

池)最近は暖かく見てくれていますけどね(笑)
最初、怒ってるのかなと思ったのは、
師僧ごころというか、目をかけてくれていたんだなって今は感じます。

法然院の梶田さんにしろ、ボンズクラブの杉若さんにしろ、
こんなおもろいお坊さんがいるんや、っていうのが
フリスタを始めてからの衝撃だった。
自分の中のステレオタイプが壊れたし、
いろんな教えの伝え方、見せ方があっていいんだと。
それが最終的には日本の文化的な部分、精神的な部分での基盤になって、
人がエンパワーされ、政治経済が活性化されていくといいんじゃないかな。

松)杉若さんは確かに「おもろい」感ズバリですけど、
梶田さんはどちらかというと法話とかに熱心な
オーソドックス系という感じもしますが。

池)でも、ずーっと法話してるじゃないですか。
あんなに執拗に法話ばっかりしているお寺はないですよ。

松)そうかも(笑)
池口さんにとって「面白いお寺」って?

池)ぼくの中では、新しいお寺ができる瞬間って、好きかなぁ。
ボンズクラブはぼくが行ったときにはすでに出来ていたけど、
宗教法人格はないとはいえ、
ああいう場を新たに作っちゃったわけじゃないですか。
ユニークな住職のもとにああいう場ができてくるっていう。
そこから何かが始まるっていう瞬間に立ち会えるのが、人生の面白さですね。

大阪のなんばにあるお寺は、最初はお寺なんてなかったのに、
あるとき「隣のカフェが、お寺になったんです」っていう話があって。
護摩を焚けばきっとなんばもピリっとした街になるだろうと、
護摩を焚き続けている。
そういうふうに、仏教を通じて文化が変わっていくという面白さ。

松)中心にいるのはだいたい、
そこまでやるか?ということを本気でやり続けるお坊さんですね。
護摩たきつづける、法話しつづける・・・

池)仏教って、行としてひたすらやり続けるっていう感覚がある。
孤独に耐えさせる力ってあるよね。
執拗に現代人の背中を推し続ける感じって、いいんじゃないかなって思う。
だから、個性的なお寺が多い。

頼まれてもいないのに執拗にイベントをやったり、
ボーズバーみたいに人の話を聞き続けたり。
そのベースに仏教を感じてもらえる。
そういうお寺体験が魅力的。

松)なんでこの人、こんなに一生懸命なんだろう?
この人の活動を支えているものって何なの? ってなりますよね。
そして、その活動自体に感動すれば、
その裏側にある仏教って何だろうと、自然と興味を持つようになります。

池)たとえば、本書くのもしんどいでしょう。
未来の住職塾もそうでしょうけど、新しい試みをすると、批判も受けるし。
執拗にやり続けて、最終的にはやり遂げる力がどこかで必要。
そういう新しいエネルギーを仏教からもらっているんだっていうことを
感じてもらえれば。
友光さんの向源とかもね。
毎年大きくしていく義務もないだろうに、やってしまう(笑)

松)最近の池口さんの「執拗さ」の矛先はどこに向かっていますか?

池)『お寺にいこう!』を出したばかりで、
教義の話ばっかりやりたいですっていうのもヘンな話だけど、
今は倶舎論に取り組んでいます。
仏教徒が国際的に対話しようと思ったら、共通の言語がないといけない。
日本で律の話をするお坊さんはほぼいないですけど
行動規範については律が共通の基盤ですね。
もともと仏教のお坊さんは倶舎論あたりをとりあえずひいて
そこを共通の言語にしてそれぞれの教義を作ってきているはずなんだけど、
その辞書が現代日本語で手に入りにくいっていう状況があって。
倶舎論を8年かけてアーカイブ化していきたいです。

経典や論書を遺したインド人がどんなふうに論理構築してきたのか。
仏教にとってのロジックの立て方ってどうなんだと。
そういうインフラがベースにあって、世界的な意味で対話できる、
日本仏教を再定義するベースを作ることができます。
仏教における論理だったり言葉の定義だったり。

何年かかけてやっていけば、そのOSができるのではないか。
アンドロイドみたいな世界で使える共通のOSを作らないと。
日本の仏教はガラケーみたいな状況です。
仏教っていうのはこういう枠組みでやりましょうっていうのが
できないわけはないと思っていて。
ガラパゴス携帯からアンドロイドにOSが展開していったようなものです。
アンドロイドの中で日本の文化圏を、共通言語の中で提示していく。
そのとっかかりとして倶舎論をやっている。

