仏教生活のはじめかたを教えてくれる人/如来寺 釈徹宗さん

釈徹宗さんは、「いきなりはじめる仏教生活」などの著書で仏教の入り口を広く語る宗教学者であり、お寺では住職として地域の檀家さんのネットワークに生きるお坊さんです。実際にお会いしてみると、著書から感じていた「やわらかくてユーモアのある人」という印象そのまま。宗教の面白さ、仏教そしてお寺の可能性についてたくさんお話していただきました。第一回は、釈先生がお坊さんになり、宗教学者になるまでのお話を紹介いたします。

宗教を信じている人に興味を感じて

僕の祖父は戦争で病気になって帰ってきましたので、父は子供のころからお寺の仕事をしていました。僕もまた、一刻も早くお寺の仕事をしなければいけなかったので、とにかく宗門立の仏教科で学んで住職になれる資格をとろうと龍谷大学の仏教学科へ進みました。高校の先生は、ずいぶん他の学校を薦めてくれましたが「いやぁ、僕はそこに行ってもしゃあないんですわ」と言ってね。

ここは田舎でしょう。この地域自体がずっと、ゆるやかでながーい時の流れのなかで生きているような感じなんです。僕もまたその流れのなかにいるなという感覚が子供のころからありましたし、周りはみーんな檀家さんですから、僕も中継ぎでマウンドに上がらなあかん、そして次につないでいかなあかんと自然に思っていたんですね。

大学4年生のとき、ゼミで書いた論文が面白いので大学へ残ったらどうやと先生が言ってくれはったときも、「いやいやお寺が忙しいので」と断ったんですけども、「大学院なら毎日来なくてもいいしお寺をしながらでもできる」と言われて残ることにしました。でも、大学院へ進んだときも、修士論文が高い評価を受けて博士に残った時でさえも、まさか自分が研究者になるとは頭の片隅にも思ってはいませんでした。

宗教研究がだんだん面白くなってきたのは博士の途中からです。そうなると、やりたいのは真宗や仏教だけではないんですね。他の宗教思想や宗教が生み出すパーソナリティ(信仰している人の人格)などへと興味が拡大していきました。結局、大学で非常勤の講師とお寺の副住職を続けながら、大阪府立大学へ移って勉強し直すことになりました。府立大の比較宗教思想分野には、ご自身もプロテスタントの牧師でありながら、どうしても解決できない死の問題があって禅師になられた花岡永子先生がおられたんです。ゼミには、修験道を研究する人や、アゼルバイジャンからの留学生とか、ユニークな人ばっかり。最高に楽しかったですね(笑)。そこで、学位論文を書いて、いつの間にか研究者になっていました。

僕は、どちらかというと「僕のことはかまわんといてくれ、僕も君のことはかまわんから」という自分勝手な人間なんですよ。でも、宗教を研究しているうちに、人間ってどうしてこんなことを一生懸命するんやろかとか、人間ってすごくばかばかしいなぁとか思う反面、かわいらしいというか、ものすごく愛おしくなってくるんですよ。宗教を通して人間を見ると、いろんな縛りのなかで、必死で生きていることを実感して、すごく愛おしくなるんですよね。

まずは身近なご縁をたぐることから

広く宗教宗派を研究していると、「自分は禅のほうが気性的に向いているんじゃないか」と思うこともありますし、「イスラム教徒っていいなぁ」とか思うこともあります。真宗は、本来はシンプルな教えのはずなのに、細かい論点がすごく入り組んでいて、自分に向いてないなぁと思うこともありますよ。

僕は日蓮宗の家に生まれていたら日蓮宗のお坊さんになっていたでしょうし、牧師さんの家に生まれていたら牧師さんになっていたと思うんです。「なぜ、真宗なのか?」と問われたら、それは真宗のお坊さんの家に生まれたからなんですね。僕は、仏教はそれでいい、ご縁のあるところを手繰ればいいと思っています。

行きつくところは同じでもいろんなルートがあるというイメージですよね。本来は自分に合った道を選ぶのが理想かもしれませんが、どの道も一生かけないと登れないような道ですから、全部体験してから選ぶのは無理な話です。これは世界仏教共通の認識だと考えていいと思いますが、まずは縁のあるところ、身近なご縁をたぐれということでいいと思います。チベットのお坊さんと話しても、カンボジアのお坊さんと話してもそう言いますよ。

そして、もし、精一杯手繰って手繰っても合わなければ、別のご縁を手繰ればいい。きっとどれも正しい道でしょうから。在家の仏教徒の方にとっても、たまたま真宗の檀家の家に生まれたからとか、家の宗教が天台宗だったからというのは身近なご縁じゃないですか。まずは、そこから手繰っていったらええと思いますよ。

