「信じる」ことを一度手放してみる

はじめまして。

大阪はミナミにある浄土宗のふたつのお寺、大蓮寺と應典院で僧侶として勤めている秋田光軌と申します。このたび、こちらの彼岸寺にて連載をさせていただくことになりました。よろしくお願い申しあげます。

本連載の趣旨は、主に法然上人が開宗された浄土宗の仏教について、これまでにない切り口から語りなおしを試みるところにあります。タイトルにもある通り、それは「演じる」という切り口です。

世間一般においては、仏教は数ある伝統宗教のひとつとして「信じる」ものだと理解されているように思います。たしかにその通りだと思いますが、私がここで提案したいのは、少なくとも浄土宗に限っていえば、仏教は「演じる」ものであるという立場です。一体なぜ、こんな突飛な切り口が必要なのでしょうか。第一回では、「信じる」と「演じる」というスタンスのちがいについて触れてみたいと思います。

現代における浄土仏教の受け入れがたさ

ここで大雑把に表現すれば、浄土宗のおしえとは次のようなものです。

西方極楽浄土にいらっしゃる阿弥陀仏は、かつて「どんな悪人であっても、心を込めて我が名を呼ぶものは必ず救う」と誓いを立てられた。私たちが一度でも心を込めて、「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」と声に出して念仏を唱えれば、誰であろうと臨終の際には極楽浄土に救いとっていただける。そして、私たちが極楽浄土で修行を重ねて仏となった後は、あらゆる人々を導くべくまたこの世に帰ってくる。

日本史の授業で、「法然はすべての民衆に救いの道をひらいた」と教わった記憶がある方もいらっしゃると思います。法然の弟子である親鸞や、踊り念仏の一遍らの多大な影響も含めて、浄土仏教と「南無阿弥陀仏」が日本の宗教に、あるいは生活文化や芸能にも大きなインパクトを与えたことは疑いありません。しかし、そんな浄土仏教も、多くの現代人にとっては受け入れがたいものになっていると感じています。

私が勤めている浄土宗應典院は、1997年から「葬式をしない寺」として活動を続けており、お寺を「学び・癒し・楽しみ」の場として開放してきました。今風に言い直せば、教育や学問・医療福祉・芸術文化の場となるでしょうか。應典院の本堂は、音響や照明の設備がそろった劇場型の設計になっていて、ご本尊の目の前に舞台を組んで演劇公演などが行われています。この寺で、様々な社会活動を行っている市民、演劇人やアーティスト、臨床心理士や医療従事者など、檀信徒でも仏教徒でもない方々とご一緒する機会が多くありました。これまで全く立場の異なる方々から浄土仏教について印象を伺ってきたのですが、私の実感ではそれらのコメントのほとんどは次の2タイプに分けられます。

1つ目は「浄土仏教って情の宗教ですよね。僕には絶対に無理だなぁ」というものです。ただただ念仏を唱え、阿弥陀仏にすがって極楽浄土への救いを求める。それを「情」という言い方であらわされているわけですが、おそらくここで暗に仄めかされているのは「浄土仏教は論理的思考の停止を導くものである」という認識です。あながち間違っているとも言えませんが、じぶんの頭で考えることを日常的に求められ、その思考結果を行動に反映させている現代人に、こうした「情」のイメージがマイナスに働いている面もあるかと思います。仮にですが、こうした現代人の特性が今後の社会でますます強まっていくとすれば、結果として浄土仏教を実践する人もいなくなってしまうでしょう。

2つ目はより深刻なものですが、次のようなタイプのコメントです。「私はヴィパッサナー瞑想など、原始仏教のおしえや実践には日々親しんでいるし、その意味では自らのことを仏教徒と呼んでいいかもしれない。しかし、私には浄土仏教が一体何をやっているのかさっぱりわからないのです。なぜ、阿弥陀仏や極楽浄土という超越的な存在が出てきてしまうのか。仏教はもともとそういう超越者を否定していたではないですか…」。こうしたコメントに対しては連載全体を通して応えていきたいと思いますが、実は私自身がこうした問いを長いあいだ抱えていました。科学的な考え方が基準になっている現代人に、そんな超越的存在を信じろと言われても、ほとんど不可能に近いのは想像に難くありません。恥ずかしながら、私は浄土宗の寺に生まれながら、20代前半まで阿弥陀仏や極楽浄土を単なる空想みたいなものだと認識していました。むしろ、2500年前にインドで説かれたブッダのおしえは非常にわかりやすく、この私の苦しみに響くものであるというのに、なぜ「南無阿弥陀仏」と声に出すだけで浄土に救われるというのか。うーん、さっぱり意味がわからない…。こんな風に、浄土仏教をめぐるこうした問題は、かつての私自身にとっても信仰の大きなつまずきとなるものであったのでした。

