「お寺の掲示板大賞2024」、今年も大賞を含め各賞の受賞が発表されました。彼岸寺でも毎年「彼岸寺賞」を選ばせていただいておりますが、今年は大分県中津市・雲西寺さんの「おなじ船にのっている」という掲示板を彼岸寺賞として選出いたしましたので、この言葉を今年の最後に味わってみたいと思います。
※大賞他、各賞はこちらから>>https://www.bdk.or.jp/kagayake2024/publication.html
●WE’RE ALL IN THE SAME BOAT
この雲西寺さんの言葉には、小さく「バンクシー」と書かれています。調べると、2021年にイングランドのローストフトという町の公園にバンクシーによって描かれたもので、ボートに3人の子どもが乗り、一人がボートの水をかき出している絵で、その絵に合わせて「WE’RE ALL IN THE SAME BOAT」と言葉が添えられています。この言葉を元にしたのが「おなじ船にのっている」という言葉であろうかと推測できます。
こちらのハフポストの記事で実際の作品を確認できますが、水たまりが残る壁面に描かれたこのバンクシーの作品は、本当にボートが泥沼に沈んでしまいそうな様子として見えてきます。そして水をかき出しながら泥沼を進もうとするこのボートとともに「WE’RE ALL IN THE SAME BOAT」と書かれてあるわけですから、この作品を観る我々も、このボートに乗っているんですよ、他人事ではないですよ、ということが訴えかけられているのでしょう。
ハフポストの記事には、このバンクシーの作品は、地球温暖化に伴う加速度的な気候変動問題に対する危惧を表すメッセージであると評論されています。ぬかるみ自体も、豪雨という異常気象によってもたらされたものであり、そこに沈みそうなボートというのは、まさに我々の生きるこの世界を指しているようです。そして沈むのを防ごうとする人、前だけを見て進もうとする人、不安そうに見ている人と、危機においてもバラバラの行動を取っている様子は、私たちの社会の縮図のようでもあります。そして、私もまた「おなじ船にのっている」わけですから、ではその危機に瀕した船の上で、あなたはどのような行動を取っていますか?ということを突きつけられているようでもあり、実に巧みなアート、そしてメッセージであるなあと感じます。
●世界と私たちの社会の今
バンクシーの作品において「WE’RE ALL IN THE SAME BOAT」という言葉は、気候変動問題に対するメッセージであることは間違いないでしょう。しかし、私たちがいま直面している問題は、気候変動だけではないというのが、ここ数年痛切に感じられるのではないでしょうか。
特に2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻や、2023年10月にはイスラエルがパレスチナに対して大規模な攻撃を開始し、どちらも未だに解決の糸口が見えていません。さらにはそのような武力紛争に伴う難民の問題や、難民や移民の増加によって民族差別が激化し、SNSでも差別と分断を煽るような言葉が平然と飛び交っています。自分たちの権利や生活を守るためという大義名分の下、このような他国・他民族への攻撃や、ヘイトを煽ることが正当化されていく向きもありますが、果たして本当にそうなのでしょうか。
仏教の有名な説話に「共命鳥(ぐみょうちょう)」という鳥のエピソードがあります。この共命鳥は、一つの身体に頭を2つ持つとされる空想上の鳥で、一方の頭が起きているとき、もう片方は眠っています。ある時、起きている方の頭が美味しい果樹の花を見つけて食べました。身体は同じですから、当然自分たちが生きるために必要な行動です。しかし、もう片方が目覚めた時、美味しい果樹の花を勝手に食べてしまったことに腹を立て、腹いせにと毒のある花を食べて、相方を殺してやろうと試みます。しかし身体は一つですから、結局毒の花を食べて死んでしまった、という物語です。
他にも、2つの頭がお互いに声の美しさを競うあまり、片方が毒を食らって死んでしまうというお話であったり、この2つの頭はお釈迦様と提婆たち多の関係を表すものとして説かれたりもします。実際にそんな鳥は存在しないのですが、他者を憎しみ傷つけることは、畢竟、自分自身を傷つけることに繋がっているということを諌めているのが、この「共命鳥」の例え話なのではないでしょうか。
そして、それは今を生きる私たちにも当てはまることです。様々な関係性の中ではじめて「私」という存在が成り立つことは、仏教の無我や縁起の教えからも明らかです。そしてその「関係性」というものに対する視野を広げていけば、「私」と無関係である存在というのは、決してあり得ないということも見えてくるでしょう。人や様々な物事を通して、あらゆる命と私とが繋がり合っている。同じ船に乗り合わせているようでもあり、共命鳥のように命が共に繋がって存在しているのが、「私」であり「私たち」なのです。
そう考えた時、国籍が違うから、生まれた場所が違うから、民族が違うから、文化が違うからと、理由をつけて他者を睨みつけたり、憎しみの言葉を向けることをするならば、その刃は必ず自分にも返ってくるでしょう。そして他者の尊厳を傷つけることは、自分の尊厳も傷つけられる環境を作り上げていくことに他なりません。おなじ船に乗っている者同士であるならば、自分とは異なる属性や背景を持つ人であっても、共に在る存在として手を取り合っていくことが、大切であるはずです。
もちろん、世界は複雑で、限りのある世界では、そんな悠長な綺麗事で片付かない部分もあるかもしれません。しかし、互いに憎しみの鎖を繋げていくならば、今よりも、世界には怒りと悲しみが満ち溢れることになり、その怒りと憎しみが自分自身に向けられたり、自分自身も怒りと憎しみの渦に飲み込まれていくかもしれません。
様々な争いや差別、分断が激化する今。私たちは「おなじ船にのっている」者同士であることを改めて見つめ直し、憎しみを増幅させて互いに傷つけ合う未来ではなく、共に手を取り合っていける、そんな明日を目指していけたら。「おなじ船にのっている」という言葉から、そのようなことを考えさせていただきました。
今年も一年、彼岸寺にお参りをいただき、ありがとうございました。
皆様どうぞ良いお年をお迎えください。