A. 歴史上に存在した人間、ではありませんが…
あみださま、つまり阿弥陀仏という仏様は、人間だったのですか、というご質問ですが、これは非常に難しい質問です。宗派によってもいろいろと考え方も違ってくるかと思いますしね。それでも、大まかにですが、私の思うところを述べさせていただきます。
まず、阿弥陀仏について書かれたお経「仏説無量寿経」を読みますと、あるところに法蔵という名の王子がおり、世自在王仏という仏様の説法を聞いて、仏門に入ることを志し、四十八の誓いを建てて、長い長い時間修行する事で、その誓いのとおりになるように完成し、阿弥陀仏という仏となった、と書かれております。では、阿弥陀仏となる前の法蔵というのは人間なのか、と言いますと、人間のように経典の中に書かれておりますが、実際に歴史上に存在した人物ではありません。
ではなぜ人間のように書かれているか、なのですが…ここからがちょっと、難しいのですけども、そもそも、阿弥陀仏という仏様も、釈尊のようにこの世界に肉体を持って仏となったような存在では、ないんです。
じゃあどう言う存在なのか、と言いますと、阿弥陀仏という存在は、釈尊のさとりの内容であり、全ての命にはたらく「力」と言うか、ありとあらゆる命を繋いで、個々の命と全ての命を存在せしめる大きな「いのち」とでも言いましょうか、目には見えないし肌で感じる事も出来ないが、確かに在る、そういう大きな「はたらき」に、アミダ(=amita、「時間的・空間的無限」)という名を冠した仏として、釈尊が表現したわけです。つまり、無限ともいえる大きな「はたらき」は、言葉にはできないものであるけれど、それを人に伝える為に、仮に、名前や姿・形を与えた、と考えればよいかと思います。
ちょっと俗っぽい例えかもしれませんが、特定の人の事が気になって、好きだと感じたり、その人の事を大事だとか、いとおしく思ったりする「気持ち」は、目には見えませんが、その感情に「愛」という名前を与えるのと、同じような感じでしょうか。そして、「愛」があれば、それ自体は目には見えなくても、何らかの「はたらき」となって現れてくるものでしょうしね。
話が逸れましたが、法蔵という人物は、その阿弥陀という「はたらき」が生じる為の、因となる存在です。仏教では因果を説きますから、阿弥陀という「果」が生じるためには「因」となるものが必要なわけです。しかし、阿弥陀という「はたらき」が大きすぎて言葉に表せないものですから、当然その阿弥陀という果を導く因となるものも、とてつもない大きなものでありますし、不可思議なものであり、言葉にし尽くす事はできません。そこで、法蔵という人物が、無限とも言えるほど長い時間をかけて誓いを建て、それよりももっと長い時間をかけて修行して、そしてその誓いを完成させる事で、阿弥陀仏という仏となった、という言わば、擬人化させた物語を用いて、阿弥陀という大きな「はたらき」を説かれたわけです。
ですから、あみださまはもとは歴史上存在した人間だった、というわけではなくて、釈尊が得たさとり、真実の内容そのものであり、それを言葉として人に伝える為に、法蔵という擬人化したキャラクターと物語を用いて表現された、と考えればよいのかなと思います。