「ポスト宗教」の時代に応じた方便とは

問題の根はどこにあるのか。私なりにつらつらと考えつづけてきた結果、それは浄土仏教と関わるにあたって「信じる」ことが前提になってきたからではないか、という道筋が見えてきました。あまりにも当たり前すぎて、なかなか見えてはこない前提です。浄土宗のおしえを「信じる」よう求めるということは、言い換えると「阿弥陀仏や極楽浄土という超越的存在が実在する」ことを受け入れ、思考停止して情的に阿弥陀仏にすがり、さらには教団へ入信するのを求めるということである。そして、その前提を受け入れることに同意した者だけが、念仏を唱えることができる。おしえを説くお坊さんにそんなつもりはなかったとしても、お寺の外の世界からはそんな風に見えています。それは現代社会に生きる多くの人にとって、受け入れることがきわめて難しい。

しかし、もし説き方が変われば、受け入れられるかどうかも大きく変わってくるはずです。ブッダは、それぞれの人の置かれた状況や個性に応じながら、全く異なる説き方で仏法に導く「対機説法」を行っていました。仏教において衆生を導く「方便」が重視される所以です。たしかに「阿弥陀仏や極楽浄土が実在する」と断言することが、大切な人を失った悲しみを癒し、前を向いて生きる力に変える契機となる場合があります。しかし、ただそれだけしか法の説き方がないのか、となると話は別問題です。「阿弥陀仏や極楽浄土が実在する」とは、また異なる法の説き方が必要な場合も(実はかなり頻繁に)あります。ここで私が「演じる仏教」と呼んでいるものは、またひとつの説き方の探究なのです。当然、自坊のお檀家さんに対しては、この連載とは180度ちがう話をする時もあるでしょう。

この彼岸寺でも、5月26日に松本紹圭さんが「ポスト宗教」についての記事を書かれていました。詳しくは松本さんの記事をご参照いただけたらと思いますが、ここで書かれている「日本仏教の先祖教よりも仏教の側面を求める人が増えているなら、今こそ日本仏教の仏教としての側面をアップデートしていかなければ」という問題意識には深く共感します。この連載の趣旨と擦り合わせると、それは「ポスト宗教」の時代に応じた仏法の説き方、「自分の宗教的感性や霊性を大事にしつつ、仏教をはじめさまざまな宗教的な知恵にアクセスして、人生の苦から解放される考え方や方法論を見出そうとする人」に向けた説き方を試みることであり、これに関しては禅仏教などに比べても、浄土仏教の立場からやるべきことがまだまだ残っていると考えています。

「浄土の物語」を稽古し、上演する

不遜に聞こえるかもしれませんが、つまり「演じる仏教」とは、浄土宗のおしえを「信じる」ことを一度手放してみよう、という提案です。先の段落で述べたおしえを特別ありがたいものとするのではなく、阿弥陀仏も極楽浄土も、ただの物語として距離をとって対峙してみる。大事なことは、その「浄土の物語」を前にしてボーッと眺めているのではなく、それを実際に一人ひとりが、自身で演じてみることを勧める点にあります。ひとまず、おしえを演劇の戯曲として捉えてみるのだと言っていいかもしれません。そして、その戯曲に書かれているセリフ、私たちが実際に演じるべきセリフとは「南無阿弥陀仏」しかない。仏典に書かれていること、法然上人の御法語や伝記、数多くの研究書などは、その戯曲の「ト書き」や参考資料として読み解いてみる。上演の舞台は、もちろん私たちの人生そのものです。このように理解してはじめて浄土宗のおしえと関わりを持つことができる人が、実はたくさんいるのではないでしょうか。

