ITビジネスマン、寺業計画書を破り捨てる

みなさま、彼岸寺にようこそお参りくださいました。松島靖朗です。
久しぶりに彼岸寺で過ごすことになりました。どうぞよろしくお願い致します。

それにしても彼岸寺。ずいぶんと伽藍整備が進みましたね。僕が修行をしていた10年前と比べると、また違ったお寺のように感じます。若いお坊さんや仏教にご縁のある方々が、自分には思いもつかない発想でそれぞれに修行に励まれているお姿が尊くもあり、微笑ましくもあり。

なにより、こうして以前と変わらず、たくさんの方がお参りくださることがとてもありがたいですね。お寺をお守りくださる皆さまにも感謝です。

2008年からの10年

2008年ごろ、「ITビジネスマンの寺業計画書」というブログを連載しながら、彼岸寺の運営にも関わっていました。インド留学から日本に戻ってきた松本さんと「未来の住職塾」を立ち上げ、その運営母体となる一般社団法人お寺の未来という法人の立ち上げ(現在は理事も退任しています)、現在は奈良のお寺の住職として、念仏修業の日々を送っています。

なんともありがたい毎日を送っています。ある日の法話でこんな話をしました。

昔々あるところに「お日さま」と「お月さま」と「雷さま」がおられました。普段は仕事が忙しく、なかなか会うことのできない三人、たまたまお休みが重なったので、ひさしぶりにゆっくりと日頃の疲れを癒そうと温泉旅行にいかれました。美味しいご飯を召し上がり、源泉かけ流しの温泉に浸かり「あ〜極楽や〜」と。あっという間に楽しい時間は過ぎていきました。

翌朝、名残惜しいけど、それぞれにお仕事がありますから出発の時間でございます。「雷さま」がなかなか起きて来ないので、「お日さま」と「お月さま」は先に宿を立つことにしました。

お昼前になってようやく起きてきた「雷さま」は、宿の主人に二人が朝早くに出発してしまったことを聞かされます。

あいかわらず「月日の経つのは早いなぁ」

 

35歳でお坊さんになって早8年、住職になって早5年です。彼岸寺を下りてからも5年が経ちました。ほんとに「月日が経つのは早いなぁ」。おじいちゃんおばあちゃんとお話していると、「住職、歳を取ると一年が早いですわ」という台詞をよく聞きます。

10歳のときの1年は人生の十分の一、50歳の1年は人生のご十分の一、80歳の1年は人生の八十分の1、そう考えると1年の感じ方も早くなっていくのかもしれません。
百歳になったら一年なんてどんな風に感じるでしょうかね。

僕の幼少時代は、こんな苦しみ、いつまで続くんや・・・とそれはそれは毎日が長くて辛い時間が流れていました。

1990年の出来事

「あなたはお寺の子なんだから」「将来はお坊さんになるんやから」と自分ではなく、自分が生まれた環境や引かれたレールのことばかりが話題に上る毎日。幼少時代、お寺での生活は自分にとって苦しみでしかありませんでした。

「仏教ってしんどい修行をする教えなの?」「お寺ってこんなに嫌な思いをする場所なの?」だれもその疑問に答えてくれる人はいませんでした。いや、自分と同じようにそんなことを感じている人が自分の周りには居なかったように感じていました。一人でもんもんと過ごす中で、そんな葛藤に自ら終止符を打とうとある決断をしたお話をします。

もう四半世紀以上前のことです。4月に入学した高校を2週間で退学しました。いまでも毎年5月の大型連休がやってくると、すっかり腑抜け状態になっていた自分を思い出します。学校がなくなり、家(というかお寺)にも居場所がなくなり、人生はやくも詰まったな〜と、ひとり屋根の上で父親のタバコをくすねて吸っていました。

おそらく「お寺の長男に生まれたことをこじらせたランキング」(ぜひ彼岸寺でやってほしいですね)があったらベスト10ぐらいには入るんじゃないか、と思えるほどにしんどかったのが15歳のこの頃です。

いよいよ追い込まれ、逃げ込んだお寺の本堂の屋根は本当に高くて、そこから眺めたお墓の景色は強烈でした。お墓だからまあいいのか?と自分が今置かれている状況から逃れるための楽な方法を思いつきました。でも、できませんでした。

きっと空を飛ぶほど追い込まれていたり、あるいはそれだけの覚悟はなかったのでしょう。自分のことを思ってくれる人たちが悲しむのはなんだか嫌だな、という気持ちがギリギリのところで踏みとどませてくれたのでした。

