締切まで1カ月を切って、ようやく原稿を書き始めることができた私ですが、ここで本を読んでいない方のために、内容について軽く触れたいと思います。
親鸞聖人が書かれた『正信偈』は、840の漢字で構成されています。7文字で1句。それが120句で840文字。その中には、「如来」「他力」「真宗」など、「聞いたことあるかも?」という言葉から、「願」「海」「必」といった日常使っている言葉、はたまた「帰命」「横超」「拯済」といった、「はぁ?」と思うような言葉まで。沢山の言葉がでてきます。
僧侶の立場でこんなことを言っていいのか、ちょっぴり気がひけますが…。共通するのは、「意味がわからん」ということです。もっと言えばそれは「意味がわからなくても、別にいい。私とは関係ない」ということです。確かに知ったところで、受験や就職に役立つわけではありません。収入が増えるわけでも、今抱えている問題がキレイさっぱりなくなるわけでもありません。そう、前回の話ではないですが、「自分のこと」として受け止めることができないと、それはないのも同じ。けれども、ひょんなことから、その内容と出遇ってしまった私。「NO 正信偈、NO LIFE」と確信するようになりました。そうなんです、「意味がわからん」と決め込み、『正信偈』の内容を知らずに生きていくのは、もったいない!
本には『正信偈』からピックアップした言葉が30個。それぞれの言葉と、私がどのように関わったのか?それによって、私はどうなったのか?読者の方たちに、何を伝えたいのか?そういったことを30個の言葉をキーワードとして、時にアメリカ生活と絡めてエッセイ風に書いています。
前々回のコラム「【まだ半信半疑】決められない私」で取り上げた「必」だったら、先ず「必」の意味と向き合います。『正信偈』を書いた親鸞聖人は、なぜこの文字を用いたのか?この文字にはどのような意味があるのか?私たちに何を伝えたいのか?その後は、それを受けて、この文字と私との関わりを考えます。考えるというより、思い出す、と言った方が正確かも知れません。そういったことを30個の言葉、全てに対して行いました。それは正直、時として辛く苦しいことでした。
「自分のこと」として受け止められないのは現在の状況だけでなく、過去に対しても同じなんですね。思い出したくないこと。そんな過去は、自分でも驚くほど自分の中で「なかったこと」になっていました。そうして自分で、自分自身から隠してしまった記憶の箱を探し出し、箱の蓋をこじ開けるのです。開けると出てくる、アンナこと、コンナこと。時間が経っても、起こった出来事は変わりません。辛く苦しい記憶が蘇ります。原稿を書きながら「はぁ…」と、声にならない溜息が出たことは一度や二度ではありません。けれども、そんな自分の思いを一通り吐き出し、キーワードとなった言葉を通して改めて過去と向き合うと、ちょっと違うんです。起こった出来事は変わらないのですが、それがあっての今だと受け止め直されたんです。私にとっては嫌なことでも、私には必要なことだったんですね。
そうして、言葉と関わる記憶の箱を探すなかで、ある変化がありました。それは、とっても恥ずかしく悲しい変化だったのですが、いつしか幹と枝葉が入れ替わってしまっていたんです。
言葉をキーワードとして出遇う親鸞聖人からのメッセージ。それは幹です。そして、それと関わる体験の記憶は枝葉です。言葉と向き合い、それと関わる体験の記憶の箱を開ける作業のなかで、いつしか面白そうな箱を先に探すようになっていたんです。アメリカで10年近くも暮らしていると、色々なことがありました。その中には、人の興味をひくような話もたくさんあります。「何かキャッチーなこと、なかったかな?」と枝葉を探し、それを繋げることのできる幹を探す…。本末転倒もいいところです。そして、そのことに私自身が全く気付いていなかったんです。オメデタイを通り越して、自分のことですが悲しいことです。幹である大事な教えを無視して、ウケ狙いの自分の体験を探すなんて。
そうして書き進めていたある日、ある疑問を持ちました。
「法蔵が願い阿弥陀となって叶えてくれた浄土」とパソコンに打ち込んでから、内容的には「法蔵が願い、叶うことによって阿弥陀となり、作られた浄土」ではないのかと、疑問に思ったんですね。自分で考えたところで答えが出るものではないので、ご縁を頂いた大学の先生に HELP! とばかりに、「教えてください〜」メールを送りました。
すると驚いたことに、その先生がお電話をくださいました。そしてもっと驚くことに、こんなことを仰いました。「どうしてそれが問いになったかが問題だ」。私が持った目先の問いに答えてくださるのではなく、もっと大切なこと、根源的なことに答えてくださったんですね。それが、すごく嬉しかったと同時に、ハッと気付いたんです、気付かせて貰ったんです。
言葉で表される教えが、私にどう関わり、どうはたらいたか、といった自分自身に対する問いを忘れていたことに。枝葉だけで飾り立てた文章を書いていたことに。そこで私は、幹と枝葉が逆になっていた文章を、全て書き直しました。
締切まで1カ月もないのに、アホか。そう思います。恰好を付けている場合じゃない。そうです。けれどもプロの作家でもない私が、文章を通して人に伝えようとするんです。ウケ狙いの文章は、人の心には届きません。恰好が悪くても、ウケなくても、真摯に向き合った文章。それは、原稿を書いていく道が見えた瞬間でもありました。
そしてその道は、質問を受け止めてくださった大学の先生をはじめ、多くの方たちとの出遇いを通して知ることができ、歩くこと、そして歩ききることができた道です。僧侶としても駆け出しの私が、1冊の本を書ききることができたのは、多くの方たちとの出遇いがあってのこと。
ちなみに、一般的に使われる「出会う」ではなく「出遇う」と書いているのには理由があります。ここに本文を引用しようと思ったのですが、長い文なので…。近くの書店で立ち読みしてきてください!5分も掛かりません。なぜ「出遇う」なのかが書かれた「はじめに」と、「おわりに」だけでも目を通してもらえると嬉しいです。そして…。できればそのままレジへお進みくださいー。
さて、次回は最終回です。
実は原稿を書いてメデタシ!には、ならなかったんです。