「わが心にまかせば、かならずかならずあやまりなるべし」
「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり」
これはどちらも蓮如上人という方の言葉です。この二つの言葉はどちらも、仏法に向き合う中で、自分自身で「これでわかった」、「これで間違いない」というような思いに至る時、それは誤った思いであると諌める内容となっています。自分自身で「わかった」とすることは、自分自身が絶対的に正しいということに執着する姿であり、自分の思いや考えに閉じこもってしまう姿です。それは、傲慢で、教えを聞く姿勢を失うという危険をはらんでいます。
しかしこの言葉は、仏法に向き合う時だけでなく、私の普段の在り方にも警鐘を鳴らすような言葉でもあると、最近強く感じています。いろんな物事に対して自分が善/悪や正/邪などの判断を下す時や、物事に対して評価を下す時、自分を絶対的に正しい立場においてそれを行います。私の考えや直感は正しい。だからそれと違うものは、誤りであるーーと。
けれど、自分の判断基準となるものは所詮自分の都合でしかありませんし、直感が的はずれであることもおおいにあります。その不完全さに目を向けることなく、自分は正しいと思い続ければ、異なる視点からの考えであっても、それを聞き入れていくことができなくなってしまいます。そうなればそこに生まれるのは衝突であり、分断です。誰もが自分は必ず正しいという立場に立てば、対話も意味をなさなくなってしまうでしょう。
自分の体験や掴んだものは間違いない、自分は常に正しいんだ、という誤った思いに流されがちな私。そんな私に「本当にオマエは正しいのか?」という問いを常に投げかけてくれるものとして、この二つの言葉をしっかりと心に留め置きたいものです。