寺檀制度の新たなカタチ『むつみ庵』

僕は、ご近所の人に手伝ってもらって地域で運営する『むつみ庵』というグループホームをやっています。イメージは、「地域で支える里家」。本当に生まれ育った家ではないけれど、「帰る家」になってほしいと願っています。寺檀制度を最大限に活用して、お医者さんとか、特別養護老人施設とか、保育園とか連携してもらっています。お米や野菜も檀家さんにもらいながら運営してるんですよ。

『むつみ庵』の建物は、お寺の裏に住んでいたおじいちゃんとおばあちゃんが亡くなって空家になった民家なんです。子供さんはそれぞれ別なところに住んでいるので、「よかったらお寺で使ってください」と言っていただいて。何人かで集まって、その家でグループホームを始めることになりました。

当時、グループホームは、北欧では最新の市民参加型介護と言われていて、在宅と施設を埋める隙間の存在やというので、それならもともとある家に暮らしてもらうのが一番いいんじゃないかと思ったんです。僕は、既存の枠からこぼれる存在というか、「隙間」がすごく気になるタイプなんですよ(笑)。グループホームも「隙間の存在」というところが自分にぴったりきたって感じでしょうか。

でも、認可をとるのはすごく大変でした。大阪府の人には「絶対無理です。つぶして新しい施設建てたら補助金が出ますから」と言われてね。家をそのまま使うにも、ナースコールや非常階段をつけたりお金がかかりますけど、一銭の補助も出ないんですよね。何回も説明しに行って、古い民家やから襖なのに「襖でも鍵がかからないとダメです! 徘徊したらどうするんですか?」って言われたり(笑)。「うちは庭も広いし、徘徊自由にしようと思ってるんです」「あなたは何を言うてるんですか?」と、珍問答が続きましてね。

今でもよく医療・福祉関係で『むつみ庵』の説明をしてくれと言われて話すと、みなさんビックリされます。でも、地域で運営していますから、スタッフの情はめちゃくちゃ深いんです。ただ、介護理論を勉強したわけでもなく見よう見真似で働いているスタッフが多いので、スタッフが認知症の人と本気でつかみあいのケンカしたりする、すごいところなんですよ(笑)。

通常、新しい施設が開設された場合、一番大切なことは「地域といかに連携するか」ということです。でも、「むつみ庵」は、初めからご近所づきあい状態なんです。近所の人が遊びに来たり、将棋をさしに来てくれたり。この地域の人たちは、お互いに子供の時から知りあっていて、その父母、祖父母のことも知っていて、それぞれがどんな苦労をしてきたかも知っています。その長い時間感覚のなかに生きているから、今目の前で起きているちょっとしたデコボコが気にならへんのやと思います。

日本仏教をダメにした諸悪の根源みたいに言われている寺檀制度も、これだけ地域やネットワークが崩れた時代では貴重なネットワーク資源になります。こんなに網の目のように日本中を網羅しているネットワークは他にありませんから、活用しないともったいないですよね。

思想より関係性を重んじる日本仏教

西行は伊勢神宮で「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」という歌を詠んでいます。西行は、何が祀られているかをもちろん知っていたはずですので、その場を感じる宗教性を詠んだ歌やと思います。たとえば道端に小さな祠があってお供えがしてあったりしたら「誰が祀られているかわからないけど、ちゃんとお世話する人がいてありがたいなぁ」と思うことありますよね。日本人は、ふだん全然宗教のことは頭にないし、信仰心がない人でも、その場の宗教性を感じたりします。きっとセンサーがすごく敏感なんですよ。

日本仏教で一番崩れているのは戒律の部分ですよね。日本の宗教性の特徴として、しばしば「儀礼好きの戒律嫌い」と言われたりします。この儀礼というのは、思想・信条や信仰よりも関係性が先立つという特性があります。たとえば、我々もクリスチャンの友人が亡くなったら、キリスト教のお葬式に出席しますよね? キリスト教のお葬式だから出席しませんとは言わない。つまり、信仰よりも関係性が先立つということです。

関係性を大事にしてその場を感じていくなかで、薄紙を一枚一枚重ねるようにして、気が付いたらいつの間にか仏教徒になっているというのが日本の仏教の特徴じゃないですかね。日本のお寺って、鐘や半鐘、木魚を鳴らしたりと音でコミュニケーションとるでしょ。茶道も、最後のひと啜りだけわざと音を立てる。すごく繊細なコミュニケーションじゃないですか。日本人ってほんとに繊細なセンサーを持っているんです。

