「話す」より「聴く」ことからはじめた人/藤岡延樹さん

今年になって、”Twitter僧(『Twitter』を利用するお坊さん)”が急増しましたね。私が作っている”Twitter僧リスト”もついに200人を超えました。(余談:私はお坊さんの「剃髪なう!」ツイートを見つけるのが大好きです。)

さて、わやわやと流れていくTL(タイムライン)のなかには、時々「なぜか気になる」お坊さんがいます。今回の『坊主めくり』に登場する藤岡さんもそのひとり。「どんな人だろう?」とプロフィールに載っていたウェブサイトを見て興味を持ち、実際にお会いしてみて「やっぱり。」みたいな納得があって、インタビューを申し込みました。私のお坊さんとの出会いは、だいたいそんな風にゆっくり近づいていくことが多いです。

藤岡さんは、お寺の法務の合間を縫って、カウンセリングや”エンカウンターグループ”のファシリテーターなどさまざまな活動をしているお坊さんです。でも、どの活動においても藤岡さんがベースとしておられるのは「聴く」ということ。お坊さんといえば「お説教」や「法話」のイメージが強いですが、どうして藤岡さんは「話す」より「聴く」ことにより重心を置いておられるのでしょうか?

多感な少年、ギターに出会う

——お坊さんになる前はミュージシャンとして活動しておられたそうですね。ギターはいつ頃から弾いていたのですか?

少年時代の藤岡延樹さん

14歳のときからですね。小さい頃は運動神経がむちゃくちゃ良くて、腕白少年やったんですよ。ところが、中学生の時に健康診断で「しばらく運動したらダメ」と言われてしまって。何しようかなぁと思っていたら、お寺の倉庫でギターを見つけて弾きはじめました。

いろんな音楽を聴いていると、「何のために生きているのか」みたいな歌詞が多感な少年に響いてきて内面的に考えるようにもなって。ちょうど、尾崎豊の『15の夜』がヒットした頃だったので「どうやってバイクを盗めばいいんだろう?」とかね(笑)。

高校生の頃には、キリスト教にすごく惹かれて、イメージとしての神を想定した音楽をやりはじめました。神に救われたいのに救われていないという孤独感や、それでも神を信じてしまう内面の葛藤を歌詞に書いていました。

——救われたいという思いから、神さまを想定したのでしょうか。

救われたいから神を想定したのか、神を想定したから救いを求めたのか……。生きていること、学校に行くこと、また将来は働いていずれ死んでいくことの意味がわからなくて。「命と引き換えにしてもその意味を知りたい」という思いを表現し、それに共感してくれる人と語り合えることが居場所になっていました。音楽をやっていれば、たとえ救われることはなくても死んだように生きなくてすむと思ったんです。

——高校卒業後は、大学には進まずにバンドを続けておられたんですね。

ミュージシャン時代の貴重なショット

そうですね。音楽でプロになってどうのこうのというよりは、好きなことをして、数少ない人とでも分かち合えれば十分だと思っていました。ツアーをしたり、あちこちを転々としながら暮らしていたんですが、25歳のときに自分にとことん絶望するようなことがあって、仏教のほうにドーンと帰ってきてお坊さんになりました。

絶望の淵から仏教にすがる

——自分に絶望するようなこと?

究極的には、自分さえ良ければ人のことなんてどうでもいいと思っている自分の姿を、まざまざと突きつけられる出来事があって。仏教には、心で思うことも罪になるという「意業」という言葉がありますが、実際に誰かを傷つけたわけではなくても、僕が本気で思ってしまったのであればその罪は消えないんだと思いました。もう、音楽を続ける希望さえ持てなくなったときに、すがる思いで仏教に戻ってきたんです。幸いにしてうちのお寺は「悪人とは自分のことである」ということを聞いていく浄土真宗の教えだったので、この道しかなかったのかなと思います。

——そのとき、仏教にすがることができたのはどうしてでしょう。

それまでずっと、仏教を避けると同時に大事にしまっていたような感じもあって。また、仏教に手を伸ばすならそれを選ぶ覚悟が必要だし、そうじゃないとダメだというストイックなこだわりがありました。

