『坊主めくり』をスタートして3年目、いよいよ彼岸寺のお坊さんたちをめくる時が来ました! 一人目は、料理僧として『暗闇ごはん』などのイベントを通じて仏教を伝える、KAKUさんこと青江覚峰さん。私にとっては、『坊主めくり』の企画を彼岸寺に持ち込んだときに最初にお会いしてお話したお坊さんでした。あの頃はまだ、お坊さんと話すことに慣れていなくて、緊張しながら浅草のお寺の門前に立ったのをよく覚えています。
とはいえ、KAKUさんとじっくり向き合ってお話を聴かせていただくのは初めてのこと。彼岸寺の活動を通して見聴きしていたKAKUさんの断片的なイメージが、ひとつひとつ生身のKAKUさんに結びついていって「ああ、それでKAKUさんはこういう活動を」「だからこんな風に言っていたのか」と腑に落ちるようなことがたくさんありました。おそらく、彼岸寺読者のみなさんにとっても、改めてKAKUさんを知っていただけるインタビューだと思います。
初めての剃髪がトラウマに……
——青江さんは浅草のお寺(緑泉寺)で生まれられたんですか?
はい。兄弟がいないので、小さいころから跡継ぎとして望まれていました。それがもう嫌で嫌で。でも、小学生のころはわけがわかんなかったし、ふつうにお寺を 継ぐことを受け入れていたように思います。それこそ、大人が話しているのを聴いて言葉を覚えるのと同じように、お経や作法を覚えて育ちましたから、得度するときにも特別な勉強はまったくしなかったです。いつも詠んでいるお経の名前を「これは正信偈っていうんだよ」と覚えたくらい。「いただきます」っていうのは「合掌」って言うんだよと教わったような感じですよね。
——そんなにもお寺の生活になじんでおられたのに、「お寺を継ぐのはいやだ」と思いはじめたのはどうしてだったのでしょう。
小学校6年生の夏休みに得度をして坊主頭にしたら、新学期にみんなにやいのやいの言われてすごく傷ついたのがトラウマになってしまって。「継いでやるものか」というのが始まったのもその時からです。僕、それからずっと中学校、高校、大学の途中までロン毛だったんですよ。とにかく視界のなかに前髪が見えないと落ち着かなくなってしまったくらいです。
——お坊さんにはならないつもりで大学まで進まれて。大学のときにアメリカに留学されていますよね。
はい。大学2年生のときに1年間の交換留学でアメリカに。日本の大学はあまり勉強しないけれど、アメリカの大学は違います。留学を機に学ぶことへの姿勢が変わって、大学3、4年生では人生で初めてというくらい勉強をしました。さらに卒業後はアメリカの大学院を受験してふたたび留学をしたんです。
MBA留学――お坊さんから遠く離れて
——アメリカの大学院、しかもMBA(経営学修士/Master of Business Administration)をとりたいと思ったのはどうしてですか?
ひとつは、とにかくお坊さんとは正反対の生き方、いちばん距離のあるものになろう思ったから。当時の僕の考えでは、お坊さんは世間から遠ざかっていくイメージが強いけれど、経営コンサルタントは世間の中心にいて世の中を動かしている感じがあって、お坊さんとは対極にあると思っていたんですね。
当時は、大学卒業後すぐにコンサルタントになる時代ではなく、またMBAを取得できる大学も国内にはなかったので、アメリカの経営学の大学院に留学しました。もうひとつ、アメリカに行った理由は、日本にいると親やお檀家さんが「帰っておいでよ」と気軽に遊びに来るだろうし、自分もまた里心がついて戻ってきてしまうのではと危惧したからです。アメリカまで行けば、言葉の壁もあるし、わざわざアメリカまで飛行機で来て空港から知らない町まで追いかけては来ないだろうと。
——MBAを取得した後は、アメリカで仕事をするつもりでいたんですか。
そうですね。僕の専門はアントレプレナーシップ(entrepreneurship、起業)だったので、ゼミがすごく実践的で。具体的なビジネスを企画して、先生の友人の銀行の人にプレゼンをすると、「これなら何万ドル融資するよ」と本当に融資されちゃうんです。僕らのチームはアロマテラピー関連のビジネスで融資を受けることになり、在学中にアメリカ人やシンガポール人たちと起業しました。僕は、ビザの関係で就労はできませんでしたが、アメリカで起業して仕事をするとはどういうことかを、非常にリアルかつ実践的に学んでいました。
——卒業後にその会社で仕事をする可能性もあったと思うのですが、そうせずに帰国されたのはどうしてでしょう。
僕がアメリカにいた2000年に、9.11同時多発テロ事件が起きたんです。東日本大震災後の日本でも同じように感じられている方がいらっしゃると思いますが、当時の僕は胸にぽっかり穴が空いてしまい、何をするべきかを考える拠りどころもなく茫然としていました。さらには、自分が拠りどころとして持っているはずの仏教がそこになかった。ずっと食わず嫌いをしていたから。
アメリカ、そして9.11事件に問われたアイデンティティ
——では、9.11以降に仏教を拠りどころにしようと思うようになった?