でも、都会ではセンサーを敏感にしていたら生きていけないから、携帯やイヤホンでわざと遮断したりもする。でも、そうしていると鈍くなってしまいますから、センサーをブラッシュアップするために繊細なものに触れることを求めている傾向もあるんじゃないでしょうか。東京で『阿修羅展』にあれだけ人が集まったのも、そういった現象のひとつじゃないかなと思います。

お坊さんは関係性をゆさぶるトリックスター

僕の本に書いてあることは、改めて読めば「ああ、それは前から知ってた」と思うような話ばっかりなんですよ。その「”前から知ってた”ことを、自分で再確認してもらう」という狙いがあります。また、わざと極端なことを言って、読む人を揺さぶろうとすることもあります。「厳密に言うといろいろと論点はあるけど、ここは思い切ってこう表現した方が現代の人に共感してもらえるのでは」とか、「今は、あえてこちらの方向への意見が必要だと思うからこう書こう」とか、けっこう戦略的なんですよ。

ご存知かもしれませんが、その場と関係性を引っかき回し、揺さぶる存在を”トリックスター”といいます(スターは「人」って意味です)。お坊さんもまた、ふだん漠然と持っている枠組みを揺さぶる役目を持つトリックスターなんです。たとえば、死者儀礼では、愛する人を失った遺族のなかに”異物”として入っていく役目を果たさねばならないでしょ。悲しむ遺族の中に入っていって、その悲しみに寄り添いながら、時には「人間が死ぬのは当たり前のこと」などと言わなあかんわけです。「執着すればするほど苦しいんですよ」と、仏教のメインラインを説かなければいけません。なかなかできることじゃないですよねぇ。

私の場合で言えば、今までに数えるほどですが、何かのタイミングでいい場になったことがあります。以前、本にも書いたことがありますが、子供さんを亡くして悲しんでいる家で、満中陰がすんでも中陰壇を片付けたくないとおっしゃってね。「このままにしていてはいけませんか?」と聞いてきはったんです。そのときは、「こうやって宗教儀礼を営むということは、どこかで線引きして次の一歩を踏み出すためにつとめているんですから、今日一緒に片付けましょう」と、自分でも予期せず自然な感じで言葉が出ました。そして一緒に片付けたら、すごくすっきりした顔をしはったので、「ああ、いい法要ができた……」と感じることができました。

仏教は”脱構築装置内蔵宗教”

ちょっと誤解されそうな表現なんですが、大乗仏教ってずっと完成しない仏教じゃないかと思うんですよ。社会性や関係性を大事にすることが、そもそも大乗仏教ムーブメントの始まりでしょ。だから、常に上書きされ続ける側面があります。たとえば、どんなにいい社会制度を作っても、そこからこぼれる人がいますよね。それと同じで、こぼれる人を拾い直すために、枠をはずしては作り直して再構築を繰り返し続ける、そこに大乗仏教のユニークさ、良さがあると思います。

大乗仏教は、その土地ごとの土俗の宗教も入り込んで、チベットの仏教、中国の仏教、日本の仏教……、それぞれ特徴的な展開をしています。日本の仏教とタイの仏教を並べたらもう同じ宗教に思えないでしょう? それも宗教のダイナミズムですよね。常に枠組みを見直し続ける、自ら問い続けるというのは、大乗仏教が生きている宗教の証左です。

僕は、仏教を”脱構築装置内蔵宗教”と呼んでるんです。仏教って、「わかった」と思ったら、別のところから「違いますよ」と言うてくるような仕組みになっているでしょう。何か一つすごい思想が出てきたら、「いやいや、そうじゃなくって」とまた違う思想が出てきたりね。仏陀自身が「自分の教えはいかだであって川を渡ったら捨てていけ」と言っています。こういう宗教体系はめずらしいです。仏陀が脱構築装置を内蔵させたからこそ、こんな面白い宗教ができたんじゃないかなと思います。

今、日本仏教から目が離せない

寺檀制度の形態はだんだん崩れています。葬儀や法要やお墓の様子も変化していますし、死生観もずいぶん変わってきました。つまり、これまで伝統的日本仏教が基盤としていたものが崩壊しているわけです。まさに、日本仏教はちょうど曲がり角に来ています。直葬が全体の4割?5割という時代になってきたら、お寺は変わらざるを得ないですよね。