出家とは、家を捨ててお坊さんになり道を求めることですが、僕は道を求めて家に帰ってきてお坊さんになった。おかしなことかもしれませんが、当時はそんな余裕もなかったし、一刻も早く教えを聞きたいと思っていました。お寺のことも、阿弥陀さまのことも全然知らないところから学びはじめたので何もかもが新鮮でしたね。教えを聞くたびに「何があってもこだわらなくていいんだなぁ」「すごいなぁ、お釈迦さまは! すっごい天才がいたんだなぁ」って本当に感動しました。

でも、振り返ってみると、教えに出会って変わったというよりは、生活がガラッと変わったことが新鮮だったんだと思います。何かあるたびに、つまらないこだわりの心から怒ったりもする。「どうやら、自分と真理はかなり違うらしい」ということに気がついて、ちゃんと勉強しようと龍谷大学に行くことにしました。

仏教は”成分説明”より”味わい”から

——お寺に戻ってからは、音楽は辞めてしまわれたんですか?

同じ頃に、仏典を読んでいると「音楽や舞踏のようなこの世の享楽に携わっていてはダメだ」というくだりがあったんです。最初はくそまじめにその言葉が入ってきたんでしょうね。「そうか、仏道を求めるならギター何か弾いている場合じゃない」と思って封印しました。

大学でもあり得ないくらい真面目でしたよ。「静かにしろよ。勉強できないじゃないか!」みたいな感じで(笑)。夜間主コースだったので、昼にお寺のお勤めをし、夜は大学に通って必死で勉強していました。

でも、僕が本当に望んでいたのは、「この身は本当に許されるのか」「魂の救済はあるのか」という問いの答えを知ることでした。ところが、周りにいるお坊さん候補の学生仲間は、確たる発心もなく「大学を出たら、お説教をしないといけないから勉強しているんだ」みたいなことを言う人が多い。先生方ならと思って、「本当に救われるって何ですか?」「先生は救われているんですか?」と問いかけてみましたが、ご自身の信仰から答えようとしてくださる方には出会えませんでした。しかも、大学のほとんどの講義では、仏教の味わいよりも成分説明ばかりをしているんですよね。

——仏教の成分説明、ですか?

たとえば「このラーメンがウマい!」と本気で伝えるには、まず自分が味わっていないと言えませんよね。「ラーメンの成分構成はどうなっていて、歴史は……」という話ではおいしさは伝わらない。

それと同じで、自分にとって仏教がなぜ意味があるのかを問わずして、その教えも伝わらないと思うんです。なぜ、仏教や浄土真宗の教えがおとぎ話のように扱われてしまうのかという理由は、そういうところにあると思いますね。

「話す」より「聴く」お坊さんへ

——大学では「浄土真宗における『聞』についての考察」という論文を書かれたそうですね。聞法を重んじる浄土真宗のお坊さんは法話の練習を熱心にされるという印象があります。どうして、藤岡さんは「話す」より「聴く」ほうに先に関心を持たれたのでしょう。

藤岡さんに影響を与えた書籍

大学で『伝道学』という講義で出会った先生がきっかけでした。『伝道学』は、お寺でどういう布教をしていくかを勉強するはずだったんですけど、その先生が教える内容は西光義敞先生が創始した”真宗カウンセリング”が中心で、そこで「聴く」ことに関心を持つようになりました。

あるとき講義の終わりに提出する感想に、「檀家のおばあちゃんの悩みをただ聞くしかできないのが悔しい。おばあちゃんに何をしてあげられるかを学びたい」と書いたら、先生が「どうするかは、おばあちゃんが決めることですよね」とポツリとおっしゃって。それを聞いて、僕は雷が落ちたような衝撃を受けました。「決定はその人自身がする」ということに人間の尊厳を感じたんですね。

法を説いて人に何かをしてあげるとか、お坊さんがちょっと偉くてがんばるんだとか、そういう仏教のイメージがガラッと崩れて、ずいぶんものの見方が変わりました。浄土真宗では、お坊さんであってもなくても等しく教えを聞かせていただかなければならないし、何をどう聞くのかを大切にします。真宗カウンセリングでは、「まずは自分が聴く」ということを大前提として考えます。

——じゃあ、「聴く」ということへの入り口はその授業から?