そうではないんです。そのときの僕は、なにか大きなものに身をゆだねることを望んで、翌年の夏休みにカリフォルニア州のヨセミテ国立公園でレンジャー(公園監視員)のアルバイトをしました。今回の震災もそうですが、自然にはどうしようもなく大きな力があります。ヨセミテでは、そのすさまじい力と共存する人間の非常に厳しい覚悟を目の当たりにしました。
たとえば、カリフォルニアには夏にファイアシーズンがあって、必ずどこかで山火事がありひどいときには何か月も山が燃え続けます。でも、ヨセミテでは一切消そうとはしないんです。ところが、山にある5メートルほどの幅の道があると、そこで火事が食い止められることがあります。人間が道を作ることは自然を破壊すると同時に、自然を守る役に立つこともあるんですよね。一方で、車が通れるようにセコイヤの巨木の真ん中をくりぬくいて木を腐らせてしまうこともあって、これなんかは人間の仕業による自然破壊ですよね。
ヨセミテで、「自然vs人間」という単純な構図ではなく、自然と共存できるやり方とそうでないやり方があることを知り、そのなかで人間はどういう風に考えて生きていくのかを間近に見て経験したことは、自分にとって大きな宝になったと思います。
——9.11の翌年にヨセミテに行くまで、テロの衝撃は長く続いていたのでしょうか。
アメリカ全国でですよね。僕は留学してからずっと、アメリカはどんな国なのかよくわからなかったんです。でも、9.11事件を経て「アメリカは星条旗を大切にする人たちの国なんだ」と納得しました。テロの後、半年くらいはすべての家や建物、お店、車、学校に国旗が掲げられていて、掲げていないのは僕ら留学生だけだったんです。
アメリカは人種のるつぼと言われていて、カリフォルニアにはヒスパニック系、ベトナムから来たモン族の人も多いけれど、彼らも星条旗の半旗を掲げるのを見て、「ああ。こういうことなんだ」と思いました。僕は、気軽に星条旗を買ってきて「僕も」とする気持ちにはなれませんでした。やっぱり僕は日本人だし、いつかはちゃんと日本に帰って仏教を勉強するべきだろうという気持ちがくすぶりはじめたことを感じるようになったんですね。
——追いかけて来られないところまで逃げようとしたのに、逃げた先で仏教に直面したというか。
イメージとしてはこういう感じなんですよ。日本にいると、コアな部分に仏教があるとしてもいろんなものが付着してぶくぶくになっていて、どこに仏教があるのかわからなかったんです。でも、アメリカというまったく未知な国でいろんな文化に触れることで、あるいは「あなたの宗教は?」「信仰は?」「政治的信条は?」といろんな質問を受けることで自分がどんどん丸裸になっていくんですよね。そこで自分のなかに残っていたのは、自分が日本人であることと、バックボーンに仏教があるらしいということだけだったんです。
でも、結局僕は食わず嫌いをしてきたので、ブラックボックスがあって中には仏教が入っていることはわかっているけれど箱の開け方はわからないような感じで。あるいは、仏教という本が手のなかにあるけれど文字の読み方はわからないというか。じゃあ、MBAが終わったら一度この箱の開け方、文字の読み方を学んでみようと思って帰国しました。
