彼岸寺読者の皆さまいかがお過ごしでしょうか。新型コロナウイルスの流行で、仏教界でも多くの行事が延期や中止を余儀なくされるなどの影響が出ています。また、地域によっては週末の外出自粛要請が出される地域があるなど、ピリピリした雰囲気や閉塞感、不安などを感じておられる方も多いことでしょう。私たちの日常が侵食され、当たり前にあったものが決して当たり前ではなかったと改めて気付かされた思いがします。
一方、家にいる時間が増え、読書をすることが増えた方も多いかもしれません。そんな方のために、彼岸寺ではご縁のあるお坊さんたちにお願いをしまして、オススメの本を紹介していただくこととなりました。
ご紹介する本を通して、ほんの少しでも心が安らいだり、新しい気づきを得たり、大切なことを学んだり、そして、仏教の教えにも出会ってもらえたら。そんな思いで、短期間ではありますが、続けていきたいと思います。
まずはこの企画を言い出した私から。それではお付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。
4月から小学校に通う長男は恐竜が大好き。最近では恐竜だけではなく、いろんな生き物にも興味があるらしく、一番好きなテレビ番組はNHKの「ダーウィンが来た」で、他にも「池の水ぜんぶ抜く」や生物が出てくる番組はどれもお気に入りになっています。そんな長男の影響で、我が家には生物ブームが到来中。私も長男と一緒になって、生き物にまつわるテレビ番組を楽しんでいます。
そんな中で出会ったのが、今回ご紹介する稲垣栄洋著『生き物の死にざま』という一冊です。タイトルの通り、昆虫や動物の「死」にスポットを当てたエッセイとなっています。生き物の生態や特徴について書かれる本はたくさんありますが、その「死」に注目した点に、僧侶としても興味をそそられ手にしたのですが、そこに綴られていたのは、「死にざま」を通した生物たちの「生きざま」でした。
この本を読みながら、私は2つのことを思い起こしました。一つはお釈迦さまがブッダとなる前の王子時代のエピソード。出家をされる以前、まだ少年だったシッダールタ王子が、農耕祭が行われている時に、土の中から出てきた虫を小鳥が食べ、そしてその小鳥を大きな鳥が食べる姿を見、その弱肉強食の有様に愕然とし、物思いに耽る逸話です。もうすぐ「花まつり」ですが、そこで語られるお釈迦さまの物語には、よく登場する物語の一つでもあります。
生物たちの「生きざま」と「死にざま」は、この弱肉強食による食物連鎖というシステムに多大なる影響を受けています。そのシステム、つまり「死」に抗いながら子孫を残すことこそが彼らの生存戦略であり、それがそのまま「生きざま」となっていきます。もちろん、生物にとって「死の縁」は様々にあり、道半ばで息絶えていく命もたくさんありますが、それすら決して無意味なことではなく、仲間の死の上に成り立つ生もあることも見えてきます。シッダールタ王子が嘆いた弱肉強食というあり方が、むしろ生物の多様性や、様々な「生きざま」を生み出してきたとも言えるかもしれません。
さらに、強者であっても死は等しく訪れます。人間、そして私もまた例外ではありません。今、新型コロナウイルスが私たちを脅かしていますが、これだけ騒がれるのは、どこかで「死の縁」が感じられ、その恐怖の表れであるとも受け取れそうです。
そしてもう一つは〈「蟪蛄(けいこ)は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや〉と言う言葉です。これは中国の曇鸞大師の『浄土論』という書に出てくるのですが、「蟪蛄」とはセミのこと。夏しか生きることができないセミは他の季節があることを知りません。ならばこの虫は、本当に夏(=朱陽の節)を知っていることになるのだろうか?と、私たちに問うています。
春や秋があることを知らないセミは、当然自分がいる季節が夏だと認識してはいないでしょう。なぜならば、その季節しか知らないからです。他の季節を知ることなしには、本当の意味で自分の生きている「今ここ」を知ることにはならない、そんなことをこの言葉は教えてくれています。
ですから、このセミに喩えられているのは、実は私の姿なのです。私は、まるで自分のこの人間の境涯を全て知っているかのように振る舞いながら生きています。しかし自分がどこから来て、どこに向かっている存在なのか、何のためにここに生まれ、生きて、死を迎えなければならないのか、まったくもって理解することなく、漫然と生きています。セミと対して変わらないのが、私の有様なのです。
この本の最後には「ゾウ」の「死にざま」が紹介されています。ゾウの姿からは、仲間の死を悼むような行動が見られるため、もしかするとゾウは死を理解しているのかもしれない、と書かれてありました。もちろん、ゾウが本当に死を理解しているかどうかはわかりません。けれど、そこにはこんなことが問いかけられていました。
私たち人間は「死」を理解しているのだろうか?
様々な「死にざま」を見つめることでより生き物たちの「生きざま」がより鮮やかに浮き彫りにされていくように、自分の「死」を見つめていくことで、私の「生」の意義も見えてくるのではないか。そんなことを改めて感じる一冊でした。