「文壇があるなら『仏壇』があってもいい」新潮社新書編集部 金寿煥さんインタビュー(1/2)

「新潮社に面白い仏教書を手がける編集者の方がおられるんですが、彼がね『文壇ならぬ仏壇を!盛り上げましょう』と言うんですよ」。

新潮社 新書編集部の金寿煥(きむ・すはん)さんのお名前を聞いたのは2年前、釈徹宗先生からである。新潮新書のひねりの効いた仏教書ラインナップ、『考える人』の仏教特集の影にこの人あり、というのが金さんだという。私もよく「なぜお坊さんインタビューを?」と聞かれるけれど、金さんはどうしてまた仏教の本を作るようになったんだろう? 素朴な疑問を携えて、”仏壇編集者”に会いに行くことにした。

文学界に”文壇”、仏教界には”仏壇”!?

一般的に、「仏壇」といえば、家庭にある仏さまを祀る”厨子”であり、ご先祖様のご位牌を納める祭壇。つまり、いわゆる「お仏壇」である。ゆるぎないイメージをものともせず、「仏壇」という言葉に新しい意味を吹き込もうとするなんて、はっきり言って力技だ。まずは、「仏教界には仏壇を」と思いついたときのことを聴いてみた。

——「仏教界には仏壇を」というのは金さんが考えられたんですか?

たぶん、僕だと思うんですけど(笑)。?仏壇″という言葉がひらめいたのは、2009年頃でしょうか。釈徹宗さんと「10年前に比べると、仏教をテーマにした本が増え、書店の仏教書の棚に並ぶ本も変わりましたね」なんて会話をしていて、ある日ひらめいたんです。文壇や論壇があって、演劇には演壇、絵画には画壇、俳句には俳壇がある。それぞれ人的集合やそれにまつわる言説空間を「壇」と呼んでいるわけで、それだったら、「”仏壇″があってもいいんじゃないか」って。そう釈さんに言ったら、「それは面白いですよ、金さん」とウケてくれたんですよ。「じゃあ、一緒に盛り上げましょう」と半ば冗談で言ったのを、釈さんが面白がってあちこちで話してくれたみたいです。

——私も釈先生が楽しそうに話すのを2回くらい聞きました(笑)。

さらに、「恐山の禅僧」南直哉さんに話したら、南さんもウケた。「これはいけるかもしれない」と調子に乗って、お坊さん以外の人にも「これからは?仏壇″ですよ」と吹きまくってたんです。でも、今年2月に阿佐ヶ谷ロフトで行われた「仏教書ナイト」に出たときに言ったら「しーん」となっちゃったし、特に他で言っている人もいないので、僕と釈さんの間で流行っているだけかもしれません(笑)。

?仏壇″という言葉をはじめて活字にのせたのは、『考える人』という雑誌の特集「考える仏教 『仏壇』を遠く離れて」(2011年春号)です。こっちは満を持して、という感じだったのですが、あまり反応はなくて寂しく思っています(笑)。

永平寺で”眼光鋭い禅僧”と出会う

1999年に新潮社に入社した金さんは、『FOCUS』編集部を経て2002年に単行本の部署へ異動。前任者からの引き継ぎで、梅原猛氏が京都の寺社の縁起などを綴る『京都発見』シリーズを手がけたのが、はじめての”仏教関連書籍”だったという。金さんが自ら企画して仏教書を作るきっかけになる出会いは、『考える人』の特集企画のために訪れた永平寺で待ち受けていた。

——そもそも、仏教の本を作りはじめたきっかけは何だったんですか?

きっかけと言えるのは、2003年の『考える人』特集「からだに訊く」でしょうか。そこでまだ永平寺にいた南直哉さんと出会ったのです。
身体性について考えるという特集だったのですが、その編集会議で「身体技法として坐禅は外せない。誰か永平寺で体験してこい」と。イヤな予感がしていたら、案の定、一番若い僕に白羽の矢が立った。ホントにイヤだったんですよ、坐禅は。なぜかと言うと、大学3年生のGWに鎌倉の円覚寺で行われた4泊5日の学生坐禅会に参加して懲りてたんです。

予備知識もなく甘い気持ちで飛び込んだのですが、いきなり一時間以上も正座。そこでもう帰ろうと思った(笑)。想像以上に、本気の坐禅会でした。一日中怒鳴られて、身体も硬く体重もあるのでとにかく坐るのがしんどかった。それなりにやり遂げた達成感はありましたが、「坐禅なんて二度とやりたくない!」と誓ったんです。だから、社会人になってまた坐禅をさせられることになって……、気が重かったんです。

なぜ永平寺だったかというと、当時の編集長が「南直哉さんというすごい人がいるから」と。それで南さんを訪ねるかたちになったんです。永平寺に行ったのは2月の寒い頃。1泊2日の坐禅体験の後、南さんにじっくりお話を聞いたのですが、これが大迫力。長身痩躯で、ものすごくキリッとしていて、眼光鋭く、しかも話す言葉は明晰。「こんなお坊さんがいるのか」とビックリしたし、とにかく圧倒されました。

——では、最初に衝撃を受けられた仏教者は南さんだったんですね。

そうです。最初が南さんだったのは強烈でしたし、今もその影響を受けていると思います。あんな人はなかなかいないですよね。お坊さんでも、お坊さんじゃなくても。南さんにいきなりぶつかったことによって、その後の方向性もある程度決定づけられた気がしますね。

南さんはちょうどその後、19年間の永平寺での修行を終えて、東京にいらっしゃってたんです。しばらくしてから「あの時のお礼を兼ねて」とお会いして、「何か書いてほしい」とお願いしてできたのが『老師と少年』という本です。南さんは最初「自分なりのお経を書きたい」とおっしゃられたのですが、言われたこちらの頭の中は「???」で、「漢字ばかりの原稿になるのかなあ。大丈夫かなあ」なんてアホなことを思っていました。結局、2006年に刊行されるまで3年近くかかりましたが、今でも思い出深い大切な一冊です(後編に続く)。

金寿煥(きむ・すはん)
1976年神奈川県生まれ。99年、新潮社入社。「FOCUS」編集部を経て、2002年から書籍編集部門に。現在は、「新潮新書」編集部に在籍しながら、「考える人」や単行本の編集もてがける。

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。