本堂の屋根の下には仏さまがいてくれて、(今でも変わらず御本尊さまとして導いてくれている仏さまです)今となっては、仏さまに救ってもらったんだ〜と思えるまでに自分の信仰が進んでいます。仏縁とは不思議なものです。

高校をやめて、ある意味自由になったわけですが、まだ15歳。なにもできません。右往左往の日々が始まりました。その頃からいろいろなものがズレていく人生を送ることになりましたが、こうしてなんとかやっていけているんだから世の中捨てたもんじゃないな、人生いろいろあるもんだなぁと我が人生を冷静に振り返る余裕が出てきました。

また追々、お話していきたいと思いますが「信仰」や「救い」には時差があるなぁとつくづく感じます。「あのときのあれば、そういうことやったんや〜」というやつですね。仏さまはいつでも自分のことを見守ってくれているのは理屈ではわかるんだけど、しんどいとき、周りが見えなくなっているとき、自分の思い通りにしたいとき、そんなことは忘れてしまっています。そのときには気づかなかったけど、少し時間を置いて冷静に見てみると、いろいろなご縁に導かれて今こうして地に足をつけて立てている。「ああ、自分は救われていたんだなぁ」と。

仏さまの救いは、いつでも、どこでも、だけど、こちら側はそれに気づけない、そんなことにかまっている余裕がない。そんな時差、悟りを開いたものと煩悩まみれの僕たちの能力の差といってもいいかもしれません。

2018年 コンパッションな日々

住職として、ご縁のある人々を極楽浄土へとお送りしました。「おてらおやつクラブ」という活動を通じて、それまでは想像していなかった貧困の現場に出遭いました。いろいろな役回りで出遭うさまざまな苦しみのなかには、今も解決できずに様々な形で折り合いの付け方を探しているものもあります。

「苦しみから逃れる教え」によって「苦しみ」のない日々を過ごしているかというと、残念ながらそんなうまい話はありません。

現代社会にはたくさんの苦しみがあります。思いもよらぬ苦しみに出遭います。もう生きていくのがしんどいほどに、苦しい時があります。苦しみはひとそれぞれ。同じような出来事でも、人によっては一日寝れば忘れてしまうようなこともあれば、乗り越えられないほどの苦しみに感じることもあります。

人は、たくさんの苦しみと出会い、その苦しみと向き合う日々を過ごしています。

「苦しみ」にうまい「答え」を示すことができないけどこれでいいんだろうか?と落ち込んだこともありました。でも最近はこんなふうに考えるようになりました。

うまい「答え」を見つけようとすると、それは「仏さまの教え」ではなく、「自分の教え」になってしまう。「苦しみ」を抱えながら、その「苦しみ」とどのように折り合いをつけ生きていくのか?という「問い」が大事なんだ。「問い」をもちながら、世の中にある苦しみと共にあること、共苦(コンパッション)するのが坊さんの役目なんだと。

先日「おてらおやつクラブ」にと、お父さまが「お子さまの遺品」を寄贈してくださいました。

電子辞書やペン、ノート、消しゴムなど。そのなかに彫刻刀で削られた鉛筆がありました。お父さまがお子さまのために削られたのか、亡くなったお子さまが自分で削ったのか。この鉛筆で何を書いてほしかったのか。この鉛筆で何を書きたかったのか。

これからこの鉛筆を使うのは誰でしょう。この鉛筆を持った人はなにを書くのでしょう。

お寺はこのようにいろいろな方の思いがつまったお供え物が託される場所でもあります。この鉛筆を眺めながら、自分もこれから何かを書かねば。自分にしか書けないことを書きたい。そんなふうに思うようになりました。

冒頭の「お日さま」と「お月さま」と「雷さま」のお話にはこんなオチがあります。

宿のご主人、ところで「雷さま」はいつたたれるんですか?

「そうやなぁ、わしはもうちょっとゆっくりして夕立にしよう」

お坊さんとして生きていく日々の中で、阿弥陀さまという仏さまに救われた自分の体験をぼちぼち書いていこうと思います。自分の信仰は、とてもとてもおぼつかないものですが、だれかがかかえる苦しみと共にあるために。それがこの鉛筆を託されたお坊さんの役目だと感じるからです。

大丈夫。大丈夫。あみださんといっしょ。どうぞよろしゅう。

2018/05/26 合掌 南無阿弥陀佛 松島靖朗拝