先月から、ネットやニュースを見ているととても悲しい気持ちになることが何度もありました。例えば杉田水脈氏の「LGBTは生産性がない」という旨の主張がされた文章。そこから感じられたのは、人を生産性(杉田氏の用法は子どもを産むことを意味)で価値付けし、ひいては人を国のために役に立つかどうかという有用性で分け隔てをするという考え方であり、LGBTの方への無理解、偏見、差別、ヘイトということだけでなく、私達の「いのち」の尊厳に関わる問題であったと受け取るべき問題であるように感じられました。
また、東京医科大学では、女性受験者入試の点数一律に減じていたというニュースもまた驚くべきものでした。公平でなければならないはずのものが性別を理由に操作されていたなどということは、許されることではありません。医療体制の維持を理由に挙げて差別ではないという主張も見られましたが、それは男性を中心とした都合によるものでしかなく、このことが差別ではないという認識があることに、暗澹たる思いがしました。
これらの問題に対する論評は多くの方がされていますから、そちらにお譲りするとしまして、今回は一僧侶として、人と人がお互いにどのように向き合えばいいのか、ということについて少し考えてみたいと思います。
・縁起から考える
仏教では、私たちの存在は「因縁生起(いんねんしょうき)」のものであると教えてくれます。これは私たちが他との関係が縁となって始めて生起するもの、成り立ってくるものであるという考え方です。そこには目に見える直接的な関係性もあれば、一見するとどこにも繋がりのない人であっても、人や物を媒介として間接的に関わっているという関係もあります。視野を広げれば、私と無関係の人など実はどこにもいないのではないかと言えるほど、私たちはどこかで繋がっているものです。お釈迦様の言葉には、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
という有名な言葉もあります。これは煩悩(此)と苦(彼)の相互関係を表した言葉でありますが、私という存在に関しても当てはまる考え方と言えるのではないでしょうか。
そのような立場から考えると、自分とは関わりのないように見える他者であっても、その人がいなかったならば、私の今というものが在り得ないという可能性が見えてきます。他者が現に今そこに存在している。関係性は目に見えなくとも、そのこと自体が、実は今のこの私を私たらしめている可能性があるのです。そうであるならば、他者の「いのち」を否定することは、巡り巡って自分自身の「いのち」の否定にも繋がりかねません。ですから、どんな他者であっても、私を成り立たせているものであると見るならば、どんな他者も敬うべき対象となることでしょう。大切なのは、その人の有用性や属性などではなく、その存在そのものなのです。
・慈悲から考える
次に仏教の慈悲の観点から考えてみましょう。慈悲は「慈」と「悲」に分かれる言葉で、「慈(マイトリー/メッター)」は別け隔てをしない友情であり、相手に安心を与える心を意味します。そして「悲(カルナー)」とは相手の苦悩や悲哀を共に感じるという心のことを表します。他者の悲しみを共にするということは、他者の心を想い図るということであり、他者に安心を与えるということは、他者に恐れを与えないということと同義です。仏教では相手に恐怖を与えないことが布施の一つの行い(無畏施)とされるように、相手に恐れを与えないことが大切にされます。
それは「不殺生」という考え方にも繋がるものです。「アヒンサー」とも呼ばれるこの「不殺生」というのは、暴力を意味する「ヒンサー」を否定するという言葉ですから、他者を傷つけることを避けようという教えです。『ダンマパダ』には、
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
という有名な一節があります。相手に恐れを与えること、つまり他者の大切にしているものを傷つけることは避けるべきであることが示されます。そしてさらに大切なのは「已が身にひきくらべて」ということ。これは自分自身がそれをされたらどう感じるのかを問い、他者にも思いを寄せる、ということです。自分自身を否定されるようなことを言われた時、自分はどう感じるのか。自分がそれを恐ろしいとか不快に感じるならば、きっと他者も同じように感じるだろうと思いを寄せ、不快になる言動を人にしてはいけないということです。
自分がされて嫌なことは人にしてはいけない。「慈悲」というと少し大げさなものに感じられるかもしれませんが、基本的なところを見れば、とてもシンプルな考え方ではないでしょうか。そして「慈」は別け隔てのない友情ということですから、ここでも他者を有用性という自分の都合で見つめることはなされていません。相手の立場や属性で価値を判断したり、自分が理解できないからと言ってその存在を否定したり自分の都合に合わせようとするようなあり方というのは、差別という暴力に繋がりかねないものです。「慈悲」という心は、そのような自分勝手な都合や、そこからくる暴力を離れ、他者を思いやるという心です。
・青い花は青いままに
『仏説阿弥陀経』というお経の中には、
青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
という言葉が出てきます。極楽浄土という世界では、青い色の蓮の花は青い光を放ち、黄色の蓮の花は黄色の光を放つ。それぞれの色をした花々が、それぞれの光を輝かして咲いている、と味わえる言葉です。
実は私は以前、このような味わいが今ひとつピンとこないということがありました。なぜなら、あまりに当たり前のことを言っているからです。しかしながら、それは決して当たり前ではなかったということに、ようやく目が向くようになりました。私達の社会では、青い花に赤く光れと言われたり、赤い花に黄色の光を放てと言われるようなことが往々にしてあるのです。
多様性と言われる時代ですが、人はそもそも一律のものではなく、多様な存在です。人それぞれが、それぞれの色を持って生きています。けれど、まだまだその色を互いに認め合おうとするよりも、いくつかの枠にはめて、限られた色に染めようとするという力もはたらいています。
自分と違う価値観というものは、なかなか理解できないということがあるのかもしれません。しかし、必ずしも理解しなければいけないということでもありません。無理に理解しようと、他者を思い通りの色に染め上げたいとするのではなく、ただ単に、「あなたはその色なのですね」とお互いにその人の持つ色を認め合うこと。「青い花は青いままに」という味わいは、そんなことの大切さを教えてくれるものではないでしょうか。
(後編に続く)