先日、金沢工業大学の准教授で、脳科学者の田森佳秀さんという方のお話を聞くご縁がありました。脳についての話を実際に聞く機会など滅多にありませんので、とても楽しみにしていましたが、実際にお話を聞かせていただくと、とても興味深いことばかりで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
特に気になったのは、脳には弱点がある、というお話。その弱点の中でも、特に記憶というのはかなり曖昧なものとのお話でした。私たちは自分の記憶していることを確かな事実であると思いながら生活をしていますので、記憶が実はかなり不確か、と言われると不安に感じてしまいます。しかしそれは敢えてそういう風になっているのだそうです。
ではなぜ記憶が曖昧になっているのか。それは自己同一性を感じるためである、と田森さんは話されました。人間の身体というものは、日々刻々と変化し続けており、朝と夜でも身長に差が出たりするほど。そこでもし、記憶が完全なものであると、自分自身のその変化をキチンと理解できてしまい、刻々と変わる自分自身に対して同一性を見い出せなくなる可能性があります。それを防ぐために、敢えて記憶は不完全で曖昧にすることで、変化に鈍感になり、常に変化する身体であっても、それを変わらない自己として認識することができるようになっているのだとか。
このことを聞きながら、私は「諸行無常」と「諸法無我」という仏教の言葉を思い出しました。「諸行無常」というのは、一切は常に変化し続けるという真理のこと。そして「諸法無我」というのは、変化の中にあっても、変わらない何か(=我)が在るということはあり得ない、という仏教の真理の一つです。ところがお釈迦さまが「諸行無常」、「諸法無我」ということを教えて下さったにもかかわらず、私自身はやはりどこかで「変わらない私」というものがいるのだ、というように認識し、我を張りながら生きています。そのような誤った認識、私自身に対する執着こそが苦しみの原因であると知らされてもなお、それを辞めることができません。
脳科学の分野から言えば、それは「脳」がそうさせている、ということなのでしょう。そうでなければ、自己を自己として認識し続け、「私」というものを成り立たせることができないからです。そしてそれは、「私」という一個の生命の維持に不可欠な要素であるのでしょう。
しかし、人間の脳の構造が、そうやって自己同一性を感じられるような作りになっているにもかかわらず、「そうではない」と気づいたお釈迦さまの思惟の深さには、ただただ脱帽するばかりです。
脳科学のお話は、私が完全だと認識している私自身の在り方に科学の目から疑問を投げかけてくれました。仏教はそれとはまたアプローチの仕方が違うかもしれませんが、2500年以上も昔から、この私に向かって疑問を投げかけてくれている教えであると、今回改めて感じました。自分は常に正しいと、つい思いがちでありますが、自分自身の在り方を疑ってみることは、やはりとても大切なことであるのだと思います。