路上の人におむすびを/ひとさじの会 吉水岳彦さん(1/3)

※「坊主めくり」ひさしぶりの更新です。お待たせしました!

吉水岳彦(がくげん)さんは、『ひとさじの会』(社会慈業委員会)を創設し、浅草周辺の路上生活者の人たちに炊き出しによる支援活動などをしておられるお坊さん。應典院の『コモンズフェスタ』で初めてお会いし、穏やかながらも芯のあるお話ぶりに私の”お坊さんアンテナ”がきれいに3本立ちまして、その場でインタビューを申し込んでしまいました。

残念ながら「写真はNG!」なのですが、とても柔和なお顔にややハスキーな声がとても印象的な方です。第一回は、「幼稚園のときにはお坊さんになろうと思っていた」という子どもの頃や大正大学でのユニークな学生生活のお話など、『ひとさじの会』の吉水さん”の前史をお話いただいています。

お父さんと「お風呂でお経」

——先日、應典院さんで「大学に行くつもりはなかったけれどお坊さんになることは決めていた」とおっしゃっていましたね。いつ頃、お坊さんになろうと思われたんですか?

幼稚園の卒園アルバムの将来の夢欄に「おとうさん(お坊さん)のおてつだい」と書いていましたから、相当幼い頃だと思います。僕の場合は、住職が子ども会をやっていて、人形劇やパネルシアターをしてくれましたし、いつもお寺にいてくれるのがうれしくて。子どもながらに、子どもと遊ぶ仕事をするお坊さんになれたらいいなあと思っていました。

お寺で育った人はみんなそうだと思うんですけども、御仏飯をいただくので毎朝お参りをしていましたし、お経はお風呂で教えてもらいました。だから、お坊さんになろうと思うこともとても自然なことでした。

——お父さんにお風呂でお経を教えていただいたんですか?

はい。言葉をしゃべれるようになる3歳くらいのときには、父がお風呂に入るたびに教えてくれました。お念仏はもっと小さい頃からでしょうね。ただ、「お風呂に入るとお経」だと覚えているものですから、たまに温泉に行くとお経を読みはじめちゃって、父はとても困ったそうです。「おい、ここはいいんだよ」みたいな(笑)。

——あはは、かわいいですね! 吉水さんはきっと、「パパ、ママ、なむあみだぶつ」くらいの順番で言葉を覚えられたんですね。でも、一度もお寺を嫌だと思うことはなかったんですか?

僕の場合は、お坊さんやお寺を否定するほど嫌なこともなかったですし、父も僕に高い理想を言わなかったので。ただ、お寺生まれの子ども特有の悩みというものはあって……。私たちはお寺生まれではあっても、ごく普通に義務教育を受けて他の人と同じように育ちます。チベットのように物心ついたときから寺院で修行生活を送るわけではありません。だから、日常で「お寺育ち」としての面を求められるとすごく困ることもあるわけですよ。時には心ないことを言われることもありますし。

お寺のなかで育ってお坊さんになったとしても、「あ、お坊さんになるんだ」と踏ん切りをつけたのは、たぶんみんなそれぞれ違っていると思います。私は、とてもわかりやすく目標にできる住職の姿もあって、幼いうちから自然にお坊さんになりたいと思えて、とても幸せだったと思います。

——「心ないことを言われる」というのはどんなことですか?

「人が死んだら儲かるんだろう」というようなことを思春期に言われるといやなんですよね。僕はけっこう鈍感だったので「ああ、そんなこともあるのかなぁ。どうなのかなぁ」と思っても忘れちゃったりしたんだと思うんですけど、敏感な友人たちはとてもつらかったと言っていました。

——「そんなこともあるのかなぁ」と思って忘れてしまえたのは、お寺やお坊さんにはいいことがたくさんあるとハッキリ思っていらっしゃったからでしょうか。

そうですね。私のお寺は浅草の寺町にあるので、町会の餅つきをお寺でしたり、斜め向かいにある幼なじみのお寺の幼稚園に通ったりして育ったんですね。子ども会のサマーキャンプに行くと、お坊さんでもある友達のお父さんがゲームや踊りをしてくれて、食事前には「ほんとうに生きんがために今この食をいただきます。南無阿弥陀仏」とお唱えすることに何の違和感もありませんでした。

——じゃあ、近所のお友達も自然に「なむあみだぶつ」を唱えるような環境で。

はい。僕らの世代の父親には、特に子どもたちの指導をするお坊さんが多かったんです。みんな大正大学の児童研究部というところの先輩・後輩の関係にあって、いろんな子ども会でゲームや人形劇をするのを楽しんでいましたから、私も自然に子どもに関わる仕事をするお坊さんになりたいと思ったんですね。

宗派対抗運動会!? 大正大学の学生生活

——大正大学は、浄土宗の宗門大学なんですか?

