「悲しみ」を思う 〜小山田圭吾氏の問題を受けて

少し時間が経ちましたが、五輪開催を前にして、ミュージシャン・小山田圭吾氏の過去の言動が大きな問題として世間を騒がせました。90年代の雑誌にその発端があり、一部の音楽ファンには知られていたようですが、今回は「オリパラ開閉会式の音楽担当としてふさわしいのか」という視点から、小山田氏は厳しい批判にさらされました。

たとえそれが中高生時代のことであったとはいえ、氏の苛烈なイジメ、とりわけ障害のある人に対するイジメであったこと、そしてそれを面白おかしく語ることに対する批判は多く、五輪開会式を目前にして小山田氏は音楽担当を辞任しました。

一方で、これまで小山田圭吾氏の音楽を愛してきた人たち、特に初めてこの事実に触れた人たちにとって、この問題は違った位相で受け止められたと思います。かくいう私もショックを受けた一人でした。

さて、今回、私がこうして小山田氏の問題について書こう、と思ったのは、小山田氏の言動について評価をするためではありません。今回のことを通して、このような事態が起きることで、悲しい思いをする人がいることに気がついたからです。

「正しさ」の刃で傷つけ合うネットの議論

この問題を巡っては、Twitterやブログを中心に様々な議論や論評も行われました。

そのなかには、過ちを犯したことがない人などいないのに、殊更に他者を批判するのはどうなのか?という意見もありました。また小山田氏のイジメが子ども時代のことであったことや、雑誌に掲載されたのが90年代であったことから、過去のことを現在に持ち出して人を批判するのは、イジメが行われることと同様に「生きづらさ」につながるのではないか?という意見も見られました。確かに、清廉潔白な人などなかなかいませんし、誰もが心に闇を抱え、脛に傷を持つ身であるなとすれば、過去をほじくり返されることは痛みを伴うものですし、望ましくないことは、私自身に照らして考えてもその通りだな、と思います。

しかし、過去のこととは言え、やはり「イジメ」という問題に対して毅然とした態度でNOを突きつけることは大事ですし、ダメなことに対して声をあげることも大切なことです。それに対して「過去のことは持ち出すべきではない」というのは、ただ単に批判を潰したい意図の現れのようにも感じられました。また、過去のことを今に持ち出して、今の価値観で裁くべきではないというのは、確かに一理あるようですが、そうなると過去にいくら過ちを犯していても何も問題はないことにもなりかねませんし、また過去における過ちも反省が必要ないことになってしまいます。それでは社会のアップデートはなされず、また過ちを繰り返すことにも繋がりかねません。

このように、小山田氏の過去の言動に対して批判する側と、批判に対して批判する側とに分かれ、今回の問題の本筋とは違うところで互いの正しさを主張してぶつかり合う構図となっていったように思います。

私個人としては、今回の件に関しては評価できる立場ではないことはもちろんなのですが、小山田氏の言動に対して批判する意見に賛同できる部分がありながら、しかしその批判に対しての批判の声にも頷ける部分があり、正直なところ、ずっとモヤモヤとしていました。かと言って、この件を知ってしまった以上、自分には無関係と突き放すことも無視することもできずにおり、また立場が違う者同士が激しく口論を重ねる様子からも、悲しみがより深まったような気がしました。

そんな中で、今回の問題にドンピシャなある一冊の本を読みました。それは佐々木閑氏の著書『ネットカルマ』という本です。

ネットが現実化したカルマのシステム

「カルマ」とは、インドの言葉、概念で、日本語では「業(ごう)」と呼ばれます。佐々木氏は本著の中でこの「カルマ」をこう表現します。

私たちのおこないのすべてを記録するシステム

そしてその「カルマ」というシステムによって記録された「おこない」に対して、いつか必ずなんらかの形で報いがもたらされる。しかしそれはいつどんな形でやってくるのかは予測不可能であるものである。お釈迦様の時代のインドでは、そのように考えられていました。しかしそれはあくまで概念的なもの、当時のインドで信じられていた法則であって、それが実際に存在するかどうかはわかりません。しかし、佐々木氏はそのような「カルマ」のシステムが、ネットの発達によって実際のものとなってしまいつつあると指摘します。それこそが「ネットカルマ」です。SNSなどを中心に、ネットに私達がさまざまな書き込みを行うことによって、私達の「おこない」がネットに記録され、それがふとしたことをきっかけとして明るみとなり、「おこない」をした本人になんらかの結果がもたらされる。佐々木氏は一例としてこのようなことを指摘しています。