何これ? 仏教って面白い!――仏教ファンになる
——それで帰国されて、改めて仏教を学びはじめることになったんですね。
ええ。本来、僕は浅草の本願寺で勉強すべきところだったんですけども、あえて築地本願寺の東京仏教学院※に(笑)。毎日2時間くらい早く行って図書館で時間を過ごしていたら、そこに仏教説話集という本がものすごくたくさん置いてあったんですよ。何気なくぺらぺらっとめくってみたらこれが非常に面白くて。こんなことを言うとすっごく怒られると思うけれど、古今東西人間が考えうる犯罪の目次録みたいなものなんですよ。
(※:浄土真宗は色々な派に分かれおり、浄土真宗東本願寺派である浅草の本願寺と、築地本願寺が所属している浄土真宗本願寺派は別のもの。KAKUさんのお寺は浅草の本願寺に所属する)
「こんな悪い人が世の中にいましたけれど、道端の花を見て仏弟子になりました。実は、花は阿弥陀如来の生まれ変わったお姿だったのです」とか、だいたい同じようなオチなんですけども、前半に描かれる犯罪を犯すに至った背景の部分に、すごく人間臭さを感じました。なかでも、ナーガールジュナ(龍樹)の伝説なんて、宮廷中の美女を犯した後に愛欲が苦悩の原因だと悟り出家するという話なんです。龍樹菩薩ともあがめられる方のストーリーなのに、ですよ。
普通は、聖人であればあるほど卑下できないはずなのに、「そこには深遠な思想があったから」などと言わずに、さらっと悪事を働いたことが書かれていることに驚いたし、また可能性も感じたんです。なんと正直で懐が深いというか、どういう判断を持ってこういう話が残されているんだろうか、と。そういうことがいろいろ積み重なって仏教のファンになったし、仏教で何かできたら面白いなあと思うようにもなったんですね。
料理という”ことば”で仏教を伝えてみたい
——KAKUさんは、”料理僧”として『暗闇ごはん』などの活動されています。お料理と仏教が重なってきたのはいつ頃からですか?
料理に関しては、アメリカ留学中に立ちあげた料理のサークル活動に原点があります。ひとりだと作れないおいしいものをみんなで作って食べようというサークルで、たとえばラーメンを作るとなると一か月かけて、1週目にはとんこつスープの取り方、2週目にはスープを使ってチャーシューを作る、3週目には麺を打つ……と本格的にやっていたわけです。
ところが、なかなか食材が手に入らないから、うちの近くにある中華マーケットに行ってみると、牛タンなんかベロのままドンと置いてあるんですよ。牛なので、舌の表面にある味蕾というブツブツが1?2cmくらいもあってトゲトゲしていてすごく生々しい。でも、食べるってそういうことだよなと納得もして。その時は仏教とはまったく関係なくですが、「命を食べるということは、生々しく生きていたものを殺して食べるということだ」と気づかされました。
それからは、食べるということにちゃんと向き合わないといけないなと思うようになって、いろんな人にそういったメッセージを発信していたんです。でも、お坊さんになってもすぐには、料理と仏教はつながりませんでした。僕のなかで、料理と仏教をつなげてくれたのは、句仏(くぶつ)上人という明治時代のお坊さんです。
——句仏上人とはどのようなお方ですか?