もともとは「宗教大学」という名前の浄土宗の学校だったのですが、天台宗、真言宗智山派、豊山派の方たちも一緒に勉強しようということになって、現在の大正大学になったんです。

——いろんな宗派の方が一緒にいらっしゃるのは刺激的な環境ですね。

すっごく楽しかったですよ。僕たちのときは、「僧堂教育」といってお坊さんとしての生活をする寮で半年間過ごすことになっていて、そこで基本的な所作やお経の読み方を教えてもらうことになっていて。同時に、お寺で育った人特有の経験をしてきた友人たちと出会うので、とても仲良くなるんですね。

寮の1階、入り口のところにはお釈迦様の像があり、右奥へ進むと各宗派の「法儀実習室」がありました。お釈迦様の前で一礼して階段を上ると、2階が真言宗、3階が天台宗、4階が浄土宗……たぶん一番浄土に近いから浄土宗が一番上だったのかもしれません(笑)。毎日「法儀実習」があって、朝のお勤めと掃除をしたら大学に行きます。ところが、寮を出るのが遅いとお釈迦様の前で正座して『般若心経』一巻を唱えないと出してもらえないんです。当時は「やらされた」感がありましたが、今はいい勉強をさせてもらったなあと思います。

それから、ふだんは三宗四派で仲良くしているのですが、宗派対抗運動会になるとものすごい燃えるんですよ。「浄土勝つぞ!」みたいな感じで(笑)。

——すごい盛り上がりそう(笑)。お坊さん志望ではない学生の方は寮に入らないんですか?

ええ。仏教学科でも仏教美術を学ぶ方などは別でした。ただ、月曜日だけは寮のある埼玉の校舎に一般の学生がやってきて授業を受けるので、みんなワクワクして待っていました。髪の毛もないのに、ちょっとかっこつけたりして(笑)。みんな18歳でしたから……懐かしいですね。

手首に隠されていた無数の傷

——なんだかほほえましいエピソードですね。大学生の頃は、卒業後にはどんなお坊さんになりたいと思っていたんですか?

大学時代の夢は、海外でお坊さんとして教えを伝える開教師でした。でも、卒業するときになって「伝える内容をどれだけ自分は勉強してきたのかな」と思ったんです。それで、親に無理を言って大学院に進みました。

学部生のころは、子ども会や知恩院さんがやっている「お手つぎ子ども奉仕団」が本当に楽しくて。ちょっと旅に出たり、お酒を飲んで歩いたりしてちゃんと勉強しなかったんです。大学院では、いい仲間にめぐりあいました。「へべれけになっている俺は何なんだろう」と自問自答をしつつ、仲間と信仰について喧々諤々の議論をしたりするのも良い時間でした。でも、実際に社会で仏教を伝えるとなると、まだ何も伝えられない自分がいることに気づかされたんです。

——大学院のときには、すでに仏教を伝える活動をしておられたんですか。

博士課程に入る前に「高校で話をしなさい」と声がかかって、3年間宗教の授業を担当しました。僕は、教職課程もとっていなかったので教育実習の経験もなくいきなり教壇に立ったんですよ。すると、初めての授業のときに、一番前に座っていた子の手首にはめられたリストバンドからたくさんのためらい傷が見えていて……すごくショックでした。でも、僕はその子に何も声をかけられなかったんです。僕は週に一回お話をする授業に来るだけで担任でもなくて、何もできないんだなあということだけを強く痛感しました。それで、全国青年教化協議会(以下、全青協)の「青少年電話相談入門講座」を受けに行ったりするようになって。

——その講座ではどんなことを学ばれたのでしょう。

いろんな宗派のお坊さんと一緒に泊まり込みの研修会で講習を受けました。”尾木ママ”と呼ばれて有名になられた尾木直樹先生などが講義に来てくださって、思春期の子供の心の状況を聴かせていただいたりしましたね。大正大学の大学院を終えた後は、浄土宗総合研究所の嘱託研究員という肩書きをもらい、仏教福祉研究班にも顔を出していました。そしたら、シンポジウムかなにかで全青協主幹の神(じん)仁さんに再会して、「相談員が足りないから勉強しに来ない?」と言われて、ひきこもりの人たちの相談をする自助グループ「シンシア」にも参加するようになりました。論文を書くために「シンシア」や電話相談のほうをお休みさせていただこうと思っていた頃に、相談があったのが「結の墓」のお話だったんです(第2回へつづく)。

プロフィール

吉水岳彦/よしみずがくげん
1978年東京生まれ。大正大学仏教学部浄土学コース卒業。同大学 大学院仏教学研究科 仏教学専攻浄土学 博士後期課程単位取得修了 博士(仏教学)。現在は光照院にて副住職および淑徳大学非常勤講師の肩書きを持つ。大学時代から子どもに関わる仕事を志し、全国仏教青年協議会の講座や研究会に参加していたが、ホームレス状況にある人や身寄りのない人の共同墓『結の墓』プロジェクトへの関わりから、ホームレス支援を行うことに。現在は、浅草エリアの路上生活者に月2回おにぎりを配る活動などをする「ひとさじの会」事務局長として活躍。

光照院 阿弥陀如来像
浄土宗 瑞雲山無量寿寺 光照院
創建は正保3年(1646)で、三代将軍徳川家光公の時代と伝えられる。浅草新寺町(現在の台東区松が谷)の専光寺2世住職であった静蓮社寂誉松屋上人の開山。開山当初の光照院の位置は不明だが、松屋上人によって、開創からわずか4年後の慶安3年(1650)に現在の地(台東区清川)へ移転している。この頃の山号は「摂取山」といったが、享保17年(1732)までに現在の瑞雲山に改めている。本尊の阿弥陀如来像は、かつて「火防せ如来(ひぶせにょらい)」といって信仰を集めた仏様で、戦争中も難を逃れ、今も静かに私たちの想いに耳を傾けてくださっている。元の本堂は第2次世界大戦で消失し、その後、建て替え中に台風で流されてしまった。そのため、現在の本堂は新たに立て直されたものである。お寺の塀は、檀信徒によって極楽浄土の様相が描かれ、通行の人の目を楽しませている。近年では、池波正太郎氏『鬼平犯科帳』第1巻1ページに登場することで知られる。

杉本 恭子

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。