[mother’s wake 02-縁起] 自分のしたこと、しなかったことだけを見よ

 

前回の原稿で、「母はフルーツ大福のぶどうを喉に詰まらせて窒息し、救急搬送された」と書いた。これは事実だけれど、もう少し時間軸を長くとるとものごとの見え方は違ってくる。

 
母は、数年前から「認知症だ」と言われるようになった。父ひとりでは介護が難しい状況になったため、2年前に実家の近くにあるグループホームに入所した。亡くなる数ヶ月前から嚥下が悪く、食事は細かく刻んだものをいただいていた。フルーツ大福は、一時帰宅時に父が母のおやつに買っておいたものだ。母は、父が見ていないときにそれを口に入れた……。父の無念ははかりしれない。

 
さらに、時間軸を伸ばしてみよう。

母は2002年にうつ病になった。主な原因は、最近よく言われる「空の巣症候群」だったのだと思う。娘ふたりが家を出たことをひどく寂しがっていたし、定年退職した夫とふたりきりの暮らしも母の心を圧迫した。家族と親戚、そして母の友人のみなさんも、それぞれに心をこめて母を支えようとした。しかし母は、急性期と回復期を繰り返しながら絶望を深めていった。

私は、最後の一点にあった「フルーツ大福のぶどう」だけが母の死因だと言い切る気持ちになれない。ぶどうは、たしかに母の喉を詰まらせた母の死の直接的な原因だ。しかし、振り返ればこの15年間のすべてが、母の死に関係しているようにも思う。いや、15年という時間すら区切ることができるのだろうか? 

 
仏教は、「一切のもの(精神的な働きも含む)は種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・関節原因)によって生じる*」と縁起を説く。時間と空間を、自分にははかりしることのできないものとして感じようとすると、生きることも死ぬこともはかりしれないと気づく。
*岩波書店『岩波仏教辞典』より

縁起について思いをはせるとき、いつも『ダンマパダ(法句経)』のこの一節を思い出す。この世の一角で起きた母の死さえはかりしることができない自分に向けて。

「他人の過失を見るなかれ。他人のしたことしなかったことを見るな。ただ自分のしたことしなかったことだけを見よ」。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

亡くなるまでの15年の間、母はずっと何かに苦しんでいた。おそらく、思い通りにならない人生そのものに。私もまた、思い通りにならない娘として母を苦しめた。母は、私の自由な生き方を認めてくれていたけれど、寂しさに勝てなかったのだろう。毎日のように電話で「お母さんのめんどうみてくれる?」と私を問うた。

「めんどうをみる」の内容は日によって違っていた。「父の死後」を意味することもあったし、「今すぐ」「ずっと」のときもあった。いずれにせよ、ひとり、フリーランスで暮らしている私にとって、それを毎日問われることはとても重たかった。好きな仕事にかじりつくより、母のそばで、母のお世話だけをするべきではないかと考えこむ日もあった。だが、私は仕事をやめて、母だけのために生きることをどうしても選べなかった。

母もまた、本気で私を縛りたかったわけではないと今も思う。

 
父は、母を治す薬や治療法を求めて、あちこちの病院に母を連れて行った。そのたびに「パーキンソン病の傾向がある」「発達障がいじゃないか」と病名をもらって帰ってきた。「認知症」はその最後に与えられた病名である。

病名探しをしている間にも、母は「私たちが健康だと思っていたときの母」からどんどん離れていった。はじめのうちこそ「なんでこれができないの?」「なんでそんなことするの?」と戸惑っていたけれど、「なんで?」に対する答えはない。「前のお母さんはこうだった」とか、「お母さんはこんな人じゃなかった」と過去と比べている間にも、母はどんどん先に行ってしまう。

 
今この瞬間にありつづけるのは本当に難しい。

うつ病でも、認知症でも何病でも、お母さんはお母さんだ。「今、この瞬間を母とどう過ごすのか」ということだけを見ているほうがいい。そう思えるまで、数えきれないほど「なんで?」という言葉が湧いたし、直接母にぶつけてもいた。

姉も同じ気持ちだったのだと思う。やがて、私たちは「元気だった頃のお母さん」について話すことを避けるようになった。今この瞬間の母、日に日に衰えていく母を見失わないために記憶の扉は封印された。年月とともに、扉はかたく錆びついて「昔のお母さん」を思い出さなくなっていった。

その封印がほどいてくれたのは、母のお見舞いにきてくれた親戚や母の友人たちである。みなが母のことを思い出して話してくれるのを聞くうちに、私たち家族はひさしぶりに昔を思い出すことができた。

 
記憶のなかにある、子どもの頃の母はいつも笑顔だ。声がきれいで、笑うと弾むように明るい。大阪のおばちゃんらしく、面白いことしか言わなかったお母さんのこと、今はもう思い出すことをゆるされているだろうか?

亡くなってからしばらく、昔の母を思い出すたびにちょっぴり自分を責めた。「お母さんは、いつのお母さんを思い出してほしいんだろう?」とも考えたりもした。たぶん、認知症になった家族を亡くした後、遺族は多かれ少なかれ同じような気持ちを抱えると思う。

最近は、もの言わぬ状態になった母のこと、そしてグループホームを訪ねていくと「恭子、来てくれたん」とゆっくりと微笑む母のことを思い出すことが多くなった。歩くときはいつも私の手を痛いくらいに掴み、別れ際には「またきてねー」とかすれる声を振り絞りハグしてくれた母のことだ。

 
今に一番近い母が、一番恋しく、愛おしい。
 

 
 

 

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。