「お寺の掲示板大賞2025」、今年も大賞を含め各賞の受賞が発表されました。彼岸寺でも毎年「彼岸寺賞」を選ばせていただいておりますが、今年は鹿児島県南さつま市・顯證寺さんの「瀕死の一生」という掲示板を彼岸寺賞として選出いたしましたので、この言葉を今年の最後に味わってみたいと思います。
●瀕死の一生
私たちは通常、「九死に一生を得る」という言葉を使います。絶体絶命の危機から、奇跡的に助かることを意味します。しかし、この掲示板が問いかけているのはむしろその逆。私たちは生を受けたその瞬間から、常に死に瀕した状態にある。いわば、人生のすべてが「死に瀕している時間」であるという、非常に厳しい事実です。
思えば、「仏教」という宗教は、私と常にともにある「死」を睨む教えであるのだろうと思います。仏教を興したブッダの、そのモチベーションの根源にあったのは、「生老病死」の苦悩の問題を解決することにあったことは、「四門出遊」のエピソードや、成道という得られた結果、「四諦」という教えの基盤からも明らかでしょう。
自分自身が常に死に瀕した存在であることと正面から向き合い、そしてその「死」という苦を解決する道を求めていく。それこそが、仏道のスタートラインに立つことであり、向かうべき方向でもあるでしょう。「瀕死の一生」という言葉は、まさに仏道のスタートラインに私を立たせんとする、そのようなインパクトのある掲示板であるように感じました。
●死の縁に会う
私もお寺の住職として、年に少なくない数の「死の縁」に出会います。どんな葬儀も、悲しいものではありますが、お寺に足繁く通われた人であったり、いつも町で挨拶をするような人であったり、お寺の行事のお手伝いをしてくださる方であったりと、やはりそのような関係性のある方が亡くなっていかれることは、本当に悲しく、また寂しいことでもあります。
今年も、長年お寺の役員を務めてくださった方が亡くなられました。元気で、お仕事も、いろんな役職も受けて地域の発展に貢献されてこられたような方でしたが、ある朝、本当に突然、なんの前触れもなく倒れ、そのまま亡くなられたということでした。ご家族も、私も、あまりにも急なことで、本当に信じられない、受け入れがたいという思いで愕然としましたが、これが我々の現実であるのだということをまざまざと突きつけられました。
あるいは、今年は50代の方の葬儀を勤めることがありました。若い方の死というのも、殊更悲しいものであり、また自分ともさほど年齢が離れていないことから、遺されたご家族の気持ちを思ったり、あるいは自分自身に引き当てて考えると、その喪失の大きさには、本当に胸が潰れるような気持ちにもなります。
いつ終わるともしれない、しかも年齢は関係がない。まさに私たちは「瀕死の一生」を生きているのだと、改めて痛感した一年だったかもしれません。
●白骨の御文章
しかし、このようなことは、仏教においては口を酸っぱくして言われていることであり、また私もこれまでずっとずっと聞き続けているはずのことでもあります。
例えば葬儀の中で、浄土真宗では蓮如上人の書かれた「白骨の御文章」を拝読します。その中にはこんな言葉が出てきます。
「われや先 人や先」
「今日ともしらず 明日ともしらず」
「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」
「老少不定」
これらは、どれも私の命の儚さを表している言葉です。誰が先にこの命を終えるのか、それは明日かもしれない、今日かもしれない、ひょっとしたら、朝には元気でいても、その日の終わりには、死を迎えているかもしれない。「死」というものは若いからとか、年を取っているからとか関係なく、常に平等にこの私の身に寄り添っている。
このような言葉を聞きながらも、それでも突然の死や早すぎる死に驚き、悲しむことになるのは、本当の意味で、これらの言葉と向き合えておらず、死が常に私の目の前にあるものであるとは受け取れていないということなのでしょう。
「白骨の御文章」の中では、その最後に蓮如上人は「たれのひとも、はやく後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」と締めくくられています。「後生の一大事」というのは、「死」という苦を克服していく道のことです。蓮如上人は浄土真宗の僧侶ですから、そのための方法として、阿弥陀仏という仏さまを依り所とせよ、念仏を申せよとおっしゃっています。
そして、いつ終わるともしれない命であるのだから、「はやく」とおっしゃるところにも、蓮如上人の切実なる思いが表されています。死に追いつかれてしまうその前に、一刻もはやく、「死」という苦を克服していく教えに出会ってほしい。これが、仏教に通底する願いであるでしょう。
●さいごに
今年も残すところ、あと僅か。また新たな年がやってきます。私たちはそれを当たり前のことのように思っている、あるいはそれを当たり前とすらも考えずに生きているかもしれません。しかし、明日がやってくることも、新たな年がやってくることも、決して当たり前のことではなかった。その事実に向き合うことは厳しいことであるかもしれませんが、そのことによって、仏教の意義も、そして私たちの生きる「今」の意味も、より深められていくはずです。
「瀕死の一生」という言葉から改めて考えさせられたことをつらつらと書きましたが、当たり前ではない今、共々に、それぞれの仏縁を大切にしていきたいものですね。
今年も一年、彼岸寺にお参りをいただき、ありがとうございました。
皆様どうぞ良いお年をお迎えください。



