「君は君 私は私 でも同行」〜「お寺の掲示板大賞2020」彼岸寺賞の言葉を味わう

今年も残すところ、あと僅かになってまいりました。年の瀬になりますと、一年を振り返る機会も増えてまいります。「流行語大賞」や「今年の漢字」などもありますが、仏教界においては「お寺の掲示板大賞」がその役割を担うようになっているように思います。

この彼岸寺でも毎年「彼岸寺賞」を設けて、掲示板の言葉を一つ選んでいます。毎年秀逸な掲示板が多く、掲示板大賞がはじまってからさらに掲示板に工夫が見られるようになって、その中から一つを選ぶのに本当に頭を悩ませております。

そして悩みに悩んだ末、今年は広島県の超覺寺さんの掲示板「君は君 私は私 でも同行」という言葉を選びました。なぜこちらの言葉を選んだのか、少し味わってみたいと思います。

2020年を振り返る

まず今年一年を少し振り返ってみますと、新型コロナウイルスの流行で、これまで当たり前にできていたことができなくなったりと、これまでになかった生活を余儀なくされた一年であったと思います。そこから新しい生活様式と呼ばれるものが生まれたり、彼岸寺でも取り上げたようにお坊さんがどんどんとオンラインでの活動を活発化するなど、新たなムーブメントも見られました。またコロナ関連以外にも、ドラマ「半沢直樹」や、『鬼滅の刃』が一大ブームを巻き起こし、そこから仏教を感じ、熱狂するお坊さんたちもおりました。

今年のお寺の掲示板も、そのような世相を反映して、コロナや『鬼滅の刃』、「半沢直樹」などをモチーフにした言葉が多かったように感じられました。彼岸寺賞の候補には、そんな世相が現れた言葉もいくつかあったのですが、そんな中で、流行や世相とは一見関係の無さそうな「君は君 私は私 でも同行」という言葉にどうしてか、ひっかかりを感じました。

それはちょうど、アメリカ大統領選挙が行われていた頃に選考をしていたということもあったかもしれません。それぞれの大統領候補の主張の違いから、アメリカという大国を二分した今回の大統領選挙。特に、警察による黒人の不当な殺害に端を発した「Black Lives Matter」という運動が巻き起こったことや、トランプ大統領自らが分断を煽るような言動を繰り返したこともあり、その分断の大きさが、今回の選挙にも大きく影響していたように感じられました。

そしてそのような分断は、アメリカに限ったことではなく、COVIDの流行をきっかけとして、日本でもTwitterなどを中心に、いろんな場面で見られるようになったように思います。コロナ罹患者への迫害とも言えるような行動が見られたり、政府の対応を巡っての意見の違い、そしてデマやフェイクニュースで分断をさらに煽るような言論も見られ、コロナウイルス以上に、人間の恐ろしさを感じたり、心を傷めた人は少なくなかったことでしょう。今年の掲示板大賞に選ばれた「コロナよりも怖いのは人間だった」という言葉は、それを如実に表しているかのようです。

そんな分断をより明確にしたアメリカ大統領選挙の中で、こんな言葉がみられました。

「ディバイディッド(分断)ではダメ。我々は、ユナイテッド(団結)の国なんだから」

主義主張の違いから、人々がお互いがお互いを罵り合い、傷つけ合い、怒りと憎しみを募らせていく中で、「ああ本当にそうだなあ」と感じた言葉でした。誰もが不安や危機にさらされ続ける状況にあって、どうしても自己中心的な考えに陥り、自分と違う考えが認める余裕が無くなりがちになります。あるいは、「正しさ」というものが煩わしく感じられたり、身を守るためには他者を蹴落としてでも、というような思考に侵されてしまったりすることさえあったかもしれません。しかし、危機を乗り越えるために必要なのは、他者を傷つけ、排除し、自分さえ良ければという思いを優先させることではないはずです。知恵を出し合い、団結し、手を取り合っていくことこそが、最も近道となっていく――

