仏教界の情報通の一人としても知られる富山・善巧寺の雪山さんがSNSで博報堂生活総研の「定点調査」を紹介されていました。その調査の中の「21 心理・身体特性」という項目では「信じるものは何ですか?」という質問があり、いくつかの項目に対して「信じる/信じない」という回答をして、その割合が示されていました。
●博報堂生活総研の「定点調査」
21 心理・身体特性
https://seikatsusoken.jp/teiten/category/21.html
この調査によると、「信じる」という回答の割合が高かったものトップ3は、
・自分(87.3%)
・人の善意(86%)
・お金(85.6%)
そして「信じない」という回答が多かったものが、
・宗教(76.8%)
・超能力(76%)
・来世(67.3%)
となっていました。
僧侶、つまり宗教に関わる身としては、「宗教」を「信じない」と答えた人の割合が最も高かったことは大変ショックな結果です。「自分」や「お金」を「信じる」と回答していた人が多かったことも考えますと、現代人にとって宗教は「自分」や「お金」ほど「信じる」に値しないもの、頼りにならないものとして受け取られているのかな、というような危惧を覚えずにはおれませんでした。
「信じる」という言葉のグラデーション
ただ、よくよく考えますと、この「信じる」という言葉の意味というものは非常に曖昧で、「信じる/信じない」対象によって、その意味合いというものは微妙に変わってくるように思えます。
例えば、「信じる」という回答が多かった「自分」とか「お金」というものを「信じる」ということは、それらを「信頼している」ということではないでしょうか。自分を頼りにする、お金を頼りにする。それらを安定したもの、間違いのないものという一種の「よりどころ」としているという意味で「信じる」という回答をされた方が多いのではないでしょうか。
それに対して、「信じる/信じない」対象が、もっと抽象的なもの、「愛」とか「運命」、「霊魂」などを「信じる/信じない」というのは、目には見えないそれらの存在を認めるか否か、という意味合いになるかと思います。「愛」や「運命」、「霊魂」などが存在する、と思う人は「信じる」と回答するでしょうし、そんなものは存在しない、概念に過ぎないと思えば「信じない」と回答するでしょう。あるいは、「愛」をいうものの存在は認めたとしても、それに裏切られた、という経験をしたことのある人は、「愛なんてもう信じられない」という思いを持つかもしれません。存在を認めつつも、それが「信用」できるかどうか、という意味で「信じる/信じない」という判断がなされる可能性もありそうです。「占い・おみくじを信じる/信じない」という問いも、占いやおみくじで示された結果を「信用」するかどうか?ということが問われているのだと思います。
そして問題の「宗教」。こちらは上記したように「信頼している」というニュアンスで受け取れば、宗教をよりどころとできるかどうか、という意味の質問になりますが、しかし「宗教」を「信じる/信じない」という質問をされた時、頭に浮かぶのは、宗教を「信仰」しているか否か、ということではないでしょうか。つまり「あなたは(なんらかの)宗教を信仰していますか?」と問われるということです。そうなると、「信じる(=信仰している)」と答えるハードルというものは、グッと高まる気がします。
あるいは、宗教で説かれる教えが「信用」できるものか?という意味合いで質問を受け取る人もおられたかもしれません。どんな宗教であっても、そこで説かれる内容は、どこか科学では説明できないもの、私たちの目で間違いないと確認できない部分があり、それを「信用できない」という判断をした可能性もあります。(それはそれで僧侶としては残念なことなのですが)
そう考えますと「信じる」という言葉にもその意味のグラデーションがあり、存在を認めるニュアンスから、「信用」、「信頼」、「信仰」というように、その対象によって「信じる」度合いというものが変わり、それが結果にも影響しているとも考えられます。
例えば極端な例を上げれば「自分の存在を信じますか?」とか、「お金の存在を信じますか?」という問いならば、おそらく「信じる」と答える人は100%に近くなるでしょうし、「愛の存在を信じますか?」という問いと、「愛は信頼(あるいは信用)できるものだと思いますか?」という問いでは、また違う結果となったのではないでしょうか。
こうして考えてみると、一口に「信じる」と言っても、その意味にはかなりの振り幅があるとも言えそうです。
「信じる/信じない」を分けるもの
もう少し違った角度からこの調査を見ていきますと、50%以上が「信じる」と答えたものの項目は以下でした。
・自分(87.3%)
・人の善意(86%)
・お金(85.6%)
・愛(78.4%)
・運命(64.9%)
それに対して半数以上が「信じない」と答えたものは以下の通り。
・宗教(76.8%)
・超能力(76%)
・来世(67.3%)
・占い・おみくじ(66.1%)
・霊魂(65.1%)
・学歴(52.0%)
