レキシ

「温故知新」という言葉があります。「故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」と読まれるこの言葉は、「歴史」を学ぶ大切さを教えてくれる言葉としてよく用いられます。私が言うまでもなく、「歴史」を学ぶということは、21世紀を生きる私たちにとっても、重要な意味のあるものです。
しかし、この「歴史」という言葉が話題に上がるとき、なぜ「歴史」が大切なのかが、どこか履き違えられているのではないか、ということを感じます。それはきっと、国家や個人の意図のもとで「歴史」が語られるためでしょうけれど、どうも「歴史」は「学びを得る」ためのものではなく、「利用する」ものとしての扱いを受けているからかもしれません。
ではなぜ古きを尋ねること、「歴史」を学ぶことが大切なのでしょうか。いろいろな理由があると思いますが、一つは「歴史」というものは、私たちの現代にまで綿々と受け継がれている過去であり、その過去がなければ私の今もない、ということがまず一点挙げられると思います。そしてもう一点は、「歴史」には多くの学びがある、ということであるでしょう。
過去から現代に至るまでこの地球上で人間は営みを続けてきました。その中で、様々な栄枯盛衰を経験し、失敗もし、それを克服したこともあれば、いまだ乗り越えられない課題もあります。「歴史」というものを学ぶということは、過去にどんな出来事があったのかということを明らかにその上で、今を生きる私たちが、今後どのような在り方をするべきなのか、どうすべきでないのか、ということを考えるための材料とすることです。より良い自己のために活かす、と言っても良いかもしれません。そのためには、できるだけ公平に、偏ることなく、「歴史」を受け取っていかなければなりません。それは時に不都合で辛いことでもあるかもしれませんが、それを見ること無しにしては、学びは少なくなってしまうことでしょう。
しかしこの「歴史」が学ぶためのものではなく、「利用」するものとして扱われることは、今に始まったことではありません。過去にも人は「歴史」を自分の利益を得るために、都合の良いように利用してきました。
「歴史」を利用する、ということには、二つのパターンがあります。一つは、自分たちのバックボーンとなる「歴史」を素晴らしいものだと喧伝すること。それによって民族や集団の正当性を訴え、集団を強固にするとともに、他集団に対して優位であろうとします。もう一つは、「歴史」を否定的に扱うことです。それによって、「歴史」を利用して利益を得ている側を非難することができます。しかし、これらはどちらも「歴史」というものを正しく見ようとしていません。どちらも偏ったバイアスをかけ、歴史を肯定、あるいは否定することで、自己の利益を引き出したり、自分たちは正しいんだと主張するために、「歴史」を自分勝手に使っているに過ぎません。それは「歴史」というものの、正しい扱い方ではないはずです。
仏教では、「過去」はすでに過ぎ去ったものとして、執着すべきでないと説きます。それと共に、縁起という側面から考えれば、「過去」は私の「今」を作る要素となっているものとしてもとらえられます。これらのことが教えてくれるのは、過去を美化しすぎるのでもなく、また過去の悲しい出来事に縛り続けられない、「今」を大切にする在り方です。そして過去を正しく見つめることは、自らの姿を見つめる材料ともなり、私の「これから」を作るために大切な意味を持ってくることでしょう。
「歴史」を扱う際にも、同じことが言えるはずです。執着を離れ、今、そしてこれからどうあるべきかを考えるために、歴史は学ぶためのものとして扱われねばなりません。自分の都合の良いように利用するという誤った「歴史」の取り扱いは、争いすら生みだしかねないものです。同じ失敗をしないようにと学ぶべき「歴史」を争いの種にしてしまう。そんな愚かなことだけは、避けなければならないことだと思います。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。