なぜお釈迦様の誕生日の法要だけ「まつり」と呼ぶのだろうか?
―私がそのような疑問を持ったのは大学時代のことです。
本来、仏教の法要行事には「会(え)」という言葉がつくのが一般的です。「彼岸会(ひがんえ)」、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「成道会(じょうどうえ)」、「涅槃会(ねはんえ)」などなど。しかし、お釈迦様の誕生日の法要だけは現在「花まつり」とよばれています。
その疑問が解決されないまま私はドイツに渡り、勤め先のドイツ惠光寺(ドイツ惠光日本文化センター)の書庫で本を読み漁っていたところ、思いがけなくその答えを見つけました。
もともと「お釈迦様の誕生を祝う法要」は一般的に「灌仏会」(かんぶつえ)、「降誕会」(ごうたんえ)などと呼ばれていました。日本書紀によると、606年(推古天皇14年)の4月に元興寺で催されたと記されており、これが日本最古の記録となっています。
小野妹子が隋に渡ったのが607年とされていますので、そのころにはすでにお釈迦様の誕生をお祝いする法要が日本で行われていたということになりますが、「花まつり」という名称が付けられたのは実はそれほど古くはありません。
1916年に東京の日比谷公園で安藤嶺丸(あんどうれいがん・浄土真宗大谷派僧侶)らが中心となってお釈迦様の誕生日法要を「花まつり」と称して開催したのが日本での最古の「花まつり」とされています。当時の「花まつり」の記録をみると、日比谷公園に非常に多くの人々が集まったようです。
しかし、実はその1916年以前に「花まつり」を行っていた場所があったのです。
1901年、ベルリンでの花まつり
ドイツの書庫にあった財団法人国際仏教文化協会『ヨーロッパに広がるお念仏』という書籍によると、
「1901年4月、当時ドイツに留学していた近角常観(ちかずみ じょうかん・浄土真宗大谷派僧侶)など18名がベルリンのホテル四季館に集まって、誕生仏を花で囲み、仏陀生誕を讃える“Blumen Fest”(ブルーメンフェスト=日本語に訳すと「花まつり」)を開催しました。会には300人以上のドイツ人が参加して大いに盛り上がり、後にこのニュースが日本に伝えられ、灌仏会を日本でも「花まつり」と呼ぶようになりました
以上が内容の大まかな要約ですが、最初に読んだときは驚きました。「まつり」という言葉は、実は仏教行事ではあまり使われない言葉です。しかし、もしこの話が真実であるならば、仏教行事にもかかわらず「まつり」と名付けられたのは、ドイツ語の“Fest”という言葉が関係していることになります。
当時の参加者の寄せ書きなどを見ると、ベルリンの“Blumen Fest”の発起人である日本人18名は錚々たる人たちでした。一番の中心人物は近角常観だったようですが、他に美濃部達吉(憲法学者)、姉崎正治(宗教学者)、芳賀矢一(はが やいち・国文学者)、巌谷小波(いわやさざなみ・児童文学者)、また、私の以前の勤め先のドイツ惠光日本文化センター(ドイツ惠光寺)の初代所長・薗田宗人(そのだむねと)教授の祖父、薗田宗恵(そのだしゅうえ)らも発起人として名を連ねていました。
その会が大変好評に終わったため、ベルリンでは翌年(1902年)も“Blumen Fest”が行われ、ドイツのストラスブルグやアメリカのサンフランシスコでも同様の企画が立てられました。(実際にはベルリン以外では行われなかったようですが・・・)
1901年当時ドイツのストラスブルグにいた渡辺海旭(わたなべかいきょく・浄土宗僧侶)が日比谷公園での「花まつり」(1916年)の実行委員として大きな役割を果たしているところを見ると、東京での催しがベルリンの“Blumen Fest”の影響を受けていたことは間違いありません。というわけで、ドイツ語の”Blumen Fest”が翻訳されて“花まつり”になったという説はかなり信憑性があると思われます。
日本人は西洋からのモノに弱いですが、実は「花まつり」もその一種だったようです。
追伸
“Blumen Fest”と名付けた人がある意味「花まつり」の最初の命名者ともいえるわけですが、かなり以前に読んだ『仏教タイムス』紙に「会の発起人にもなっていた児童文学者の巌谷小波あたりがおそらく命名したのでは?」という記事が載っていました。もしそれが真実であれば、「花まつり」という名称は僧侶ではない人が命名したということになりますね。