毎週日曜日に配信されている彼岸寺のメールマガジン「ほぼ週刊 彼岸寺 門前だより」。ライターの小出さんが毎週担当してくださっていて、仏教の言葉を小出さんならではの味わいで読み解かれるなど、充実した内容で毎週お届けしております。
さて、そのメルマガ最新号(vol.297)の中で「方便」という言葉が使われておりました。「嘘も方便」ということわざに出てくる言葉として知られている言葉ですが、実に誤解されやすいこの言葉。小出さんも〈「方便」は「手段」や「手立て」〉と補足を入れてくださいましたが、今回その「方便」という言葉について、誤解されないようにもうちょっと解説してみたいと思います。
さてこの「方便」という言葉、元はインドの言葉「upāya(ウパーヤ)」という言葉に由来します。この「ウパーヤ」という言葉は、近づく、到達する、というのが原義であり、そこから到達するための手立て、手段、という意味が派生したとされています。
日本語としては先述の「嘘も方便」ということわざとして用いられる場合がほとんど、ということもあってか、どうしても「方便」というのは「嘘」のことである、というイメージが根強くあります。あるいはそれが行き過ぎて、「方便」という言葉自体が「嘘」という意味で使われるケースも見られます。しかし、「方便」という言葉には、本来「嘘」という意味はありません。「嘘も方便」というのは、「嘘も、場合によっては何かしらの良い手立てとなり得る」ということを表しているだけで、「方便」は「嘘」とイコールではないのです。この点が、大きく誤解されることなので、是非とも注意していただきたいことです。
さて、それではこの「方便」。「近づく、到達する(ための手立て)」という意味がある言葉ですが、一体何に近づき、到達するための手立てなのでしょうか。仏教においてそれを考えるならば、それはやはり「さとり」であり、「仏に成る」ことです。このことに導き、たどり着くためブッダが用いた勝れた手立てが「方便」なのです。その中でも、特に有名なものとしてよく挙げられるのが、「法華七喩」と呼ばれるもので、「法華経」の中に見られる7つの例え話です。今回はその一つ、「化城宝処」の喩えをご紹介します。
“人里から遠く遠く離れた地に、素晴らしい宝物が眠っていました。そこにたどり着くには、猛獣も多く出現するなど、とても困難な道程でした。しかしそこを目指す一団がおりました。その一団の中にはいろんな人がおりました。そのため、途中で疲れてしまう人、弱音を吐く人などもいます。一行は長い苦労の果てに、途中で頓挫しそうになります。そんな中、その一団にはただ一人、勝れた智慧を備えた導師がおりました。あと一息で素晴らしい宝が手に入るのに、ここで引き返そうとは、なんと哀れなことかと考え、勝れた力で、道の先に大きなお城の幻を出現させます。そしてもう少し頑張れば、あの城で休むことができますと、一行を励まします。そして城で休み、再び旅路を進む力を回復させると、導師はその城は仮の目的地にすぎないとして消し去ってしまいます。そして本当の目的地である宝の元へと、たどり着くことができたのでした。”
このエピソードでは、勝れたリーダーが、人びとを遠くてその姿さえ見えない本当の目的地(=宝)にたどり着かせるために、途中に仮の目的地(=城)を設定することによって、到達させるという手立てが用いられています。こうして誰にでもわかる仮の目的地を設定することが、一つの「方便」になっています。そしてこのエピソードの中にある宝とは、本当のさとりであり、このリーダーこそブッダであるということが喩えられています。
しかし「方便」は仮に設定されるものであるから、嘘に近いものと理解されるかもしれません。「嘘も方便」という言葉も、このような誤解から生まれた言葉と考えることもできます。しかし「嘘」と「方便」の違いは、それが間違いなくさとりへと至るためのものであるか、というところにあります。「方便」は我々の用いる嘘のような虚言ではなく、ブッダの智慧と慈悲の表れでもある、ということです。それは、言葉で表せない真理の相を、なんとか私たちに理解できるように形を変えて示されたものである、とも言えるでしょう。
そう考えてみますと、私たちに伝え残されている仏法どれもが、真実のさとりの世界から、ブッダによって示された「方便」であると見ることもできます。ブッダが我々のために手を変え品を変え示してくれた、さとりへとたどり着くための手立て、「方便」。それを元にして、私たちもまた、さとりへの道を歩ませていただけるのですね。