オフロスキーに阿弥陀仏を見た!

本日11月26日は「いい風呂の日」!ということでお風呂にちなんだお話を。

子育て中の方にとって「お風呂」から連想されるものといえば、そう、オフロスキーですよね!

オフロスキーというキャラクターをご存じない方のために説明をしておきますと、Eテレで放送中の子ども向け番組「みいつけた!」に出てくるキャラクターで、名前の通りお風呂が好きで、いろんな一人遊びやダンス?をやってくれるオジサン(?)です。

「呼んだ?」「呼んだよね〜」と、呼んでもないのに出てくる登場シーンが印象的で、一人で一人遊びをやって、「またやろう」と帰っていく姿は、楽しげな中にもそこはかとなく哀愁が感じられます。いろんな楽しいキャラクターがたくさん登場する番組の中でも、なぜだか気になってしまう愛すべきキャラクターです。

そんなオフロスキーが特に気になりだしたのが、「オフロスキーかぞえうた」という歌を聞いた時のこと。なぜだかよくわからないけれど、なんだかとても心動かされてしまった私がいました。なぜだろう?と考えていたのですが、歌に表されていたオフロスキーの姿に、阿弥陀という仏さまの姿が重なるのではないか、ということに思い至りました。

「オフロスキーかぞえうた」

https://www.facebook.com/198337473539135/videos/10150231143519739/

そこで今回はその「オフロスキーかぞえうた」を通して、阿弥陀仏という仏さまについて味わってみたいと思います。

「オフロスキーかぞえうた」の歌詞は、著作権の問題などがあるので、直接全部は書けないので、こちらからチェックしていただけたらと思います。数え歌なので「ひとつ〜〜、ふたつ〜〜……とう(十)」まで続くタイプの歌ということで、「ひとつ」から順番に見ていけばいいのですが、統一性があるようなないような感じなので、少し順番を買えて見ていきたいと思います。

・「みっつ」と「よっつ」

まず私が一番最初に「オフロスキーは阿弥陀仏のようだ」と感じたのは、「みっつ」と「よっつ」の歌詞です。この二つのパートでは、オフロスキーの特徴の一つである〈呼んでもないのに、「呼んだ?」と出てくる〉姿が歌われています。オフロスキーにとっては当たり前のことなのですが、呼んでもないのに「呼んだ?」と出てくるというのは、普通に考えると違和感があります。なぜなら、順番が逆だからです。普通であれば、「オフロスキー!」とこちらからの呼びかけがあって初めて「呼んだ?」となるはずなのです。ところがオフロスキーはこちらの呼びかけなしに「呼んだ?」と出てくる。つまり、私たちの呼びかけ、はたらきかけよりも、オフロスキーの声の方が先なのです。

私がオフロスキーに阿弥陀仏を感じたのは、まさにここです。どういうことかというと、阿弥陀仏もまた、こちらからの呼びかけ、はたらきかけの前に、私によびかけ、はたらきかけてくれるという仏さまだからです。

阿弥陀仏という仏さまは、「あなたを仏にするぞ」とはたらきかけてくださる仏さまなのですが、こちらが「阿弥陀さまお願いします」とか「阿弥陀さまー!」と呼びかけはたらきかけをする前に、すでに「南無阿弥陀仏」という声となって、私のところに来てくださっている仏さまです。つまり、私たちが呼んでもいないのに私のところに来てくださっている仏さま、ということ。まさにオフロスキーの「呼んだ?」と出てくる姿と重なるのではないでしょうか。

・「ななつ」と「やっつ」

オフロスキーと阿弥陀仏への想いが溢れすぎて、最初からかなり飛ばしてきてしまった感じもありますが、大丈夫でしょうか、置き去りにしてしまっていませんでしょうか?

次にオフロスキーの姿から阿弥陀仏を感じたのは、「ななつ」と「やっつ」の歌詞です。この2つでは、泣いている友だちを探して、「やっほっほい」と声をかけて励ます様子が歌われています。この姿は、まさに「慈悲」の表れではないでしょうか。

「慈悲」とは「抜苦与楽(ばっくよらく)」とも言われますが、悲しみ苦しみに寄り添い、それを取り除いて、楽を与えてあげたいと思う心であり、はたらきであるとされます。そして、その「慈悲」は別け隔てをしません。苦を抱える人全てに振り向けられる心であり、はたらきです。そしてそれは本来、仏に具わる性質で、阿弥陀仏の慈悲は「あらゆるいのち」に向けられるものであることから「大慈悲」と呼ばれています。

そして、オフロスキーが、泣いている友だちを探して、「やっほっほい」と声をかけるという行為は、悲しみに共感し、なんとかしてあげたいと願い、楽しませるというはたらきをもたらす。まさに「慈悲」の実践に他ならないのです。