これらのことを見ていくと、「信じる」が多いものは、やはり「自分」や「お金」という目に見えやすいものが高くなる傾向にありそうです。
対して、「信じない」という答えが半数を超えていたのは、やはりどこか不確かなもの、科学で説明がしにくいもの、目に見えないもの、というものが多い傾向にありそうです。
しかし、「人の善意」や「愛」、「運命」というものは、目には見えないものです。にも関わらず、「信じる」傾向が強いのはどうしてでしょうか。これにはいろんな理由が考えられると思いますが、一つは、「善意」や「愛」は目には見えなくても、実感したことがある、ということかもしれません。人に親切にしてもらったり、人との関わりの中で愛情を感じたり、そういう経験に裏打ちされているからこそ、「信じる」という回答が多かったのではないでしょうか。あるいは、「運命」ということも含めますと、それらのものが確かなものだと思いたい、信じたい」という思いの表れなのかもしれません。
そうなりますと、「信じない」という回答が多かった項目は、実感しにくいもの、という共通項があるようにも考えられます。「来世」や「超能力」、あるいは「宗教」に関わる神や仏といった人を超えた存在や、奇跡というような不思議な現象は、それらが「ある」とする人たちの言葉として聞いたとしても、自分がそれを体験や実感しなければ、なかなか確かである(=信じられる)とは言いにくいものです。そういう意味では、「占い・おみくじ」を信じないという回答が多いのは、ちょっと意外な感じもしますね。もしかすると案外皆さん、占いやおみくじの結果を気になさらないのかもしれません。
こうして見ていきますと、「信じる/信じない」を分けるものは、自分がそれを実感できるか否か、実感できれば「信じる」に繋がり、できなければ「信じない」に繋がる、というところにありそうです。
確かなものはあるか
最後に少し宗教的な話をして終わりにしたいと思います。
この調査では「信じる」と答えた割合が最も高かったのは「自分」でした。そりゃまあそうだよね、という話ですし、自分自身を信じられないというのは、なかなか辛いものがあります。かくいう私も、100%とは言えないまでも、自分自身のことを「信用・信頼」して生きています。こんなことを長々と書いて披露できるのも、その表れの一つです。自分自身への信頼、つまりそれなりに「自信」が無ければ、「本当にこの考えでいいのだろうか?」という疑いの心が芽生え、とても衆目に晒すことなどできないでしょう。そういう意味では、私は自分自身を「間違いがない」とか「確かである」と、やはりどこかで思っている。つまり私は自分を信じているわけです。
ところがもしこの文章が、批判にさらされたとしましょう。するとおそらく私は意気消沈し、自信を失います。自分の考えはまだまだ甘かった。彼岸寺で掲載すべきじゃなかった。などなど、当初の自信はどこへやら、今度は自分が信じられなくなってしまいます。そんな風に、ちょっとしたことで、自分が「大丈夫」と信じたものはいとも簡単にグラつきます。私たちは自分を頼りとし、自分を信じて生きていくことしかできないのですが、その自分が、実はそれほど確かではなく、条件(=縁)によって常に変化し、グラつき、迷う、おぼつかない存在なのです。
さらに、私たちは常に「老病死」に晒されてもいます。若い間、健康な間は、自分はそれなりに頼りとできますが、それらが損なわれていく時、その寄る辺もまた、損なわれていってしまします。
そして、それは「自分」に限った話ではなく、お金、家族、友人、仕事、所有物、どんなものも同じです。諸行無常の理の通り、いつまでも変わらず頼りとできるとは限りません。私たちは「自分」や身の回りにあるものを頼りとし、よりどころとして生きていますが、それらの中には、実は本当に確かなものなど何一つなかった。仏教の教えを聞く中でも、そのような厳しい現実が突きつけられてきます。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人の言葉には、こんな言葉があります。
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。
『歎異抄』後序
煩悩を抱えた心の弱い凡夫と呼ばれる私。そして私が生きるこの世界においては、何事も「真実」などない、本当に頼りとなるよりどころなどない。ただ、阿弥陀仏より与えられる念仏(=南無阿弥陀仏)のみが、本当のよりどころとなるものでした、というような意味の言葉です。
これは言ってみれば、今回の調査から見える価値観とは真逆とも言える見方です。自分もお金も、頼りとなると思っていたものは、一切頼りとはならない、不確かなものであった。けれど、そんな私に、よりどころとできる確かなものが与えられていた。親鸞聖人はそのような教えに出会って生きていかれたということでしょう。
このような宗教性を「信じる」かどうかは、もちろん皆さん次第ではあります。しかし、今自分が「信じている」もの、握りしめているものが、果たして本当に「信じる」に足るものなのか、改めて見つめ直すということは、大切なことかもしれませんね。