(※注)「ト書き」とは、戯曲のなかでセリフ以外の、主として登場人物の動作や行動を指示する部分のこと。場合によっては、時代、場所、日時の指定、舞台の装置や効果の説明なども含む。

このようなスタンスで語るなら、「浄土の物語」とは一体どのような物語であり、それを演じるための稽古はどのようなことをどのような方針で行うべきか、についても説明できなければなりません。舞台に立つ役者が日々稽古に励んでいるように、演じることはそんなに簡単な営みではありません。稽古を怠っているかぎり、「浄土の物語」を演じることには必ず失敗します。最も参考になるのは、やはり何よりも先に法然上人の残したことば、そして法然上人について書かれたことばから「浄土の物語」を見つめなおすことですが、あくまで現代社会において考察し、実践する以上、ある地点からはそのことばからも離れて考えなければならない。またそのためには、仏教の原点であるブッダのおしえのみならず、西洋哲学や演劇理論など、さまざまな外部の思想にもアプローチしていく必要があります。

念のため付言しておくと、私は決して単純に「阿弥陀仏や極楽浄土は実在するわけがないし、おしえなんか信じなくていいですよ」と言いたいのではありません。もしそんな風に考えていたとしたら、今現在も浄土宗の僧侶を続けている理由がないですから。それを説明するために、「人間と物語との関係」や「演じるとはどういうことか」についても、これから追い追い見ていくことにしましょう。

この連載で述べられることはどうしたって「私の仏教」であり、浄土仏教の解釈としては変わったものになるでしょう。道の途上ゆえ未熟なところがたくさんありますし、学問的見地からも整理されていない部分が多いはずです。ぜひ建設的な応答やご批判をいただけたらありがたいです。ただ同時に、私は「もし法然さんが現代に生きていたら、まちがいなくこういう説き方をされただろう」という確信を抱いてもおり、これが現代人の誰もが自身の生き方として選び取ることを検討してみるべき、時代に応じた仏教のかたちであると思っています。

煩悩と自己変容への道

最後にもうひとつだけ、タイトルにある「煩悩の哲学」について少し書かせてください。このことばはもともと、生命学者・哲学者の森岡正博さんがオウム真理教事件の直後に書かれた著作『宗教なき時代を生きるために』(法蔵館、1996)に登場するものです。この本を書かれた森岡さんは宗教への信仰とは別の道を歩まれるのですが、彼が「煩悩の哲学」に込めた思いは、私がこの連載を通して書いていきたいことの核心と通じています。若干長くなりますが、最後に森岡さんの文章を引用しておきたいと思います。

 私が選び取るのは、私が理想や理屈や美しいことを口では言いながらも、実際の行動ではそれを裏切るようなことをたくさんしてしまう人間であるという、その事実をまず直視する、そういう道である。私が煩悩や凡庸さからけっして逃れることのできない人間であることを、すなおに認めることからはじめる。これまでもたくさんの人を傷つけてきたが、しかしこれからもたくさんの人を傷つけ続けていくであろうということをすなおに認める、そういう地点から出発する哲学を考えてゆきたいのだ。これからも私は悪徳や裏切りを無数に重ねていくであろうという、その事実から出発したいのだ。
 そして、そのことを認めながらも、しかしながらそういう自分にけっして居直ることなく、現状のままでも仕方ないんだと開き直ることもせず、かつ、こういうことで悩んでいるということを自己弁護の道具として使用することもせず、自己を変容させる可能性があるときにはつねに自分の人生を賭け、そうやって自分に内在したペースで生の意味を果てしなく模索してゆく、そういう道があるはずだ。(同書P135-136)

オウム真理教事件から20年以上が経ち、伝統宗教が当たり前だった時代と「宗教なき時代」の境目を私たちが生きていることが、より前景化されてきました。「演じる仏教」を手がかりにして、浄土宗のおしえが「煩悩の哲学」につながりうると示すことが、この連載の目的のひとつでもあります。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう。

1985年、大阪府生まれ。浄土宗大蓮寺副住職、浄土宗應典院主幹。大阪大学大学院文学研究科博士前期課程(臨床哲学)修了。劇場型寺院・應典院を拠点に仏教のおしえを伝えるのみならず、哲学対話や演劇的手法などを交えて、人が死生への問いに取り組むことができるよう活動している。