3月に入りました。私の住んでいる北陸では、今年の2月に大雪が降り、お寺の周りでも1.5mほどの積雪がありました。災害レベルとも言われる大雪で、福井県や石川県で多くの被害がありました。ウチのお寺でも瓦が割れるなどの被害が出たり、日々雪かきに追われるなど、滅多とない経験となりました。その分、春の訪れが例年以上に嬉しく感じられています。
そんな雪解けの様子を眺めていて、ふと、あることを思い出しました。それは「雪が解けたら何になる?」という質問とその答えに関するお話。どこから発生した話なのかは定かではありませんが、とある学校で先生が生徒に「雪が解けたら何になる?」という問いを出したところ、ほとんどの生徒が「水」と答える中で、ある生徒が「春」と答えたそうです。
科学的には、雪が解ければ水になるのは間違いないですが、雪深い地域に住んでいる人であれば、雪が解ければ春になるというのは、体感としてよくよくわかります。私も今回の大雪で、このエピソードが改めて、「ああそうだなあ」と実感された思いがします。
ところが、私の住む地域には「雪は解けても喧嘩は残る」なんてことが言われたりもします。大雪になると、隣の家の屋根雪が落ちてきて、自分の家の窓ガラスが割れた、なんてこともありますし、遣り場のない雪を、自分の家の周りから、隣の家の周りに持っていってトラブルになる、なんて話もあります。他にも、雪道を運転していて、制御を失って事故を起こして揉めるということもあるなど、大変な時には、トラブルも増えがちです。そして一旦諍いが起きると、雪が解けても解決せずに仲違いした状態が続きやすいことから、こんな言葉が生まれたのでしょう。
こうして見てみますと、同じ「雪が解ける」という出来事を見ても、「雪が解けると水になる」というのと、「雪が解けると春になる」、そして「雪が解けても喧嘩は残る」では、感じ方というか、「雪解け」という出来事に対する向き合い方がずいぶんと異なってくるように思います。
「雪が解けたら水になる」というのは、ただ単に事実に目を向けただけです。正しいことではありますが、そこにはなんの感慨もありません。
「雪が解けたら春になる」という見方には、喜びの気持ちが感じられます。辛い冬でも、それを乗り越えた先には春が間違いなくある。そう思いえば厳しい冬の辛さを乗り越えるための力ともなりそうな考え方です。
「雪が解けても喧嘩は残る」という言葉からは、私の心に起こる怒りの根深さが感じられます。実際、私も大雪に遭遇して、日々雪かきに追われる中で、「なんで毎日毎日雪かきせないかんのや」と愚痴をこぼしながら作業をしていました。ご近所さんと喧嘩をする、ということまでは起こりませんでしたが、雪に対する嫌悪の心というのは、根深く残っているように思います。
このような違いは、「雪が降る」ことへの向き合い方や、「雪の中で生活する」ということにも、違いをもたらすのではないでしょうか。
そしてこれは、私たちの「死」や「生き方」への向き合い方の違いにも通じるものであるようにも感じられます。私たちも雪がやがて解けてしまうように、命を終える時がやってきます。その「死」に対して、どのように向き合っていくのか。その違いは、きっと私たちの生き方の違いとして表れてくるのではないでしょうか。
「雪が解けたら水になる」というように、科学的な正しさを見つめて生きていくのか。あるいは「雪が解けても喧嘩が残る」というような、愚痴や怒りの心にまかせるような生き方をしていくのか。それとも「雪が解けたら春になる」というような、喜びや安心を得ることができるような見方に出会って生きていくのか。
今年の大雪、そしてこの春の訪れから、そんなことを問われたような気がしています。皆さんは、いかがでしょうか。