松)8年は大変な作業ですね。

池)大変だけど、あまりにみんな仏教のことを知らないよね。
みんな自分の宗派のことしか知らない。
大乗仏典もお釈迦様が説いたと思われていた時代のものですよ。
今「阿弥陀さんがいらっしゃいますよね」ってさくっと言われても、
ずっと檀家・門徒として学んできた人にはいいかもしれないけど、
一から説明していくのは抵抗感あるだろうし。

松)なるほど。
でも、そういう仏教各宗派に横串を通そうっていう試みは
これまでにもたくさんあったと思うんですよ。
でも、なかなか全部を突き通すことができない。
この角度から串を刺したら浄土真宗は拾えるんだけど、
日蓮宗はこぼれちゃう、みたいな。
その点、未来の住職塾は、まるっきり発想を変えて
通仏教的枠組みではなく「お寺のあり方」視点で広く横串を刺しました。

池)そうですね。
でも仏教の大きな枠組みも大変ですけど、やっぱり必要だと思うんですよ。
OSがきちっとしてくれば、共通の対話ができるようになってくる。
共通のルールだけ決めておけば、思想の自由、言論の自由は担保されるし。
仏教っていうのはこういうものですよっていう
教義的な抑え、行動規範を整える。
そのパーツをどう使うかっていうのはそれぞれの宗派でやればいいけど、
共通のOSを整備したいなと。

松)仏教界で「共通の教え」という話をするときに必ず出てくるのが
「釈尊に帰れ」というかけ声ですが、池口さんのはそうではないですよね。

池)それもひとつはあります。
「釈尊に帰れ」が間違っているとは思わないです。
でも、必ずしも原点に帰るのがいいわけじゃない。
原始仏教に帰ったら、日本仏教が破綻するしね。
日本の文化圏って独特だし。

原点こそ正しいってもんじゃないと思うんです。
そういうステレオタイプを捨てて
仏教がどんどん話をふくらませていくところに面白さを感じてほしいですね。
経典が作られていたころの時代だったら、
きっとインド人同士で、「あいつ昨日よりも話を盛ってるじゃないか」
「でも今日のほうが面白いよな」、
っていうのがあったんじゃないか(笑)
そういう宗教の教義の構築の仕方、歴史の発展のさせ方も
あり得るんだっていうことを押さえたいです。
でもそれをやるには、最低限守らなければならないルールもあるはずで。
そのインフラはきちっとやっておかなければ。

松)池口さんも、インド人方式で「如是我聞」始めてみますか?(笑)
インド人はけっこう適当なところありますからね。
時系列の歴史すら作らなかったし。
ところで、池口さんのその枠組みと、仏教の体験やそれを得るメソッド、
欧米で言われるところのマインドフルネスなどはどう関わりますか?

池)学ぶべきところがあるのも認めますが
体験を求めるのって、そういう方向に向かうのって
ちょっと怖いなっていうのがあるんですよね。
なんとなくオウムとかぶるところがあって。
体験、神秘主義的なところを求めようとすると、どうしても。

戒・定・慧ってあるじゃないですか。
禅定を高めていくっていうことも大事だけど、
仏教徒として行動はどうするんだ、
どういうふうに体験を理解して次の体験につなげていくのかっていう
智慧の部分を合わせてやっていくことが、大事なのかなと。
そのバランス感なんですよね、仏教のいいところって。

オウムの怖さって、体験に走り過ぎたところかなと。
伝統仏教はもっと体験を求めるべきだっていうのは思いますけどね。
形骸化していますよね、念仏も坐禅も。
自分が救われるっていう感覚を求めて念仏していた人って、
ぼくが子どもの頃はもっといたと思う。
それが、オウムのアレルギーがあるのかもしれないけど、
体験にフタをしています。
スポーツ的な感じがする、最近の念仏って。
念仏の体験って個人的な体験だから、
しゃべり出すとややこしくなる部分って絶対にあるけど。
それを理解するときに、スッタニパータとかよりも、
大乗仏典をベースにしていますね。

松)なるほど。スポーツ的、分かります。

池)ぼくの中で極楽世界との距離感ってあって。
念仏の中で対話をしているのですが
近く感じるときと遠く感じるときがあります。
そういうときは大乗仏典に還って行動を含めて見直していく。
日々の行動に反映されていかないと。
お坊さん酒癖悪いよねっていう批判も受けるし。
そのへんをきちっと整えていかないといけない。
でも倶舎論読むにしても、古本で10万円もするんですよ、今。

