「未来の仏教対談」は、今という時代をどうとらえ、これからの仏教をどう創造していくのかという若き僧侶たちの問いを巡って行われる、日本仏教界のリーダーたちと松本さんによる真摯な対談シリーズ。
第二回は、大本山永平寺副貫首であられる南澤道人老師をたずねて、札幌・中央寺をたずねました(前編はこちら)。
後編では、南澤老師が今このときに捉えておられる「仏道とは何か」ということについて、お聞かせいただいています。国や人種を超えて、出家/在家の区別もなく、共に歩む道としての「仏道」を語ってくださる南澤老師の力強い言葉、ぜひご一読いただきたいと思います。
(構成:杉本恭子)
◉変わる社会のなかで「仏道を歩む」とは?
松本
近頃は、お墓のこと、お葬式のこと、仏教に向き合う人々の感覚など、お寺をとりまく状況もずいぶん変わってきているのを感じます。そんななかで、伝統的なお寺を受け継ぐ若い和尚さんたちは悩んだり、試行錯誤したりされています。老師さまは、今の若い和尚さんたちのごようすをどのようにご覧になっていらっしゃいますか?
南澤老師
若い時はどうしても、仏教という教えを習ってそれを人に伝えるという、こういう気持ちでいるんですけれども。本当は、やっぱり仏教は自分自身がそのことを信じて行じていく、仏道を行じるという教えだとおもうんですね。そうすると、お檀家の人、信者の人たちと一緒になって仏道を歩むという姿勢が、一番大事じゃないかな。
私はよく「仏道はひとつなんだ」とお話しています。だから、坊さんは坊さんとしての修行をするし、みなさん方にはみなさん方の仕事のなかで仏道を修行するんだ、と。
「その人その人によってその実践は少し違うかもしれんけども、仏道はひとつだから」と申し上げているんですけどね。だからやっぱり、昔からのお寺を守っていくなかにも、「ともに歩む」というこういう姿勢が大事じゃないかと思っておりますが。
杉本恭子(以下、杉本)
老師さまはどうして、仏道は「教える」ではなく「ともに歩む」ものなんだと思われるようになられたのですか?
南澤老師
いやそれはね。そんなことは思いながらも、若い時はやっぱりね、どうしても仏教そのものが自分と一緒だということに気がつかないのです。
たとえば、『正法眼蔵 弁道話』のなかに「この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」という言葉がありますし、『正法眼蔵 現成公案』には「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり」と書かれています。
こうした、道元禅師がお示しになられた言葉も、歳を経てだんだんだんだんわかるようになってきてね。明治時代に、『正法眼蔵』から引用してできた『修証義』のなかにもね、「仏祖の往昔(おうしゃく)は吾等(われら)なり、吾等(われら)が当来は仏祖ならん」という一節があります。
「仏祖」とは、お釈迦様からずっと続く我々のお師匠さまのことです。その人たちも、我々と同じように生まれたときには赤ん坊でだんだん成長していったわけです。「仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん」。だから我々も仏道を行ずることによっていつのまにか仏様のお仲間に入れていただけるというのです。
そう考えるようになったらね、いわゆる三世十方の諸仏とかね、仏さまは別世界の人ではないのですよ。
お檀家の人にお話するときは、「みなさまのご先祖さまは仏様なんです。過去の三世十方の仏様のお仲間になられたのです」というようなことを申し上げるんですがね。そうするとやっぱり、「仏法という立派な教えを伝える」のではなくて、「みなと一緒に尊い教えを行じて行く、学んでいく」というか。そういうことが一番大事だとだんだん気がついてきまして。この年齢になってようやくそんなことに気がついてもしょうがないんですがね。
◉「受け継ぐ」と「チャレンジ」の間で
松本
宗務所、宗議会、そして永平寺でいろんなお役目を経験されるなかで、さまざまな方とご一緒にお仕事をされてきたと思います。先輩後輩の方、同安居の方もおられたと思いますが、人間関係のなかで心がけていらっしゃったことはございますか?