でも、それと同時に、各地で同時多発的にユニークなお坊さんやお寺や在家仏教者たちがあらわれて、その人たちが宗派を超えて繋がり始めているでしょう。今は、日本仏教に新しい枠組みが生まれてくるときかもしれませんし、それに応じて新たなネットワークをつなぐコネクターの役目をする人も出てくるかもしれません。

そこで、たとえば年間3万人の若者が来る大阪の應典院のように、NPO形式の合議制で運営するエキサイティングな都市型のお寺や、うちの『むつみ庵』のように寺檀制度を利用した田舎型のお寺など、いろんなモデルをうまく類型化して提示できれば、自分のお寺のスタイルに合わせて取り入れていく人も出てくるんじゃないかと思います。

都会のお寺なら、庭先にテーブルを並べてオープンテラスをするとか、ちょっとしたことでもいい。宗派を超えて情報交換を行いながら、お寺が何らかの場を提供するためのモデルを提示していく活動が始まれば、やろうとするお寺も増えてくる可能性もあります。もしかしたら、曲がり角に来ている今こそが、日本仏教が面白いときかもしれませんよね。

人間には非日常空間が必要だから

人間は、日常空間だけでは生きていけないですから、非日常空間というか宗教的時空間が必要なんですよ。イスラムの人たちはモスクがないと生きていけない。ユダヤ人にいたっては900メートル以内にシナゴーグが必要だと決まっています(笑)。そこに人間の生き死にの営みがある限り、何らかの宗教的場は絶対に必要やと思います。

もちろん、伝統的日本仏教のお寺もまた非日常的宗教時空間の側面をもっています。その場をね、いい場にしようと思う人がいれば、姿を変えながらも必ず日本仏教は存続しつづけるでしょうし、また求められ続けると思います。お寺をただお葬式する会館のような場にしてしまう……のが悪いとは言い切れませんが、それがニセモノやったらやがてはつぶれていくでしょう。お坊さんが死者や遺族に寄り添い、生と死を超える宗教的ナラティブ(代替不能な物語)を語り続けるなら、求める人は必ずいます。

また、一部でシステム化している、病院?葬儀社?お寺の連携も一時的な現象で、長続きはしないと思います。やはり本物とは思えないからですね。遺族だって見抜きますよ、ニセモノは。でも、死者儀礼そのものはきっとなくなりません。それは人間が発祥したのとほぼ同時に始まって続いてきているものですから、形を変えつつも続くでしょうけども、そこにお寺やお坊さんが関わり続けることができるかどうかはわからないです。

でも、何らかの宗教的時空間の提供という仕事は、お坊さんやお寺に求められ続けると思うんですよ。宗教性を感じられるいい場を作ろうという気持ちの人がいる限り、お寺と仏教は生き残っていくんじゃないでしょうかねぇ。

お坊さんひとりでは「場」は作れない

住職の仕事は、文字通りそこに住んでいい場をクリエイトするのが役目です。うちなんかは、周りは檀家さんばかりですけど、都市部であればどなたでも来ていただける開かれた場がいいでしょうね。ただ、いろんな人が来ると、それだけリスクもありますから、場を管理する住職にも覚悟が必要です。リスクを負っても開く人もいれば、小さなコミュニティでいいから大切にしたい、あまりいろんな人には来て欲しくない人もいるでしょうし、それは一軒一軒がそれぞれに役目を果たすことでしょう。

特に真宗の場合は、お寺は修行する場ではありません。僧侶も出家者ではなく在家者ですので、門信徒さんと何ら変わりない日常を送っています。専門の勉強をして法話をすること、そしてお寺を維持していい場にしていくことが、真宗住職の責務としての大きな部分です。

まあ、私の感覚ですが、お坊さんは、たとえひとりでもそこに居てほしいと思ってくれる人がいてくれはったら、そのお寺に住むんですよ。いくら貧乏しても、生活がせいいっぱいでも。そういうものですよ、お坊さんというのは。お坊さんひとりでは「場」はできないですよね。必要とする人がいて、みんなでその「場」をクリエイトするんです。

もともと日本仏教は、「場と関係性」を大事にしてきました。その中で、次第に仏教徒として育っていく、そんな傾向が強いと思います。私は日本仏教のそういうところは結構好きです。それが日本仏教の特徴であるならば、そうやってみんなで必要とする場を作っていくこともまた、仏教と呼んでもいいのかもしれませんね。

