「0葬」って0円のお葬式のことじゃないの? 『0葬―あっさり死ぬ』

私、勘違いしていました。「0葬」って究極にお金のかからないお葬式のことで、本書はその方法について書かれてあると思っていました。「0葬」という響きは0円=タダを連想させますし、著者はあの有名な『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)の島田裕巳さんですから、てっきり「やはり葬式は要らない、お金もまったくかける必要がない」という文脈だろうとイメージしていました。

しかしそれは誤解で、0葬とは「火葬の後に遺骨を引き取らないので、遺骨は手元には残らず、墓に納める必要がない」という意味で「0」だったのです。0葬は散骨などのいわゆる自然葬を超える「究極の葬り方」、ある意味「最先端の方法」として提案されています。予想を裏切られた以上に大変衝撃的な内容であり、賛否両論激しく飛び交う事態となっているようです。もちろん島田さんは仏教界などからの強い反発を承知の上で、「直葬を前提とした0葬は、遺体処理に近い。儀礼的なものを排除しているからである。骨上げさえ必要ではない」と言い切っています。

(ちなみに先述の誤解のもと、0葬なら0読だとばかりに図書館で借りて読んじゃいました)

反発が予想される提案だけに、本書では0葬という結論を提示する前に念入りに葬儀・葬送の歴史的背景や現状分析を重ねています。特に近年、都市化が進んで血縁や地縁が薄れ、団塊の世代が死を身近に考える機会が増えたことを中心として起きている社会的風潮の変化や、葬儀・葬送をなるべく簡素化したいと考える人々の心理を丁寧に解説。世間体といわれるものをさほど気にする必要がなくなりつつあり、死者や遺族の意志を尊重しやすくなり、自由な葬送が実現できる状況にあると指摘されます。

そのような前段階の解説に全8章中の6章が費やされ、残り2章でようやく肝心の0葬が提案されます。そういう意味では実に慎重に、読者の「死者を悼む気持ちがない訳ではない」という心理的抵抗感を解きほぐすことに注意が払われています。

0葬については「日本人は骨に執着する民族というのは幻想だ」「自然葬や0葬はあっさり死ぬ運動」「0葬で、私たちは墓の重荷から完全に解放される」というように、さらに刺激的な主張が繰り返されます。ただ表現は刺激的なものの、島田さんの指摘が現代の葬送をめぐる不安・不満の一つの側面であることは事実です。冷静に受け止め、自らの死について考えるキッカケとすべきでしょう。

しかしながら、私にはやはり受け入れ難い部分があります。以下は本書のレビューを離れ、個人的見解を述べますね。本書をむやみに批判する意図はなく、0葬の背景にある私たちの意識について考えてみたいと思います。

ひと言でいえば、やはり遺骨を引き取らないという0葬は残念に思います。使い捨てのように、断捨離するかのように遺骨を手放すなんて信じたくありません。お坊さんとしての立場やお寺・お墓の経済事情からそう感じるのではなく、0葬などの議論の根底にある「自己決定権の拡大」や「自己責任の徹底」に疑問を感じるからです。0葬そのものの賛否というより、昨今の終活ブームにも通じるところで、最期まで自分らしくあることが理想的であるかのような風潮に違和感があります。現代人は死の場面まで、それどころか死後の葬送までも自分らしく、自己実現の場面にしようとしています。どこまでも自分でコントロールしたい、ある程度それも可能だと考えていることに対して、私は疑問を感じざるを得ません。

確かに人類はその弛まぬ努力によって現在の豊かな生活を手に入れましたが、未だに不老不死を実現した訳でもなく、生老病死の苦しみを克服した訳でもありません。それなのに万物の霊長と自負し、できないことはないとばかりに思い上がってしまっているのでしょうか。生老病死に悩み苦しむ私たちの姿は何千年前、それこそお釈迦さまやキリストさまの頃から何も変わっていないということを忘れてしまったのでしょうか。そのことを忘れ、いつしか死の問題までもコントロールできると勘違いしてしまったせいで、0葬でも良いと考える人が出てきたのではないかと思います。

自己責任と引き換えに自己決定の範囲を拡大し続け、残された者の気持ちよりも自らの決定を優先させたい。仮にそれが「残された者に迷惑をかけたくない」という思いやりであったとしても。

終活したり葬送を考えたりすることの意義は大いにありますが、最終的には「死後のことは残された者に任せる」という態度が見直されるべきだと考えます。死後のことは亡くなる本人ではなく、残された者が亡くなった方を悼み、どのように弔うのが最もふさわしいかと思い巡らすことが大切です。もちろん経済的な問題も含め、どんな送り方が良いかケース・バイ・ケースで考える時間が愛おしい、亡き方に向き合い寄り添う時間となるのではないでしょうか。

島田さんのご指摘通り、「0葬という言葉が生まれてくるのは社会がそれを求めているから」という側面は否定できません。しかし終活にも共通する大きな問題として、「残された者に迷惑をかけたくない」という意識が強すぎるせいかも知れません。とはいえ、果たして私たちは本当に誰にも迷惑をかけずに死ねるのでしょうか? 誰にも迷惑をかけずに生きられるのでしょうか? 本書はそのことを考える一助になると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

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