南澤老師
私の生まれた性格が、どちらかというとその場その場で受け止めてやるだけですからね。相手の方がどんな方であってもなんとなく違和感を覚えないで、おつきあいさせていただいていました。そのときそのとき、自分も含めまして、人はいろいろ違うからと受け止めて。
松本
副寺や監院というお立場を引き継ぐときには、これまでなされてきたことを踏まえると同時に、新しいチャレンジに取り組まれることもあったのではと思いますが。
南澤老師
あまり新しいことは生めないけれども、「これは変えた方がいいなあ」と思うことがあるときは、思い切ってみなに相談しながら変えていくということもありましたね。
人様にはなるべく「これはしてはいかん。あれをしてはいかん」とせず、お互いに垣根を取り除いて付き合おうという気持ちがありましたから、私自身はそれほど喧嘩をするようなことはありませんでした。
松本
お寺は、ずっと昔から続いていることの多い世界。ほんのちょっとした変化でも「なぜ変えなければいけないのか」と軋轢が生まれることもあります。そんななかで、老師さまは、初めから対立的なことが起きないようなかたちで物事を進めてこられたのですね。
南澤老師
そうですねえ。私自身は、対立的に物事を進めることはしませんでしたしね。職に就いたときには、前任者のやってこられたことをある程度受け継ぎながら、少し直したほうがよいと思うことは改めることはありましたけれども。
松本
今のこの時代のなかで、どのようにお寺を預かればよいのか、僧侶であるというのはどういうことかといろんな問いを持つ若いお坊さんに、メッセージをいただければと思います。
南澤老師
お釈迦さまもそうだったように、自分の思い通りにならないのが人生なんですね。『佛道教経』には「忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざるところなり」とありますが、やはり何事においても自分の「我」を爆発させないで、ある意味においては気に入らないことも耐えながら、先輩から受け継いだものを多少なりとも変えながらよくやっていくこともひとつ大事だと思いますね。
それから、昔からお坊さんは、いわゆる出家/在家という区別をして分け隔てをしますが、仏法はすべての人たちにとにかく平等に与えられている教えです。我々は「仏道を歩む」ということにおいて、いろんな立場の人たちと手をつないでいこうという考え方でやっていただければ、おそらく困難にぶつかってもある程度道が開いてくるのではないかと思います。
◉「仏道にかなう」生活をすること
杉本
「出家/在家の隔てなく、仏道を歩むということにおいて手をつないでいこう」とおっしゃっていただいて、とてもうれしい気持ちでおります。私のような在家の者にとって「仏道を行じる」とは具体的にはどういうことになるのでしょうか。
南澤老師
たとえば、朝起きて顔を洗って洗面をし、お食事をいただいてお仏壇にお参りする。そういったなんでもないようなことを、きちんと毎日やっている。その人その人なりに、ビシッとした一つの生活のリズムだったり、そういうものをしっかり守っていくことが、一番大事じゃないかと思いますね。
杉本
暮らしのリズムと自分の身を調えることによって、おのずからそれが仏道につながっていく……。
南澤老師
そうそう、それが仏道にかなっているのです。たとえば、お大工さんはお大工さんの仕事をしながら、板を削った後はカンナを研がなきゃならん。毎日毎日、カンナを研いでいつでも使えるようにして仕事を切り上げるとか、そういうことをしていらっしゃる。そういうことがひとつ欠けても良い仕事ができないでしょう。
その人その人の立場で、自分の生活を、リズムをしっかり調えて崩さないでおくことが大事だと思います。
松本
近ごろ私も、日々の習慣を整えていくことは、お坊さんにとっても、一般の在家の方にとっても非常に大切なのではないかと思うようになりました。「戒」はサンスクリット語で「シーラ(śīla)」。「行為、習慣、性格」などの意味があると教わりました。
南澤老師
仏教というものは、一人一人がともに仏道を歩むということであって、その人その人の立場や職業のなかで仏道を行じていく、学んでいく。それが仏教の一番いい生き方ではないかと、こういう風に思うのですね。
曹洞宗ですと、道元禅師さまの「典座教訓」あるいは「知事清規」など、修行道場での決まりをお示しいただいていますが、それは言ってみれば人間として生きていく、一番当たり前の生き方の大事さをお示しいただいているのだとわかってきましてね。
私も「戒」というものは、日常生活をきちんと整えてしっかり守り、それが仏道を行じでいくことになるのだと、そのような意味あいでみなさんとお話することが多くなりましたね。
◉いろんなご縁に支えられている自己になりきる
杉本
さきほど、老師さまは宮崎禅師さまのお言葉として「見えないご縁にも支えられている」とおっしゃいました。しかし、私たちはなかなか目に見えていないものに思いを馳せることが難しいように思います。
南澤老師
