Hate makes me dirty

いつの頃からでしょうか、「ヘイトスピーチ」という言葉を頻繁に見聞きするようになったのは。ここ1,2年ほどのことだと思うのですが、ニュースなどでもよく報じられるようになり、最近では法規制も視野に入れた検討が行われているそうです。それらのニュースを見ながら、それぞれの立場でいろんなことを感じるのだと思いますが、人を傷つけることを厭わない言葉を聞くと、私はやはり悲しい思いがいたします。

「ヘイトスピーチ」は嫌悪、憎悪の感情をおおっぴらに表現することですが、そのような非人道的な行為の背景にあるのは、自分は人より優れている、人の上に立ちたい、自分たちこそが正しいという自己中心的な考え方です。それを無理やり実現するために、特定の集団を下位の存在として位置づけ、貶め、蔑むことで、自分たちは優れた集団であることを標榜するのです。

しかしそれは人種差別的であったり、人を人とも思わないような悪辣な言葉を使い、人を傷つけ、恐怖に陥れるものですから非難されてしかるべき行いです。仏教においても、お釈迦さまは「生まれによって尊い人となるのではない。行為によって卑しい人ともなり、行為によって尊い人ともなるのである 」と示されました。問われるのは生まれや民族などではなく、その人の行いです。「ヘイト」を強く表現することは、かえって自分自身を貶める行為であると、気づかなければなりません。相手を汚そうと汚物を投げつける時には、まず最初に自らの手を汚しているのです。

ですから「ヘイトスピーチ」を糾弾する時、それは正義の行いであるように見えます。ところが、時にその正義がいき過ぎてしまうことがあります。そうなった時、実はそのアンチヘイトがまた一種の「ヘイト」となりかねません。

なぜならばアンチヘイトの動きにも、根っこの部分には「ヘイトスピーチ」を行う側と似たような行動原理があるからです。それは自分が正しく、相手が間違っているという考え方です。

もちろん「ヘイトスピーチ」は正しい行いではありませんし、為されるべきものではありません。しかしそれを非難する側に立つ時、相手と同じように、自分たちと考えの異なる集団を蔑み貶め、怒りや憎しみを持って「ヘイト」の対象としてしまっては、「ヘイトスピーチ」と同じに成り下がってしまいます。先日、橋下大阪市長と在特会代表の会談が話題になりましたが、まさにそのいい例ではないでしょうか。

しかしながら、かく言う私自身にもそのような「自分こそが正しい」とか、「人よりも優位でありたい」というような自己中心的な醜い想いが心に渦巻いています。そのような心は、どこかで人を蔑み、そして怒りや憎しみ、人を傷つけるような言動を生み出してしまいます。自分と共通する集団にはコミットし、そうでない集団には、理解を示さず対立的な姿勢を示すこともあります。「ヘイトスピーチ」とまではいかずとも、心の根っこの部分ではそう違いないのが、偽らざる私の真実の姿です。

大切なのは、その自分自身のそういう愚かしさ、醜さと向き合うことにあるのだと思います。仏教はまさにそのための教えです。人の在り方を問う前に、自分自身の在り方を見つめること。これがなにより大切なことであると思います。それを突き詰められた親鸞聖人は、自らを蛇蠍の様な恐ろしい心を持った身であると見つめ抜かれました。自分自身をそこまで厳しく見つめ抜く時には、きっと人を蔑むような思いというのは起こってこないことでしょう。

人を傷つける愚かで悪辣な行為を正すということは大切なこと。それと同時に、自分自身の中にも、同じように人を蔑むような恐ろしい心が生じていないか、自分自身と向き合い続けることも、「ヘイト」というものをなくしていくことのできる一つの道なのかもしれません。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。