東本願寺の二十三代法主でいらっしゃった方で、「句をもって仏徳を賛嘆す」という活動をされていた方です。浄土真宗だと法話で仏教を伝えることが一番であって、場合によっては御文書や手紙なんですけども、句仏上人は俳句で仏教を伝えておられたんです。俳句で仏教を伝えるのがアリなら、僕の持っている”言語”は何だろうと思いました。英語と日本語はできるけれど、僕は言葉で話すのが非常に苦手です。だったら、料理という”言語”で仏教を伝えられないだろうかと、句仏上人の”句仏”という俳号に対して”料理僧”という名前をつけたんですね。今は、『暗闇ごはん』がメジャーになりましたが、それ以前にも料理で仏教を体感してもらうことをしたいと思っていろんなことをしていましたね。
——『暗闇ごはん』がメジャーになったのは、料理で仏教を伝える方法としてわかりやすかったからでしょうか。
『暗闇ごはん』では、お料理を食べてもらうときにうるさいことは何も言わないんです。アイマスクをつけて何を食べているのか判らない状態で料理を食べていただいた後、最後にアイマスクを外してもらって「今日召し上がっていただいたのはこちらですよ」と紹介してひとつだけ尋ねます。「こんなに一生懸命にごはんを食べたのは、最近いつされました?」と。それで、わかる人にはわかるメッセージになると思っています。
「一生懸命ごはんを食べる」というのはそれ自体珍しいフレーズではありません。ただ、「農家さんが一生懸命作ってくれたお米や野菜だから、一生懸命に食べなさい」と言われながらも、そこに真剣に向き合う時間って意外とないんですよね。朝は、昨夜遅くまで仕事をしていたから1秒でも長く寝ていたいし、出勤時間に間に合うように急いでいてゆっくり朝食を食べられない。昼は仕事に追われて急いで済ましてしまう。夜は夜で、時間がたくさんあるから、家族や友人、恋人、職場の人たちと一緒に、コミュニケーションの潤滑油として食事をすることが多いです。
コミュニケーションは食事の大切な要素ですが、やっぱりそれは自分と食事が向き合う時間ではありません。だから、暗闇という非日常的な空間で、何を食べさせられているのかわからない不安のなかで、「一生懸命ごはんを食べる」という経験を持って帰ってもらえれば、その気づきはその人の人生にとって絶対にプラスになると思うんですね。それを料理の面から気づいてもらうのが僕の仏料理だと思っているんです。そして、生きづらいと思っている人に対して、少しでも生きやすく生きてもらうための指標が仏教だと思うんです。
「僕が歩けば仏教になる」という覚悟
——『暗闇ごはん』を通じて気づいてもらうことは他にどんなことがあるのでしょう。
人が感じる「生きづらさ」はそれぞれに違っていると思います。恋人との関係かもしれないし、家族との問題、環境や社会での問題かもしれない。何をもって生きやすくなるか、何を大切だと思って捉えるかも人の数だけ違います。僕のほうでは『暗闇ごはん』で、何か気づいてもらえればいいなと思う仕掛けは用意しますが、「これに気づいてください」というものは持たないです。一番大切なのは、何かに気づいてもらってその人の人生がより豊かになってくれることなんです。
——いろいろなことに気づくきっかけが潜んでいそうですね。その場のご縁に向き合うことであったり、目の前のことにていねいに接することであったり。でも、KAKUさんは「どこが仏教」ということは言わないのですか。
そうですね。明確に言葉にすると、すでにその人が持っているイメージと仏教が結びついて固まってしまう。でも、僕は役に立つならば、それが仏教でもキリスト教でも、その他の何でもいいと思うんです。結局は、目の前にいる人がそれで幸せになること、より良く生きてくれること、それを通じて社会がより良い方向に行くことなのであって、仏教である必要はないんですよね。
ただ、逆説的なことに、僕が話す言葉はそれこそすべて仏教なんです。僕はアメリカで丸裸になったときに仏教しかなかった。そして、帰国してから今まで仏教をベースに自分を作ってきた以上、たとえばここで「アイスココアがおいしいね」と言っても仏教なんです。僕は、浄土真宗でありながらも髪を剃って作務衣でうろうろしているのは、誰が見てもお坊さんだとわかる恰好をするためです。自分のやることなすことすべてはお坊さんとして見られているという覚悟で常に行動する。僕が歩いても仏教になるくらいの覚悟じゃないと、お坊さんをやっていられないんですね。
彼岸寺はお坊さんのエンジン!