 時々、何年も何十年も前にやった悪事が今頃になって暴かれ、処罰されている人がニュースに出ますが、そういった人たちの多くは、「見られていないところなら、悪いことをやってもばれない」という古い時代と、「どんなところにいても、やったことの記録は残る」という新しい時代の、ちょうど転換期に悪事を働いた人です。頭の中は全時代なのに、現実はもう新時代に入っている、そういう状態です。ですから「今私がやっていることは、誰にも分かるはずがない。だからこれから先も、誰にもわからないままで済まされるだろう」と思い込んでやっているのですが、実際にはもうすでにそういった行為は、たとえば録画とか録音とか、あるいは形態の通話履歴などのかたちで、本人の気が付かないところできろくされており、それが何年もたってから思わぬかたちで世に現れ、そしてその報いを受けるという構図です。

どうでしょうか。今回の小山田氏の問題もそうでしたし、五輪に関わることをきっかけに、過去の言動が批判されることが相次ぎましたが、そのことをまるで予言するかのような一文です。

そしてこのようなことは、おそらくこれからも起こることでしょう。今回はたまたま小山田氏がそうでしたが、もしかしたら次はあなたが推しているアイドルに同じことが起こるかもしれませんし、応援しているスポーツ選手かもしれませんし、ファンであるアーティストや作家かもしれません。あるいは、自分にとって身近な友人であったり、自分自身にその「ネットカルマ」の報いが訪れ、攻撃の対象となる可能性も否定できません。

自分にそのようなことが起こることは恐ろしいことですし、また自分に縁のある人であったり、「推し」にそのようなことが起こるのであれば、今回と同様に、ファンにとっては大きな悲しみとなってしまうことでしょう。そのような可能性がある限り、今回の小山田氏のファンだけではなく、誰にでも、同じような悲しい出来事が降りかかることになりかねない。そんなことが示唆されているように思います。

悲しみを抱える

佐々木氏が指摘するように、このような炎上事案は、これからも起こり続けることになるでしょう。そうなると、いつも誰かが悲しみに暮れることになる。だからこそ、その「悲しみ」を少しでも和らげる方法が必要になる。炎上そのものを止めることは難しくとも、そこから生じる「悲しみ」を消化/昇華していく手立ては必ずあるはずです。

今回の件は、小山田氏のファンだけでなく、本当に多くの人たちを悲しませたことでしょう。実際にネット上でも、怒りとともに悲しみの言葉に溢れていたように思います。私もこれまで小山田氏の音楽を聞いてきた人間の一人、また音楽好きの一人として、今回の件は本当に残念で悲しい気持ちになりました。小山田氏の音楽は好きだけど、氏の言動を知った上で、これからもその音楽を聞けるのだろうか。小山田氏のことを今後どのような眼差しで見ていけばいいのだろうか。なぜそのような過去を取材で明かしたのか、なぜ雑誌はそんな過去を暴いたのか、本当にいろんな思いが交錯しました。

また、悲しさを感じながらも、それを声にすることができなかった人たちもいることでしょう。そして、どうやってこの悲しみと向き合えばよいのかわからず、それを抱え込んでしまった人もいるのではないでしょうか。

悲しいと表明することは、そのまま小山田氏のしてきたことを許すことになって叩かれてしまうのではないか。かと言って、これまで好きだった物事をそう簡単に「もういいや」と手放して厳しい態度で臨むこともできない。そして、これまで自分が大切にしてきた気持ちはどうすればいいのか、これからはこれまで通りに氏の音楽を楽しめないかもしれない、そういうやりきれなさや喪失を抱え込んでしまう。そこにさらに追い打ちをかけるような非難の嵐に、どうすることもできず、ただただ萎縮するしかなく、自分の思いを表現することが憚られる、そういう状況に追いこまれるような雰囲気も、より悲しみを深めていったように思います。

あるいは、今回のことに怒りを覚えた人も、その背景には、もしかしたら悲しみがあったのではないでしょうか。障害を持つ人に対して苛烈なイジメがあった。小山田氏だけに限らず、そういう社会を私たちは生きている。そういう事実に対して悲しさを感じ、そこから怒りとして発露したのが批判の声なのではないでしょうか。