・「ふたつ」、「いつつ」、「むっつ」

さて、続いて「ふたつ」と「いつつ」と「むっつ」の歌詞から。この3つのパートからは、オフロスキーが楽しく一人遊びをしている様子が歌われています。ふらふらフラダンスをしたり、物を立てたり、夢中で音を立てたり、一人遊び大好きなオフロスキーの楽しげな様子が伝わってきます。

「え?そんなところに仏さまの姿があるのか……?」と思われる方もおられるかもしれませんが、実はこれこそまさに仏さまの姿なのです。

仏さまの境地を表す言葉の一つに「遊戯(ゆげ)」というものがあります。一般には「遊戯(ゆうぎ)」と読んで、「おゆうぎ」のように子どもが遊ぶ姿を想像されるかもしれません。しかしこの「遊戯(ゆげ)」というのは、仏・菩薩の在り方を表現する言葉としても用いられるものです。

「遊ぶ」ということを考えてみますと、例えば子どもたちが遊んでいるときというのは、それこそ夢中になって、時間も忘れて、そのことに没頭しています。そして「遊び」にはなんの義務感もなければ、苦痛もありません。そこから転じて、何にもとらわれない、「自由自在」であったり「思いのままに」という様子も表します。仏さまが「遊ぶ」とはまさにそんな姿です。自由自在に、思いのままに、義務感も苦痛もなく、まるで子どもが遊ぶかのように、あらゆる衆生を救おうとはたらく。それが仏さまの在り方なのです。オフロスキーが一人で自由自在に、思いのままに遊ぶ姿は、仏さまの救いの姿と見事に重なるのです。

・「ここのつ」と「とお」

残りも僅かですが、続いて「ここのつ」と「とお」です。歌の締めくくりとなるこの2つのパートでは、ここまでよく頑張ったね、というねぎらいと、ジュースがうまい!とまとめられています。

阿弥陀仏という仏さまは、極楽浄土、という仏さまの世界におられる仏であると言われます。しかし、そこにデンっと構えて、ただただ待っているわけではありません。先程「遊戯(ゆげ)」のところで書いたように、遊ぶように私のところにやってきて、私を救おうとはたらいてくださる。そしてこの私が、人としての生を終えたあかつきには、「苦悩の人生をよう頑張ったな」とねぎらい、そして温かく極楽浄土に迎えてくれるのです。そして極楽浄土では、法楽という楽しみが、存分に味わえると言われます。ここでも、オフロスキーの姿から、阿弥陀仏のような大きな存在感を感じることができるのではないでしょうか。

・「ひとつ」

さて、ここまで「オフロスキーかぞえうた」を見てきましたが、一番最初の「ひとつ」が残っています。最後にこの「ひとつ」を見ていきますが、歌詞ではオフロスキーの代名詞でもある一人遊び、一人で遊んでいる様が歌われます。

オフロスキーは、いつも一人で遊んでいます。楽しそうですが、やはりなんとなく哀愁のようなものも感じられます。でも、もし一緒に遊んでくれる人がいたらどうでしょう?きっとオフロスキーは、とても嬉しく感じてくれるのではないでしょうか。なぜならば、オフロスキーが、呼んでもないのに「呼んだ?」と出てくるのは、テレビ画面のコチラ側にいる私たちと、一緒に遊びたいからです。その想いが通じて、一緒に遊べることとなったら。それはオフロスキーにとって、何よりも嬉しいことになるのではないでしょうか。

阿弥陀仏という仏さまも、まさにそんなオフロスキーと同じなのです。仏の世界、彼岸とも呼ばれる「さとり」の境涯から、此岸、あるいは娑婆と呼ばれるこの人間の世界に、常に呼びかけ続けている仏さまです。その呼びかけが、こちらに届いた時、つまりそれは私の口から「南無阿弥陀仏」という念仏が出るということですが、その時には、阿弥陀さまにとっても、大きな喜びとなるのです。なぜならば、想いが届いた、呼びかけ、はたらきが届いた、ということだからです。

阿弥陀仏という仏さまは、十方衆生、「あらゆる世界のあらゆるいのちを救う」という誓いを立てて、その誓いが間違いないものとする=成就することで、仏と成った仏さまです。ですから、私が救われること無しには、阿弥陀仏も仏たり得ないのです。ですから、私が救われる(=仏と成る)ことは、阿弥陀仏にとって、大いなる喜びなのです。

・まとめ

以上、「いい風呂の日」ということにちなんで、「オフロスキーかぞえうた」のオフロスキーの姿から、阿弥陀仏という仏さまの姿を味わってみました。ここまで読んでいただいた方は、もしかするとオフロスキーの姿が、仏さまのように見えてくるかもしれません。

そうそう、この「オフロスキーかぞえうた」では、「オフロ オフロ オフロスキー♪」と歌われる部分があります。ここもちょっと変えてみて「アミダ アミダ ナムアミダー♪」なんて口ずさんでもいいかもしれませんね。

今日のお風呂タイムにぜひどうぞ。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。