——そろそろ、彼岸寺についてもお話を伺いたいと思います。スタートから7年目を迎えましたが、彼岸寺は今の仏教界でどういう存在だと思われますか?
わからないんですよね、それが(笑)。少なからず注目は浴びているけれど。「どう注目したらいいのかわからないなあ」という感じで見られている気がします。よくわからない人たちが、よくわからないことをしているというくらいでしょうけど。
——今の日本仏教において、彼岸寺が担っている役割はどういうものだと思われますか。
「仏教に興味がないけれども嫌いじゃない」という人たちを「好き」に一歩近づけることには、役立っていると思います。もうひとつは、具体的な一歩を踏み出すには至ってはいませんが、「お坊さんが仏教をやっていて食べていける」状態を作ることですね。今、ほとんどのお寺は経済的に難しい状態を抱えていて、お寺というハードウェアを保つためにOSであるところの仏教を犠牲にしてしまうことがあると思います。お寺としての収入が立ちゆかないから、副業でまかないながら空いた時間にお坊さんをする……ではなくて、お坊さんをしていて暮らしていける仕組みを考えるのは彼岸寺の仕事なのかなと思います。あと、今の彼岸寺に一番求められているのは後輩育成だと思います。彼岸寺を手伝いたいと手を挙げてくださっている人がたくさんいるのでお任せしていけたらいいですね。
——KAKUさんご自身としては、この7年間を振り返ってみてどうでしたか?
楽しかったですよ。彼岸寺があったおかげで、僕はより人間になれたなと思います。まだまだ半人前だけども、よりちゃんと社会のなかで生きていけるような人間になれたのは彼岸寺のおかげだと思っています。基本的に僕は何もしなかったらひきこもりバンザイになっていたと思うので(笑)。常に、人と触れ合って動いていないといけない状態に自分を保っておけるので助かっています。
——KAKUさんにとっての彼岸寺は社会との接点でありエンジンなんですね。そういう良さを感じておられるので、後輩育成をして彼岸寺をたくさんの人たちのエンジンにもしたいと思われるのでしょうか。
そうですね。結局、人は社会のなかでしか生きられませんから。人はひとり生まれて勝手に育っていくわけではなくて、家族や学校の先生、友達や近所の人がいて、いろんな積み重ねのなかで生きているわけですよね。今、僕の人生を切り取っても、もう杉本さんのいない人生はないわけですよ。杉本さんのご両親や学校の先生とは、僕はこれからもお会いすることはないかもしれないけれども、杉本さんのいない僕の人生がないのであれば、杉本さんの出会ってきた人たちの一人が欠けても今の僕は成り立たない。だから、いろんな人を大切に思えるし、知らない人でも絶対につながっていて知らないけれど知っていることになります。いろんなつながりが非常にリアルに感じられるようになってきました。
そう思うと、今回の震災にしても、決して他人事ではなくなるんです。自分は「I」ではなく「We」の立場なんです。その「We」が徹底的に広がったものが阿弥陀如来という存在だと思うんですよ。世界=自分=「We」=「I」というのが、阿弥陀如来の発想だと思います。僕には、その境地に達することはできないと思いますが、数字の1が2になり、4から6になるように増えていくつながりを実感しながら、活動に結びつけることを可能にしてくれたのが彼岸寺だったと思います。
——今後の彼岸寺の展開そしてKAKUさんの活動が楽しみです。ありがとうございました!
坊主めくりアンケート
1)好きな音楽(ミュージシャン)を教えてください。特定のアルバムなどがあれば、そのタイトルもお願いします。
「人生」は伝説のバンド。
2)好きな映画があれば教えてください。特に好きなシーンなどがあれば、かんたんな説明をお願いします。
トイ・ストーリー1―3
You’ve Got a Friend in Me…
3)影響を受けたと思われる本、好きな本があれば教えてください。
『三国志』
4)好きなスポーツはありますか? またスポーツされることはありますか?
インラインスケート(ストリート) なんというか・・・
ガッとやって
ドンと来て
ジャッとやって
メイクしたーーーー!って言うのが好きです。<br=””>
5)好きな料理・食べ物はなんですか?
