「作法の美しさに気づく」天心師&紹圭師(対談文字起こし20/06/25)

アートと仏道、作法と美しさについて、禅僧の風間天心師が、松本紹圭師のインタビューに応えた音源がネットで配信されています。

天心師は2012年に欧州でも禅的な食事作法の心を伝えるインスタレーションを(当時の告知記事)、今年2020年には、仲間たちと「大仏建立」を実現する取り組みを始めています。

この日の録音内容は大仏とは直接関係ないことがほとんどでしたが、師の活動の裏に秘められた想いを改めて伺い知ることができました。

続けずにはいられぬことだけが力となる

ご本人たちの許可を頂いたので、文字起こしとメモ、英訳を添え記しておきます。どうぞよろしゅう

Temple Morning Radio(6月25日放送分)
https://open.spotify.com/episode/4qeoGrd8zmlCxzrGrj9csN
コロナ大仏造立について
https://camp-fire.jp/projects/view/273684#menu
English Transcription(文字起こし英訳)
http://unsui.net/mastar/2020/06/the-big-buddha-project.html


祈諸縁吉祥
星覚九拝


以下、メモ
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永平寺の修行で特に大きな気づき
作法だらけ生活への疑問
身体と心と作法の関係
永平寺の食事の作法
天心さんの美しさの定義を揺るがせた永平寺の作法
作法は誰のためにあるのか
ある意味モッタイナイ作法
あくまでもメインは食べること
結果的に美しくなる美しさ
ほとけさまがみている
人とともにやる
仲間がいることの意味合い
アートと仏道の交差点
天心さんがたどり着いたプロジェクト


以下、文字起こし(御本人の了承を得て語尾など多少の修正を加えています)
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紹圭:昨日は永平寺の修行に入るまで少し伺いました。いろいろな気づきがあったと思うんですけど、特に、永平寺での大きな気づきはどんなものでしたか?

天心:それは(永平寺の)中にいるときにちょっと感じ始めて、むしろでてから、それを咀嚼して、より深めたという感じなんですけれど。

永平寺ってすべてに、作法があるんです。朝起きてまず顔を洗うところから作法があって。もちろん坐禅にも作法があって、掃除にも作法があって、食事にも作法があって、最後寝るときの寝かたまで、作法があるぐらい、全部作法があるんです。それをやっていくうちに、これなんで、こんなにね、決めてやんなきゃいけないんだろうって、ちょっと疑問も出てきていたんです。

(しかし)どちらかというと(永平寺の修行が)終わってから、はっきり気づき始めたのが、結局永平寺をでると、その作法ってやっぱりできないんですよ、まぁシャバの世界では。そもそもそんなことをやっている人はいないし、それをやることでむしろ人に迷惑がかかったりもする場所なので、できないんですけど、それをむしろやらなくなってから気づき始めた。

体を決められたように動かすことで、心のほうにむしろ影響してくる。

例えば毎日立つときは、立ち方っていうのがあったり、坐るときも基本は坐禅の姿ですわらなければいけない。すると何よりも背筋が伸びる、そうすると心の方がそれに伴って、気持ちも、背筋が伸びてくる。

言葉で言うとすごく当たり前に聞こえるんですけど、実は頭だけでそうしようと思っても、難しいです。普段の体の動かし方がそうなっていないと、実は心のほうもそれに伴っていかないっていうことが、むしろその作法をしなくなってから、気づき始めたんですよ。

紹圭:いろんな宗教がありますけど、仏教の特徴としてよくいわれる身体性って、坐禅をするときにこういう姿勢でこうこう、こういうプロセスでって、繰り返してそれを習慣化するというか、それでだんだん身についていく。それも含めてやっぱり仏道の体系ってできてるんだなって、お話を伺って改めて思います。

天心:そうですね、その中でも食事の作法っていうのが、僕すごく好きで。

僧堂って言う坐禅をする広い空間があるんですけど、そこでみんな一斉に食事をするんですね。その時の作法ってすごい堅苦しいんですけど、ただ、人がその作法をやっている姿が、僕にはすごく美しく見えて。