そうです。また、その先生は僕の問いにもご自身の信仰からきちんと応えてくださいました。たとえば、「親鸞聖人は『南無阿弥陀仏を信じたら、疑いの心がなくなって闇が晴れる』と書いていますが本当でしょうか?」と質問すると、はっきりと「晴れます」と答えてくださったりね。しかも「書いてあるから」ではなく「僕も晴れたから、本当ですよ」と言われるんですよ。実際に救われている人がいるなら、僕が救われることも不可能ではないかもしれないとワクワクしました。

西光先生は、仏教とカウンセリングの関係性を一生かけて研究されましたが、僕自身もずっと関わるなかでカウンセリングの「聴く」と浄土真宗の「聞く」はすごくリンクするなと実感しています。

——どういうところがリンクしているのでしょう。

たとえば、カウンセリングでは、自分を挟まずに相手の言葉をそのまま聴いて、決して言い換えないというトレーニングから入ります。相手が「こんなことがあって悔しい」と言われたら、「こんなことがあって悔しい」とそのまま聴かなければいけません。自分のなかに「そんなことぐらいで悔しいの?」という判断や、「なんとかしてあげよう」という思いが出てきてしまうと、相手をそのまま「聴く」ことができなくなるからです。

法を「聞く」ことにおいても、「そんなこと信じられないな」と思ったり、自分の都合のいいところだけ「その通りだ!」と思ったりと、自分の理解に収まるものだけを求めてしまいがちです。でも、自分の都合や自分の思い描いているものを完成させるために法を「聞く」わけではないから、たとえ信じられない話であっても、やはり自分を置いておいて聞き続けないとしょうがないんですね。

火に触れたように「わかる」とは?

——仏教では「聞思修」というプロセスで智慧を得ると考えるそうですが、浄土真宗では「聞いた」教えをどのように「思い」「修める」のでしょうか?

古今山 楷定寺 江戸時代から続く地域のお寺

浄土真宗では「聞思修」というプロセスを取らないんです。基本的には、どんな人にもわかるような言葉で説かれる「仏とは何か」ということを聞きながら、自分という器を空っぽにして「聞即信」という状態を作ることを大切にします。この器のなかに自分の気持ちという不純物が入っていると、仏さまの教えや御慈悲が入って来ても「教えそのもの」を聞くことができないんです。

——仮に、聞く側が空っぽであったとしても、お坊さんが「阿弥陀仏50%、お坊さん50%」で説いていたらどうなるんでしょう?

仏さまの心はひとつだから、誰が話しても同じなんです。お坊さんが話しても、子どもが話したとしても。ただ、聞く側が「どう聞いているのか」が問われるのであって。たとえば、「親は子どもがどんなに悪いことをしても見放さない」という話を聞くとき、本当にそのような体験をした人であれば、信じるも信じないもなく親の心が「わかる」と思います。教えについても同じで、ただ火に触れたように「わかる」という聞き方を「聞即信」というんですね。

「聴く」ことの難しさ

——そうなると、法話をされる場において、話す側だけでなく「聞く」側の在り方も重要になってきますね。

藤岡さんの輪袈裟とお数珠

 

そうですね。「人の話なんて誰でも聴けるよ」って最初はみんな思うのですが、カウンセリングを通して学ぶことによって、自分がどれだけ人の話を聴けていないかを実感できます。自分の感情や判断、性質など、何が邪魔をしているのかをひとつずつ気づいていけますから。間違いがわかるということは正しいことに触れているということなので、逆説的に真理に出会っていけるんですね。浄土真宗は、積み重ねてわかっていくというよりは、自分の間違いを通して法に触れて行くということが特徴なんです。それには、カウンセリングを通して学ぶのがすごく合っていると思います。

——藤岡さんご自身は、カウンセリングを通して「空っぽになる」方法を見つけていかれたのですか?

禅問答のようですが、むしろ「空っぽになれない」ということに気づいていくんですね。それによって、自分が話すときに、聞いている方の居場所や感じ、何を聞こうとしておられるのかにも配慮するようになります。もし、相手に寄り添いながら説くことができるなら、語らせていただくことができるかもしれない。そういった関係性が成り立っていないのに、何を話しても届きませんから。お互いに「聞き合う」ことによって、聞き間違いに気づくことでもいいんです。

——真宗カウンセリングは藤岡さんの中心軸なんですね。

そうですね。また、真宗と言う枠を外してみたり、カウンセリング以外のことにも視野を広げています。なかには浄土真宗の話を聞きたくないという方もいらっしゃるし、いろんな方と接点を持てるようになりたいので。

——お坊さんという立場の枠を外すことさえある?