出汁
6)趣味・特技があれば教えてください。
料理は大好きです。毎日やっても飽きません。
特に出汁を取ることが得意で、一日中出汁につきっきりでも苦に思うことはありません
7)苦手だなぁと思われることはなんですか?
文章を書くこと。
誤字脱字をなくすkと(※ママイキ)
8)旅行してみたい場所、国があれば教えてください。
深海。宇宙。音のない場所。
9)子供のころの夢、なりたかった職業があれば教えてください。
コックさん
10)尊敬している人がいれば教えてください。
阿佐田哲也氏
11)学生時代のクラブ・サークル活動では何をされていましたか?
インラインスケートサークル、ドリルバンド
12)アルバイトされたことはありますか? あればその内容も教えてください。
図書館のPCルームの管理人として日夜プリンターの詰まりを直してました。
変わったところではアメリカの高校でビジネスの授業の講師もやりました。
13)(お坊さんなのに)どうしてもやめられないことがあればこっそり教えてください。
子煩悩という煩悩から離れること
14)休みの日はありますか? もしあれば、休みの日はどんな風に過ごされていますか?
お坊さんを休むことはないので、休みの日はないと思っています。結果論として「仕事らしいものを何もしなかった」日が休みなんですかね。だったら休みの日は「なにもしない」ですね。
15)1ヶ月以上の長いお休みが取れたら何をしたいですか?
僕が休んでもまわりは休むことがないでしょうので、僕もおそらく変わらない毎日を過ごすと思います。
16)座右の銘にしている言葉があれば教えてください。
Know myself, be myself.
17)前世では何をしていたと思われますか? また生まれ変わったら何になりたいですか?
前世はごぼうだったんじゃないかな? 来世は大根になりたいです。
18)他のお坊さんに聞いてみたい質問があれば教えてください。(次のインタビューで聞いてみます)
「自分の死を明確に意識して生きていますか? もしそうならばそれは日常にどのように影響しているのでしょうか?」
19)前のお坊さんからの質問です。「自分が「お坊さん」になったと自覚したのはいつですか?また、何がきっかけでしたか?」
7年ほど前。彼岸寺をスタートし、初めてメディアの取材を受けたとき。お坊さんとして世間から見られていることを意識し、責任を感じた瞬間でした。
プロフィール
青江覚峰/あおえ かくほう
浄土真宗東本願寺派緑泉寺 住職。1977年東京生まれ。カリフォルニア州立大学よりMBA取得。超宗派の僧侶達が集うウェブサイト「彼岸寺」や、日本初・ お寺発のブラインドレストラン「暗闇ごはん」等を運営する組織IBA代表理事。料理僧として料理、食育に取り組む。
緑泉寺
http://www.ryokusenji.net/
元和元年豊臣家滅亡の年、江戸に下り本郷湯島に湯島山緑泉寺として建立。当時東本願寺派は江戸神田明神下に在りしも、明暦三年正月、世にいう振袖火事により類焼、当山ことごとくに帰す。後、東本願寺とともに浅草に遷ってから今日まで連綿と法燈を継ぐ。
元和元年より昭和五十五年今現在、実に三百六十五年を閲す。大正十二年九月一日の関東大震火災、昭和二十年三月十日の第二次世界戦争の劫火により、寺宝は申すに及ばず一屋余すところなく焼尽するも幸い、古くより伝来する阿弥陀如来像並びに記録系図等消失を免れる。
昭和二十四年、焼け跡に仮堂を建立、三十三年四月、本堂の竣工を見、三十六年十一月十二日、本堂落慶法要を厳修す。
こ れより先、大正十二年九月一日の関東大震火災後、東本願寺とともに墓所を保谷市ひばりが丘の地に移し、現在に至る。当初建立の田無出張所は、五十余年の歳 月に漸く老朽したため、昭和五十四年四月、西松建設株式会社設立施行により支坊建設に着手、同年十二月完成、昭和五十五年十月十九日、支坊落慶法要を厳修 した。