それはね、見えないご縁があるということは自分で感じるだけのことであって。
目には見えないとは言っても、さまざまなご縁がからみあって自分というものにつながっている。親や兄弟、先生やお弟子さんのように太い糸、それを支える細い糸といいますかね。食事ひとついただくにもそれをつくってくれた農家の人もあるでしょう。そういうご縁がもう数限りなくつながりあっているのが、本当は現実の世界です。
ただ、それはお互いの目には見えないし、自分でも知ることはできない。ただ、お互いがそういうご縁に支えられているのだけれど、永遠に変わらないかというとそうではない。仏教の教えである「空」という受け止め方もやはり考えないといけません。
お互いに支えあっているご縁は、いつも変化していますから、昨日と今日では違っています。ただ、その時その時に、いろんなご縁に支えられて私たちは生かされているのだなあと思うのです。
杉本
「今、自分がどのように在るのか」を深く感じておられるのは、やはり老師さまがずっと坐禅をしてこられたからなのでしょうか。
南澤老師
仏道修行ということは結局、自分の「我」をなくしなさいということです。坐禅もそうですし、お念仏もそうでしょうけれど、一番大事なことは「我」というものを離れるというか、忘れるというか。本当に一所懸命にやっているときは、ただそのことだけになりますから。坐禅でいえば只管打坐というときには何も考えない。
「不思量の思量、非思量の思量」という言葉もありますが、坐禅は悟りを開いて立派なものになろうとするのではない。ただ坐っているということは、今このときいろんなご縁に支えられている自己になりきるというわけです。
だけど、支えられている自分になりきっているから何もしないかというとそうじゃない。そういう風になったとき、自分の心なりなんなりを自然と、真実のあり方というものが調ってくるというのです。
杉本
では、仏道とは、その「真実のあり方」を調えていくということになるでしょうか?
南澤老師
仏道というものは、みんながとにかくこの与えられた命を生きていく一番よい歩み方だと、受け止めればいいかなと思いますがね。だから、この人とあの人、国の違い、人種の違いとかそういうことはなしで。もう、人として生まれたということが尊いと考えて、互いに手を取り合ってまっすぐとにかく生きていく。そういうことにつながっていけば一番いいんじゃないか。なかなか、それができないのが現実ではありますがね。
松本
最後に、「これから自分なりに仏道を歩みたい」という方が来られたら、本当に簡単にできる最初の一歩としてどんなことをアドバイスされますか?
南澤老師
それもね、一人ひとり違うでしょうけれども。形の上では、合掌礼拝、仏さまにお参りするときには無心に礼拝するということ。あるいは、只管打坐ということは、仏法僧の三宝に帰依するそのままの姿だということです。
『般若心経』は「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」とはじまります。観自在菩薩が「深般若波羅蜜多を行ずる」ということは、我々でいえば只管打坐がそうなんだ、と。浄土真宗のみなさまは、お念仏をされるときに深般若波羅蜜多を行じているお姿なのでしょう。
ですから、「仏道を行ずる」ということは、難しい言葉でいえば「深般若波羅蜜多を行ずる」ということになります。だけどそれは、お大工さんがモノをつくるのに一所懸命になっていらっしゃる、なりきっている姿もまさにそうなのです。「よその人に褒められる立派なものをつくろう」というときはまだ我欲がある。それがなくなって、ただ一途に木を削っているときはすばらしいものができるわけですよね。
松本
とすると、要は与えられた今ある役割をひたすら、一所懸命に果たし切るというところに。
南澤老師
そうです。だから一番の基本はやはり、まず「我」というものをなくすことです。しかし、「我」というものはある意味においては、勇気を出してつとめ励む力にもなる。仏教の「煩悩即菩提」という言葉がまさにそうだと思います。
「我をなくす」という「我」は、煩悩の「我」をなくして菩提の「我」を育てていくといったらいいでしょうかね。菩提の「我」とはなにか? それは、無我の我です。自己の「我」は「我欲」の「我」なのだから、それをクリアしていくものが仏教の教えだと思います。
松本
今日は、お忙しいなかお時間をつくっていただきありがとうございました。
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「杉本さんからもどうぞご質問を」という松本さんのお言葉に甘えて、今回は私もいくつかの質問をさせていただきました。南澤老師さまは、とても威厳に満ちた方なのですが、耳に手を当てながら私の言葉を聞き、まさに分け隔てなく導いてくださいました。無畏施というのは、南澤老師のようなあり方のことではないかと思います。ありがとうございました。
松本紹圭さんによる「未来の仏教対談」シリーズ、まだまだ続きます。
次回もどうぞ楽しみにしていてくださいね(杉本恭子)。