しかもですね、みんな一斉に同じ動きで食べるんですよ。あ、もちろんあの、食べるといっても、人それぞれスピードがあるので、ずれるところがあるんですけれども、あるときには揃って、あるときにはまたずれてっていう、その光景が何か僕はすごく美しく感じて、それを知って貰いたいのもあって、修行終わってからも、その作法を使ってイベントというか、ワークショップをしたんですよ

そこで何を考えてもらいたいかっていうと、実はその食事作法が行われる場所って、永平寺って、いわゆる観光の場所としてもすごい有名なので参拝者もたくさん来るんです、けれど、僧堂には入れないんです。なので、その食事作法は見ることできないんです。もっと言うと修行を終えて出てきた僕も、もう入れないんです、その中には。今現在修行している人でないと入れない場所で。そこでその、僕の視点からすると 、すごく美しい作法が、700年以上も続いているっていうのがなんか不思議に思えてきて。

僕が美術を学んでいた時に、基本的には人に見てもらうために、こう、作品を作ったり、見え方を変えたりするんです。けれどその作法の美しさっていうのは、人に見られない場所で行われているっていうことが、その僕の美しいって言うものの定義を、なんかすごく揺らがせたんですよね。

で、その時にやっぱり考えたのは、これは一体、誰のために、というか誰に向かって、この美しさが調っているのかって言うことをすごく考えて、それを、実際見てもらって、皆さんと共有するイベントを何度かやってるんです。

紹圭:なるほどそっか。表現者って言う視点からすると、まぁある意味モッタイナイじゃないけど。

天心:まぁまぁそういう思いもあります笑

紹圭:これ自体、パフォーミングアートじゃん!て言うような。これ見てもらったらすごい感動があるよねってものが、誰が見るわけでもないところで毎日繰り返されているっていうことですよね

天心:しかもそれが、美しいための美しさ、ではなくて、あくまでもメインは食べるっていうことなんです

紹圭:うーん。

天心:結果的に美しくなっているっていうだけで、そういう意味でも美しさというか、ととのうって何だろうって考えたんです。誰に向けてっていうのを考えたんです。

それは人それぞれ答えがあると思うんだけれども、僕の中で思うのは、結局は自分のために。なんですよね。さっきも少し言ったように、自分がその行為というか、その作法を行うことで、自分自身がととのってくるって言う作用が一番大きいんじゃないかなって思うんです。

もう一つあるとすれば、その僧堂の真ん中に仏様がいらっしゃるので、その方に。作法の中にも、最初にその方にお供えする作法がまず行われるんです。その前でいただくって言うことも、やっぱり作用としては大きいのかなあと思うんです 。

紹圭:誰も見てないわけじゃなくて、仏様が見ていると言う

天心:そうなんです、人間は見ていないけれども、仏様は、ど真ん中で見ていらっしゃることは、無意識に感じていたと思います。

紹圭:そこでちょっと伺ってみたいのが、みんなでやるって言うことです。仏様と自分しかいない一対一の関係の中で。それを本当に日々やりきれるかというと、なかなか大変かと思うんですけれども、共に修行する仲間がいるって言うことの意味合いっていうのをどう捉えていますか?

天心:やっぱりあるところまでは、人と共にやる必要があると思いますね、やはり僕も結局その美しさに気づいたのは、人がやっているところを見たことなので。
もちろん自分も全く同じことをやっているんだけれども、あくまでも人がやっている姿を見て、それを感じ取るというか、人のをみてそれを内在化させていくところもあったので、それはただ一人のことでは成立しなかったと思います。

紹圭:その永平寺の経験を通してそういうカタとか、作法とか、それを身体化させていくこと、その辺にかなり、アート的に言うとインスピレーションなんでしょうかね、をえて、そして今はちょうどアートプロジェクトでもあり、もしかしたら今回こうやってこうしてお話を伺って、もはやアートと言うよりは、天心プロジェクトといってもいいし、アートでもあり、仏道でもあり、道プロジェクトというのか、そこの交差するところに、今、大仏のプロジェクトが今浮かび上がっているわけですよね

天心:うーん、そうですね、そうなんです。まぁそれはもう。僕としてはこれまで、アーティストと僧侶って言う道を歩みながら、たどり着いた集大成のような、プロジェクトではあるんです。

紹圭:その集大成の大仏プロジェクトについて、では明日伺いたいと思います。よろしくお願いします。ありがとうございました。

天心:ありがとうございました

以上

雲水