「いがみ合う世界」から「おがみ合う世界」へ

2021年もあと僅か。今年の締めくくりに、「お寺の掲示板大賞2021」で彼岸寺賞に選出した言葉について味わってみたいと思います。

今回彼岸寺賞に選びましたのは京都府の真宗高田派のお寺、栄真寺さんの「いがみ合う世界からおがみ合う世界へ」という掲示板。「いがむ」と「おがむ」、たった一文字変えるだけで全く正反対の言葉になるという気づきが素晴らしく、またそこに「おがむ(拝む)」という宗教的な態度を表す言葉が用いられている点が優れているなあと、こちらの作品を選ばせていただきました。

・おがむといがむ

「おがむ」という行為は、一般的には神仏に対して行うもの、というイメージがあります。仏教においても、私達は仏さま、あるいは仏像などに対して合掌礼拝をしますが、その行為の発祥であるインドでは「ナマステ」と合掌して挨拶をするそうです。そしてこの「ナマステ」という挨拶は「あなたを敬います」という意味を表しています。そこからこの掲示板にある「おがみ合い」という言葉を考えますと、神仏だけではなく、「人と人とがお互いに敬いの心を持っていきましょう」というメッセージとして受け取ることができます。

それに対して「いがみ合い」という言葉は、現代社会が抱える大きな問題、「分断」を想起させる言葉です。

思えば、このコロナ禍以前から世界で見え隠れしていた「分断」、すなわち人と人との「いがみ合い」のようなものが、コロナ禍を契機として、より深まったように感じられるのは、私だけではないはずです。

例えば、新型コロナウイルスへの対応をめぐるあり方や、危機感の温度差、あるいはマスク着用やワクチンに対する考え方や態度の違いなど、それぞれが自分の信じるものを信じ、違う考えの人を正そうとする。しかもそれが悪意ではなく、むしろ善意、自分が「良い」と信じる信念に基づく行為として行われ、それぞれが正しいとする意見と意見とがぶつかり合い、互いに一歩に譲らず、なんとか相手を論破し、正しい(と思いこんでいる)道へと引き入れなければというようなところから、「いがみ合い」のような形になってしまう。そんなことがネットを中心に見られました。

本来私達が克服すべきなのはこの新型コロナウイルスというウイルスであり、それによって引き起こされる病気、なのですが、その克服の手段や克服までの道のりを巡って、打ちのめす相手が自分と違う意見を持つ人、というようになってしまっているようにさえ感じられ、手を取り合って困難に立ち向かうということもまた、ウイルスの克服と同様に難しいことであることを思い知らされたような気がします。

そんな私達の今日のあり方を目の当たりにする中で、「いがみ合う世界からおがみ合う世界へ」という言葉は、「本当にそれでいいんですか?」という問いかけをしてくれるかのようです。

『仏説無量寿経』というお経の中には「世間の人民、父子・兄弟・夫婦・家室・中外の親属、まさにあい敬愛(きょうあい)して、あい憎嫉(ぞうしつ)することなかるべし」という言葉があります。「当相敬愛(とうそうきょうあい)」という熟語としても知られ、また相愛大学の建学の理念ともなっている言葉ですが、人と人、お互いに敬い慈しみ合い、互いに憎しみ嫉むことのないように、ということを表しています。「いがみ合い」から「おがみ合い」への精神が、お経の中にも願われていることも思い出されます。

・おがみ合う難しさ

しかしこの実践は、なかなか難しいことでもあります。慎みや敬い、親しみをもって接してくれる人に対しては、こちらも同じ様に振る舞うことはできますが、敵意むき出しで、攻撃的なまでに自分の正しさを押し付けてくる人や、嫌がらせのような言動を向けてくる人に対して、敬いの気持ちをもって接することは簡単ではありません。

また、「自己責任」ということが強く叫ばれる時代にあって、私たちは「自分は正しい」というところから一歩も動けないという状況が作り出されています。もし自分に落ち度や間違いがあるとちょっとでも認めた瞬間に、悪いのはすべて間違えた側の自分ということになり、その言動のすべてが非難の対象となってしまいます。炎上とも言われる苛烈な非難が巻き起こる社会にあってその被害を受けないようにするためには、自分の非を認めない、自分は正しいというところから動かない、そのような態度でなければ、到底サバイブしていくことはできません。