はい。「お坊さん」もひとつの役割だし仮面であるから、その立場さえ外してしまうこともあります。僕はそれがすごく好きなんです。役割を負うからこそ人は耳を傾けてくれるのですが、役割にとどまる限りはその人自身とは出会えません。僕は「誰でもない自分」としてそこにいる時間も大切にしたいと思っています。

新しい法事スタイルの試み

——カウンセリングやファシリテーションの方法論は、お寺にも還流してくるのでしょうか。

そうですね。ここ数年は信頼関係ができてきたご門徒さん(お檀家さん)と、輪になって座る新しいスタイルの法事も始めています。まず、みなさんが部屋に入ってくると「この空間を意識しましょう。今からここは特別な場所になります」という導入をするんです。今まで、そんなお坊さんはいませんから「何だこの人は?」という雰囲気になります。

それから、どういうお経の順序があるのかを説明して、たとえば「このお経では『お釈迦さまにこの部屋に入って来てください』と言いながら花を撒く(散華)んですよ」と、ビジュアル的なイメージを共有したり、かなり長い時間をかけて法事の意味を話していきます。休憩をはさんでゲームでほぐれた後に後半のお勤めをして法話。終わりに、みなさんに語ってもらう時間を持ちます。一般的な法事の2倍近い時間がかかりますが、「みんなが参加していて面白いな」っていう雰囲気になりますよ。

時間がないときは「おじいちゃんってどんな人でしたか?」と一言ずつでも聴かせていただくなど、声を出すことで今の自分を感じてもらうだけで全然違ってきます。

——そういった法事のやり方を他のお坊さんとも共有できるといいかもしれませんね。

そうですね。そういった意味でも、お坊さん同士で情報交換ができるグループを持ちたいですねえ。また、お坊さんは世間の期待を背負うことで本音が言えなくなり、しんどい思いをしたり悩んでいることも多いです。僕はカウンセリングが専門ですから、お坊さんの悩みを聴き合うグループを作りたいと考えています。『彼岸寺』の松本さんが著書で書かれた『住職の学校』というアイデアが実現するなら、賛同しつつその動きのなかに場を持てたらいいかもしれないとも思いますね。

——音楽についても、今後はお坊さんの活動と重ねていかれるのでしょうか。

理想としては、琵琶法師みたいにということも考えていますが、まだそれは少し先になりそうです。今は、ワークショップにおける”ミュージシャン”という役割をすることがあって、人の話のためでもなく自分のやりたいことのためでもない、そこにある「場(存在)」にささげるような音の出し方ができるのがすごく新鮮で。きっと法話でも、こんな風に話ができるときが一番自然なんだろうなと思います。

——場のためのミュージシャンであり、お坊さんという風に一致してきている?

ああ、一致してきているのかもしれませんね。そこが一致すれば、本当にうれしいことだなあと思いますし、だんだんそこに近づいている感じもあります。

——藤岡さんの今後の動きがとても楽しみです。ありがとうございました!

坊主めくりアンケート


1)好きな音楽(ミュージシャン)を教えてください。特定のアルバムなどがあれば、そのタイトルもお願いします。

昔はハードロック。それからU2とかThe Mission UKとかにはかなりはまりました。
Johann Sebastian Bach, Michael Hedges, Pierre Bensusan, Django Reinhardt, Keith Jarrett, Miles Dewey Davis, and more…。今はアコースティックソロギターものとか、環境音楽系を好んでます。得度して最近まで音楽を聴くこともしなかったので近年の音楽シーンがわかりません(笑)。

2)好きな映画があれば教えてください。特に好きなシーンなどがあれば、かんたんな説明をお願いします。

うーん、いろいろあるんですが…。では『蛍の墓』にします。思い出すだけで泣けます。

3)影響を受けたと思われる本、好きな本があれば教えてください。

サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

4)好きなスポーツはありますか? またスポーツされることはありますか?

野球とサッカーをやってました。今はランニングくらいかな。

5)好きな料理・食べ物はなんですか?

お子ちゃま系全般。(例:ハンバーグ・スパゲティ・エビフライ等)

6)趣味・特技があれば教えてください。

ギター演奏。作曲。合気道。

7)苦手だなぁと思われることはなんですか?