あるいは、その批判に対する批判を行った人も、今度は批判によって悲しい思いをし、その悲しみに抗うべく、相対する批判を行ったと見ることもできるのではないでしょうか。

こうして見ていくと、本当に多くの、そして人それぞれ多種多様な「悲しみ」が渦巻いた出来事であったと思います。しかし「悲しみを抱えている」という点では、みな同じです。その部分に注目をすると、「悲しみ」を消化/昇華していくためのヒントがあるような気がします。

悲しみを言葉に

私たちは自分の抱える「悲しみ」を解決するために取ることができる2つの方法があります。

一つは、その「悲しみ」の原因を自分の外に求めていく方法。もう一つは、その「悲しみ」の原因を内に求めていく方法です。

「悲しみ」の原因を自分の外に求めていく、というのは、自分を悲しませる原因となるものが他者の言動や、社会のあり方にあると見ていき、それを解決していこうという方法です。社会が抱える問題によって人が悲しむならば、それを解決していこうと声をあげることはとても大切であることは言うまでもありません。イジメをなくそう、差別を無くそうと声を上げる。ダメなことに対してダメと言うことは、よりよい社会へとアップデートしていく上で必要不可欠です。

しかし一方で、それがいき過ぎてしまうと、「自分はなにも悪くない、悪いのは全て他者(社会)のせいである」というような正しさへの陶酔や他罰的な感情に支配されてしまう危険も伴います。その部分においては、注意が必要でもあるでしょう。


この記事を上げる前夜、メンタリストDaiGo氏のYouTubeで、ホームレスの人や生活保護受給者を差別し、暴力を助長する主張が為されたことが問題化していました。こういう発言が平然と為されてしまうというのは、本当に悲しいことです。そしてこのような発言や考え方には断固とした批判をしなければならないことを付け加えておきます。


対して、「悲しみ」の原因を内に求めていくというのは、とことん自分の「悲しみ」向き合う方法です。なぜ「私は悲しいのか?」と繰り返し問い続ける。それは自分自身の抱える「なんでも自分の思い通りにせずにはおれない」という自己中心性(=煩悩)とも向き合うことであり、簡単に解決へとたどり着ける道ではありません。一人でそれを抱えていれば、モヤモヤが募り続けます。

この道は困難で、時間もかかる歩みとなるかもしれません。しかし、その「悲しみ」は、外に表現することができます。どうして自分は悲しく感じているのかを語る、言葉にする。それは自分の自然な感情ですから、人にとやかく言われることではありません。言葉にすることで、自分の感情に整理がつけられますし、他者とそれを共有することも可能になります。

そしてその過程で、相反する感情が生じてもなにも問題はありません。私たちの心は移ろい変わるものですし、複雑な問題に出会う時、感情も複雑になるのは当然のことです。ですから、その変化を「いけないこと」とするのではなく、今はこう感じているんだということを、しっかり見つめることが大切になるでしょう。そして、感情が言葉として表現される時、それを受け取る側の人も、どんな感情も否定せず、また変化することも否定せずに受け止めることに注意をしなければなりません。

そして自分自身の「悲しみ」に向き合うならば、自分自身はどうあるべきかということとも必然的に向き合うことになるはずです。自分が「悲しい」と感じることが、もし自分の中にも存在していたら。きっとそれを変えていきたいという方向転換が起こってくるはずです。そうすることによって、真に自分自身の「悲しみ」を消化/昇華していくことへと繋げることができるではないでしょうか。

さらに「悲しみ」を表明することは、批判ほどは強くありませんが、問題に対して、自分の立場を表明することにも繋がります。もし、批判や怒りを表明する前に、その根っこにある「悲しみ」に目を向け、お互いに「悲しみ」を抱えているところを共有しながら、立場の違いを理解できたなら。もしかしたら、過剰な炎上は、起こりにくくなる可能性もあるかもしれません。

さいごに

佐々木閑氏が指摘する通り、今回の出来事のような、誰かが過去の過ちによって、非難の的になることがこれからますます増えてくるかもしれません。そしてその誰かは、「推し」と言えるような自分にとって大切な存在かもしれませんし、身近な人かもしれませんし、自分自身かもしれません。その可能性は、誰にも等しく存在しています。

そして誰もが自分にとって大切な存在が非難の対象になるかもしれないという悲しみを抱えているのであれば。まずは自分自身の「悲しみ」に目を向け、言葉にするとともに、他者の持つ「悲しみ」にも目を向けていくことができたなら、その「悲しみ」をほんの少しでも和らげていくことができるのではないでしょうか。

なんの問題解決にも繋がらないかもしれませんが、私自身の悲しみと向き合った中で考えていたことをここに綴っておきます。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。