そのためには、常に「自分は正しい」というスタンスに立ち、「違う考えを持つ相手が間違っている」というように振る舞っていかなければならないということになってしまいます。しかし、そのような誰もが「頑な」であらざるを得ないことこそが、「いがみ合い」に拍車をかける一つの要因となっているのではないでしょうか。

では、どうすればそのような「いがみ合い」の世界から、「おがみ合い」の世界へと変えていくことができるのか。その一つのヒントは、私は親鸞聖人の生き方にあるのではないかと考えています。

・I am wrong

今年読んだ碧海寿広(おおみとしひろ)さんの著書『考える親鸞』には〈「私は間違っている」から始まる思想〉というサブタイトルがつけられていました。親鸞聖人の出遇われた教えは、阿弥陀仏という仏さまのはたらきによって「私が仏と仕上げられていく」という教えです。それは人間の常識的な考え方からは、ともすればファンタジーのような、ありえないフィクションのように聞こえるかもしれません。しかし絶対他力とも言われるその教えは、自分自身の力で仏と成ることができない「いたらなさ」や「不完全性」と徹底的に向き合い抜いた果てに、意義のあるものとして立ち上がってくるものでもあります。自分自身の不完全性と徹底的に向き合った親鸞聖人の姿勢に、これまでも多くの思想家が影響を受けてきたことが、碧海さんの著作の中に明らかにされていきます。

その中で、私が特に興味深く読んだのは、終章で紹介されていた鶴見俊輔氏という哲学者の親鸞観です。鶴見氏は親鸞聖人の思想を「I am wrong(私は間違っている)」の考えと捉えているということですが、これは親鸞聖人の「悪人の自覚」というものが捉え直されたものであると思います。親鸞聖人は自分自身のことを「煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)」や「底下の凡愚」、「いずれの行もおよびがたき身」であると厳しく見つめておられます。煩悩に抗えず、煩悩に振り回され続けることしかできない弱い心のあり方をした存在=「凡夫」である自分自身には、揺るぎない正しさなど存在しない。にもかかわらず、他者を間違っている(=you are wrong)とするのではなく、自分自身こそを厳しく疑いつづけることが大切であると、鶴見氏は考えていかれたようです。

また著者の碧海さんは次のようにも書かれています。

自己への懐疑を忘却し、ただ「あなたは間違っている」の思想に呪縛されたとき、人は、自分を取り巻く世界にひたすら愚痴を吐き、他者に向けて悪態をつき続けるだけの、言葉の最悪の意味での「悪人」になりさがる。そうは決してならないための倫理を体得する上で、親鸞は、今後も引き続き確かな指針を私たちに与えてくれるはずだ。

私達の社会に蔓延する「いがみ合い」。それは、私自身の中にある「自分は間違っていない」「他者こそ間違っている」という考え方に端を発している。そして「自分自身は本当に正しいのか?」ということを常に問い続け、疑い続けることが、「いがみ合い」の世界から脱却するための第一歩となるはずです。

もちろん、これもまた難しいことであることは否めません。ましてや親鸞聖人と同じように厳しく自分自身を見つめ抜き、自身を「愚者」であり「悪人」であり「凡夫」と見なしていくことも、そう簡単にできることではありません。しかしそうであったとしても、他者よりもまずは自分自身にこそ、厳しい目を向けていくこと。そしてそこからさらにもう一歩、私達は「縁起」と呼ばれる繋がりによって「共に在ること」を見つめ、今度は他者、他のいのちへの敬いへと転じていく。

その積み重ねこそが「いがみ合う世界」から「おがみ合う世界」への歩みとなっていくはずです。そしてこれもまた、まず他者に求めるのではなく、私の身の上から実現していきたいものですね。

2021年もあと僅か。今年一年を振り返りつつ、今一度、自分自身を見つめ直してみる時間としながら、新たな年を迎えましょう。

それでは皆さま、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

今年一年、彼岸寺をご愛顧いただきまして、誠にありがとうございました。

合掌

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。