坊主めくりアンケート


1)好きな音楽(ミュージシャン)を教えてください。特定のアルバムなどがあれば、そのタイトルもお願いします。

音楽はあまり詳しくありません。バッハの「G線上のアリア」は好きです。それと、三波春夫「大忠臣蔵」(CD4枚組)、これはすごいです。

2)好きな映画があれば教えてください。特に好きなシーンなどがあれば、かんたんな説明をお願いします。

いっぱいあって、とても書き切れないです。この質問だけで、連載になってしまいます。
近年では「嫌われ松子の一生」がイチオシです。死者の語りによるミュージカルですよ、これ!
ネタバレになってしまうので詳述できませんが、松子は、誰にでも「おかえり」って言ってあげる人なのですが、誰からも「おかえり」って言ってもらえない人生を送ります。そして…。
「ただいま」「おかえり」の呼応という「宗教の原風景」を知ることができます。

3)影響を受けたと思われる本、好きな本があれば教えてください。

これもとてもじゃないが書き切れません。近年では、内田樹先生の『死と身体』(医学書院)かな。この本の元となっている講義も、リアルタイムで実際に聞きました。今でもよく読み返しています。

4)好きなスポーツはありますか? またスポーツされることはありますか?

けっこうスポーツ万能なんですよ、水泳以外は。今は何もしていません。

5)好きな料理・食べ物はなんですか?

食も苦手な分野のひとつです。お腹がいっぱいになればそれでいい、ってタイプです。どこの国ででも生きていける気がします。

6)趣味・特技があれば教えてください。

趣味ですか。そうですね、映画を観たり…。能・狂言、落語、講談なんかも好きです。造形や絵画を観たりするのも好き。
特技なのかどうかわかりませんが、日本拳法二段です。ずっとボランティアで小・中・高校生に指導していました。公式審判員の資格ももっています。
絵を描くのも得意です。字はヘタなんですが。

7)苦手だなぁと思われることはなんですか?

「人づき合い」ですかねぇ。

8)旅行してみたい場所、国があれば教えてください。

中央アジアから西アジアにかけて。

9)子供のころの夢、なりたかった職業があれば教えてください。

マンガ家。

10)尊敬している人がいれば教えてください。

恥ずかしいから言えません。

11)学生時代のクラブ・サークル活動では何をされていましたか?

野球。

12)アルバイトされたことはありますか? あればその内容も教えてください。

ありますよ。服屋さんとか、本屋さんとか。

13)(お坊さんなのに)どうしてもやめられないことがあればこっそり教えてください。

恥ずかしくてとても言えない。だいたい、ネットに公開されるんだから、「こっそり」にならないでしょ。

14)休みの日はありますか? もしあれば、休みの日はどんな風に過ごされていますか?

休みの「日」はないですね。休みの「時間」はありますが。時間が空けば、映画を観に行くことが多いです。

15)1ヶ月以上の長いお休みが取れたら何をしたいですか?

中央アジアから西アジアをまわる。

16)座右の銘にしている言葉があれば教えてください。
「世の中に 寝るより楽は なかりけり」
17)前世では何をしていたと思われますか? また生まれ変わったら何になりたいですか?

前世はユダヤ人だった気がする。何をしていたかはわかりませんが。来世は「成仏して衆生を救う還相の菩薩に」って、言わないとダメですよね……。

18)他のお坊さんに聞いてみたい質問があれば教えてください。(次のインタビューで聞いてみます)

次の人がどなたか存じ上げませんので、質問が思いつきません。すみません。

19)前のお坊さんからの質問です。「今の自分に満足ですか?」

たまに満足する時もありますが、苦しい時の方が多いです。

プロフィール

釈徹宗さん/しゃく てっしゅう

1961年、大阪生まれ、龍谷大学大学院博士課程、大阪府立大学大学院博士課程修了。学術博士。浄土真宗本願寺派 如来寺第19世住職であり、兵庫大学では生涯福祉学部教授もつとめる。NPO法人リライフ代表として、認知症高齢者のためのグループホーム『むつみ庵』、ケアプランセンターも運営する。落語が大好きで、お寺で寄席を開くことも。『いきなりはじめる仏教生活(バジリコ)』『仏教ではこう考える(学研新書)』『いきなりはじめる浄土真宗–インターネット持仏堂1』『はじめたばかりの浄土真宗–インターネット持仏堂2』(内田樹氏との共著、本願寺出版社)など、著書多数。

 

釈さんの活動紹介

むつみ庵

寺檀制度とそのネットワークを活用して運営する認知高齢者が共同生活する「グループホーム」。木造日本家屋をそのまま共同生活として活用し、如来寺のお檀家さんたちの協力のもと、「理論よりも情に厚い」スタッフが人間らしい介護を尽くしておられます。新しい寺檀制度活用のモデルとしても、その可能性が期待されます。

 

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お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。