そんなことをこの言葉から感じたのですが、その時にさらにハッとしたのが、「君は君 私は私 でも同行」という言葉でした。

君は君 私は私

君は君。私は私。この世界には、私と同じ考え、同じ感覚を持った人というのは、誰一人としていません。もちろん、近いものを持った人というのはいるかもしれませんが、それでも全く同じとは言えません。私と君(他者)というのは、本来的に圧倒的な隔たりがあるものです。ですから「他者を自分と同じに染め上げてやろう」というのは、土台無理なこと。にもかかわらず、自分の考えこそが正しく、違う考えを持つ人は間違っているとして、正しさを押し付けようとしてしまう。それこそが、隔たりを大きくし、分断を生み出す一つの要因なのではないでしょうか。

それに対し「君は君、私は私」とありのままに見ていくということは、そこに違いがあるものだ、ということを認めていくということです。私とあなたは違うもの。同じにしようとすること自体がそもそもの間違いだという立場にまず立つということの大切さを、この言葉は教えてくれています。

しかし、私たちの世界は、取捨選択が迫られる世界です。違う考えがあれば、どちらか一方を選んでいかなければならない場面というものがたくさんあります。そんな時には、どうしても「どちらが正しいのか」「どちらが有効なのか」「どちらが得なのか」などを考える必要があります。そうなると、自分の考えの正しさをお互いに主張し合うことになり、受け入れられなければ、そこには溝が生まれます。そして「勝ち/負け」というような価値判断も行われてしまうため、どうしても自分の意見を通すこと、相手を負かすことが目的となっていってしまいます。

本来は、問題解決を目的としてこそ議論は意味を持つのですが、主張の違うもの同士のメンツやプライド、勝敗というものが目的にすり替わってしまい、争いのような状態になってしまう。今回のアメリカ大統領選挙はまさにそのような状況であったと思います。

でも同行

そんな時に大切になってくるのが「でも同行」という言葉です。「同行(どうぎょう)」という言葉は、同じ道を歩むもの、同じ仏道修行に励む者、ということを表します。特に浄土真宗では「御同朋・御同行(おんどうぼう・おんどうぎょう)」という言葉で、同じ念仏の教えを聞いていく者同士、同じ道を往く仲間として、互いに敬い合うということが大切にされます。つまり、私とあなたは違っていても、同じ道を歩んでいる仲間としてお互いを尊重し合うということを教えてくれるのが、この「同行」という言葉なのです。

もちろん、今の日本には人それぞれの信仰があり、誰もが「念仏の教えに生きる仲間」というわけではありません。しかし、少し視野を広げれば、日本という国で生きていること、もっと広げれば、同じ「娑婆」という世界を生きる身であるというようにとらえていくこともできるでしょう。そうすれば、誰もが同じ道を歩んでいる「同行」と見ることはできるのではないでしょうか。

そのような立場に立ったときには、私とあなたの違いを争わせ、それぞれのメンツを賭けて勝敗を競うということそれほど重要なことではなくなってくるはずです。それぞれに違いがあっても、同じ道を歩んでいる者同士、どうしていくのが一番良いのだろうかと、それぞれの違いを敬い合いながら、模索していく。

それでも現実は「あちらを立てればこちらが立たず」という難しさもあることでしょう。しかし、少なくとも今私たちが目の当たりにしている「分断」というものを解消していくためのヒントが、この「君は君 私は私 でも同行」という言葉にあるように感じられました。

これから寒さ厳しい冬がやってまいります。しかし厳しい冬にも雪解けがあるように、コロナ禍、そして分断の時代というものにも、必ず雪解けやってくるはずです。その雪解けの日を一日でも早く迎えられるよう、共に「同行」として、お互いを敬い合えるようにしていきたいものですね。

今年一年、皆さま彼岸寺にお参りをいただきましてありがとうございました。来年もまたどうぞよろしくお願いいたします!

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。