彼岸寺読者の皆様はじめまして。遠藤卓也と申します。
はじめに、私はお坊さんではありません。2003年よりご縁あって、東京・神谷町の浄土真宗本願寺派 光明寺にて『お寺の音楽会 誰そ彼』という音楽イベントを不定期開催させて頂いております。
2012年より一般社団法人お寺の未来という組織にて、お寺をサポートするお仕事をしています。2016年には同法人にてお寺のポータルサイト『まいてら mytera.jp』を立ち上げ、全国のお寺の魅力を世の中にむけて発信しています。
彼岸寺との付き合いは長く、思えば設立の頃から関わっています。過去にはサーバー管理者、メルマガ発行などを担っていた時期もありますが、寄稿は初めてかもしれません。
今回のリニューアルにあたり杉本恭子さんから、「遠藤さんがたまに話してくれる妖怪の話に仏教を感じる」「妖怪と仏教でなんか書いて!」と無茶振りをされました 🙂
妖怪と仏教。確かに通ずるものがありそうな予感はしながら、くっつけようとするとどうしてもこじ付けやダジャレっぽくなってしまいます。杉本さんに相談すると「まずは遠藤さんが楽しく妖怪を語ってください。そのうちに何か見えてくるはず!」とハードルを下げてくださり、「では」と筆をとった次第です。最初から言い訳になりますが、ただの妖怪好きの雑談エッセイになる可能性が大いにありますのでご容赦ください。
前置きはこのへんで、『お寺で妖怪談義』第一夜をはじめましょう。
例の質問
2015年末に第一子が生まれ、先日1歳半になりました。少しずつ色々なことがわかるようになってきて、妖怪好きとしては避けて通れない例の質問
「パパ、妖怪はいるの?」
が目前に迫ってきています。この質問にどう答えるか?特に実の子に対しては、慎重に考えてしまいます。
妖怪はいるの?-「いる」「いない」と即答できる質問ではありません。過去に自分もそうであったように、段階的には「いる」を信じる時期があってほしいと願いますが、最終的には「あるけどない ないけどある」というのが真摯な回答になるのかと思います。
河童という共同幻想
例えば河童。世の人に「河童を絵に描いてください」とお願いしたら、おそらくほとんどの人が頭にお皿があって口ばしがあって手足に水かきのついた姿を描くでしょう。それでキュウリが好きとか、川辺にいるとか、なんとなく河童のことを知っている。ここまで具体的情報があるのだからその辺に棲息していそうですが、いない。川にも池にも水族館にもいません。河童は(ほんとうに残念ですが) 物理的には実在しません。世の人が知っている河童という妖怪は「周辺情報の集合」にすぎないのです。
通俗的な河童の姿はざっくり言ってしまえば「未確認の関連情報をもとに構成された共同幻想」ということになります。冒頭の子どもの質問に身も蓋もなく回答するならば「情報はあるが、実在はない」となります。
ここで「なーんだ、やはり実在しないのか」とがっかりする人が大半なのでしょうが、自分は「でもなぜ?」と気になる。ここまで具体的な通俗的認識として河童が成立していること自体が不思議であり面白いと思いませんか?
それで少し本を読むと、江戸時代にキャラクター化されて流行ったことが大きく影響しているとわかるのですが、それもまた面白い。妖怪のルーツを辿ってみると、例えば差別の歴史とか、土着信仰とか、夜這いの文化とか、日本社会の辺境の歴史をさすらう旅になるのです。
それは妖怪の楽しみ方のひとつと言えましょう。以前に小説家の京極夏彦先生がうまい喩えをされていました。妖怪の核心に迫ろうと調べていくことを確か「玉ねぎの皮むき」と仰っていた(、、、記憶は曖昧です)。一枚一枚と皮を剥がしていって、ようやくたどり着いた中心部には「何もない」のです。実在しないのだから当たり前です。
だから妖怪は「無駄」だとおっしゃるのですが、今の時代「無駄」を楽しめる余裕はある意味豊かだと思いませんか?
妖怪の目
かの水木しげる大先生は、
「金がなくても楽しめるのが妖怪。妖怪好きには貧乏人が多い」
という刺激的な発言をなさってます。そして同じ文章で、妖怪の味わい方について
「妖怪を楽しむのに別に苦行する必要はない。ラクして味わえるのが妖怪だから、どうしても”ナマケモノ”に好かれるのが妖怪の特徴のようで、金もうけで忙しい人には見えないものらしいですナ」
と結んでおり、一般社会から離れた「妖怪の目」で世の中をみているとのこと。この「妖怪の目」がとてもいい。
「妖怪道」は仏道のように、生きる指針や知恵を与えてくれるものとは言い難いですが、一般社会から離れた「俯瞰の目」をひとつ与えてくれるという点において、仏教と似ていると思うのです(つづく)。
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