人間関係。時間厳守。常識。暗黙のルール。権威。

8)旅行してみたい場所、国があれば教えてください。

行ったことない場所すべて。

9)子供のころの夢、なりたかった職業があれば教えてください。

スター☆

10)尊敬している人がいれば教えてください。

人は誰しも尊敬すべき存在であることに気づいた時、目の前にいる人を、その瞬間だけ尊敬していることに気づくことがあります。

11)学生時代のクラブ・サークル活動では何をされていましたか?

高校は軽音部。大学は求道部(ないけど)。

12)アルバイトされたことはありますか? あればその内容も教えてください。

寿司屋・ガソリンスタンド・テイッシュ配り・皿洗い・テレクラ・ラブホテルの風呂洗い・ダイアルQ2のさくらの管理・宅配・サーキットの旗振り・駐車場の誘導・ペットショップ・工場・産地直送路上販売・給食屋さん・うどん屋・配送・中華料理屋・テキ屋・倉庫管理・広告屋など。

13)(お坊さんなのに)どうしてもやめられないことがあればこっそり教えてください。

【Sex, Drugs & Rock’n’ Roll】的なもの。。。

14)休みの日はありますか? もしあれば、休みの日はどんな風に過ごされていますか?

お坊さんて休みの日ってあるんですか?(欲しい気もする)。時間のある日は研修行ったり、ワークショップ行ったり、海とか山とか、建築鑑賞とか芸術鑑賞とか、そういう栄養補給をしています。もしくは寝ています。

15)1ヶ月以上の長いお休みが取れたら何をしたいですか?

旅行!もしくは違う職業を体験したい。

16)座右の銘にしている言葉があれば教えてください。

「つねに・すでに」

17)前世では何をしていたと思われますか? また生まれ変わったら何になりたいですか?

前世が見えるというオバちゃん曰く「中国で導師」をやっていたとか。同じく前世が見えるというネエちゃん曰く「平安時代に橋の下で物乞いをしていた」とか。いろいろやってるらしいです。知らんけど(笑)。
生まれ変わり? 無意識的に輪廻するのは今生でもう終わり。
18)他のお坊さんに聞いてみたい質問があれば教えてください。(次のインタビューで聞いてみます)

「愚問ですが、もし欲しいだけ資金が与えられるとしたら、それをどう生かしますか?」

19)前のお坊さんからの質問です。「あなたにとって、あるいは所属宗派にとって、「尼さん」とはどういう存在ですか?」

私どもの浄土真宗では尼さんは珍しくありません(出家仏教でないので)。尼さんという呼び方もありません。女性住職もたくさんおられますし、女性布教使さんもおられます。しかし、他宗派の剃髪された女性僧侶をお見かけすると、ハっとします。そういう意味で「尼さん」というのは現代にあって、非日常、非世俗的な印象を人々にあたえる希有な存在であると感じています。

プロフィール

藤岡延樹/ふじおかえんじゅ
http://enju.xxxxxxxx.jp/
1970年生まれ。浄土真宗本願寺派楷定寺副住職。龍谷大学大学院文学研究科博士前期課程修了。修士(文学)。ミュージシャンとして20代を送った後、25歳のとき帰山して得度。龍谷大学で仏教学(真宗学専攻)を学ぶなかで西光義敞師が提唱する真宗カウンセリング(DPA)に出会い、カウンセリングや心理学を幅広く研究。2005年、真宗カウンセリングを共に学ぶ仲間と『Re:Vision!』を設立し代表に。現在は、お寺の法務の合間を縫って、心理カウンセラー養成講座の講師、プレイバックシアターやファミリーコンスタレーションの場におけるミュージシャンや、『Re:Vision!』で開催する非構成エンカウンターグループのファシリテーターを務める。
浄土真宗本願寺派 古今山楷定寺
江戸時代中期の元文年間(1736?1740年)陽柳法師による創建と伝えられる。現在の本堂は、江戸時代後期の文化十年(1813年)に建立。本尊の阿弥陀如来立像は、江戸時代に制作された高さ61.5?の寄木造り。境内には江戸時代後期の天明二年(1782年)に起こった農民一揆の「千原騒動」の指導者、土井忠兵衛の墓が残り、墓石には忠兵衛の威徳を讃え「その真心は末の世のいしふみに咲く、うもれ木の花」という詩が刻まれる。毎年1月9日には忠兵衛を偲ぶ法要が今も執り行われている。

大阪府高石市取石2丁目24-11

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。