松)いつか「3分で分かる倶舎論」出してください(笑)
でも仰るように、伝統仏教の良さの一番大事なところが
もしかしたら池口さんの言う枠組みの部分かもしれない。
伝統の積み重ねが安全弁として働くというか。
体験と知識のバランスですね。

池)はい。
今の念仏会ってスポーツ的ですよね。
ぽくぽく木魚を叩いて、楽しいしね。
でもそのために800年やってきたわけじゃないから。
みんなで木魚叩いて高揚感を味わって
それだけで救われてきたわけじゃないしね。

そういうところの理解を補っていくために、
伝統だけでいいわけでもないし、体験主義でいいわけでもないし、
学問だけでいいわけでもないし、行動だけでいいわけでもないし。
全体がうまく整っていくような仕組みを作りたいです。

松)スポーツ的な念仏もあっていいと思うんですけど、
つまり、一人のお坊さんで全部をカバーするのは無理なんですよね。
地べたに這いつくばって苦のただ中にいる民衆と共に歩む僧侶もいれば、
茶道などの雅な文化と親しむ貴族系の僧侶もいる。
どちらも役割があります。
誰にも、自分にぴったりのお寺を見つけてほしいですね。

池)世の中はコンビニやマックにあふれていますが、
そういう文化のつまらなさがあります。
住職の生まれ育った環境やバックグラウンドによって
それぞれのやり方がそれぞれのお寺にある。
視野を広げると、自分のところのお寺に対する見方も変わる。
住職と一緒に新しいお寺像を作っていく一般の人が
どんどん出てくるといいですね。
住職に「あそこであんなことやってますよ!うちでもやりましょう!」なんて。

松)「未来の檀家塾」やりますかね(笑)

池)お寺ってこうだ、お葬式ってこうだ、
っていう固定観念が世の中には強いですよね。
でも、地域地域とか住職の個性によってお寺は形成されるもので、
決まったかたちがあるわけじゃないし、
本山も銀行みたいに全国共通のサービス展開をしようと思っているわけでもない。
ぜひ、住職だけでなく檀家さんにも視野を広げてほしいです。

松)コンビニみたいなフランチャイズモデルは、便利だけど、
どこかで常に自分をそれに合わせていくところはあります。
でも、お寺はそうじゃない。
自分にぴったりくるお寺を見つけるのは大変ですが、
もし見つかったらすごいですよ。

池)私は最初、フリスタを始めたときとか、情報発信する恐怖感がありました。
でも情報発信しないと何も伝わらない。
今は地縁・血縁の中で、おじいさんとかお父さんとかの
背中を追いかけて子が育っていく文化じゃない。
携帯電話で横とつながるっていう。
今は根本的にコミュニケーションの作り方が違う。
お坊さんはもっと情報発信をしなければいけないと思います。
そして、FBなどでお坊さんがどこで何を食べましたとかの情報発信は、
もっと人から見られていることを意識したほうがいい。

松)そうですね。
まぁ、私たちの周りのお坊さんはいい人が多いですから、
良くも悪くも警戒心がなくてさらけ出しちゃうんでしょうね。
私は情報発信やイベントを行うことは、
それそのものも目的ですが、それ以上に大事なのは
それをすることによって多くの見知らぬ人と触れ合い、
住職が鍛えられるということです。
自坊を娑婆修行の場にする人が、もっとも成長できるでしょう。

池)チャレンジは若いうちにどんどんして欲しいです。
40代、50代になると、ただでさえ「お坊さんは間違えちゃいけない」と
思い込んでいる人たちが、余計に失敗できなくなる。

松)歳をとると、チャレンジするハードルがあがっていきますね。
でも、未来の住職塾に60歳を超えて来られる方もおられますけど。
私みたいな、自分の息子と同じくらいの若僧の話を聞いてくださるんですから、
ありがたいことです。

池)そういう人の存在って、若い人も刺激されますよね。

松)はい、本当に。
未来の住職塾は、繁盛するお寺の作り方じゃないんですよね。
繁盛したい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。
受講する住職にとっては、自分の人生とお寺との関わり方を
再定義するような学びの場になっています。
池口さんも、倶舎論をしっかり学びたいなら、
それができる体制作りをする「寺業計画書」を書くために、
未来の住職塾本科、受講してください(笑)

池)うーん、考えてみます(笑)

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