まだ私が仏教を学び始めた時のこと。どうしても理解できないというか、躓いてしまう事がありました。それは「非有非無」という考え方。私たちの存在は「有るのでもなく、無いのでもない」ということを表す言葉ですが、このことがどうしても釈然としませんでした。
特に私が納得がいかなかったのが、「非有」ということ。なぜならば、私は現に今ここに「ある」と感じているからです。呼吸をし、思考し、目で物を見、耳に音を聞き、手に触れたものを感じている。にもかかわらず、「有るのではない」というのは、どういうことなのだろうか。それがどうしてもわかりませんでした。
しかし、仏教の考える「有る」ということは、私の思う「ある」ということと、一線を画すものでした。私の思う「ある」というのは、まさに私がここにいる、とか、リンゴがそこにある、ということです。しかし仏教の「有る」というのは、ただそこに存在している、ということを指すのではありません「ある」ということをとことんまで突き詰めた「有る」なのです。
どういうことか、と言えば、「有る」ということは、まず決して変化しません。わずかでも変化するのであれば、それは「有る」とは認められないのです。そして「有る」ということは、関係性に依らない、ということでもあります。関係性に依らない、ということは、それそのものが、周囲の物事の影響を全く受け付けず、それ単独で存在し得る、ということになります。そして、「有る」ということは、その存在の全てを支配し、完全にコントロールし得る、ということ。
これら3つの条件を合わせて「常一主宰(じょういつしゅさい)」と言います。これらを全て満たすものが、仏教において「有る」と言えるものになります。
それでは私はどうでしょうか。体は細胞レベルでも常に変化していますし、思考や感情は、その時々に、外部からの影響や自分の都合によって変わっていきます。また、両親や祖父母をはじめとした、縦軸の繋がりや、これまで自分が接してきた人との関わりの横軸によって、私という人間の今は作り上げられていることを思えば、関係性に依らずに「私」というものが存在することもないでしょう。そして自分の体も心も、常に自分の意志の通りに動かせるかと言えば、そうではありません。イメージ通りに体を動かすことはできないことの方が多いですし、脳内の作用や、感情、心臓の動きだってコントロールできません。そう考えると、私という存在は「有る」ということの条件を、一つも満たしていないことになります。
では、私たちが存在していること、「ある」ということは、一体どういうことなのか。それこそが、「非有非無」という在り方なのです。「有る」というわけではない。でも、「無い」というわけでもない。ここでいう「無い」というのも、とことんまで突き詰めた「無い」です。例えば私が死んだら「無い」ということになるのかといえば、そうでもない、ということ。確かに人間存在の私は、無くなったように見えるでしょう。しかし私がいたことが、何らか影響力を残し続けていく。「あった」ということは、無くなりません。それでは完全なる「無い」ということにならないのです。そうかと言って、「常一主宰」の魂のようなものが残るわけでもありません。ですから、仏教においては「非有非無」という言葉でしか、私の存在を表せないのです。
「有る」のでもなく、「無い」のでもない。私が「ある」というのは、そんな不思議な状態なのです。逆に言えば、いつ何時、その状態が終わってもおかしくないということ。そして、そういう不確かなものだからこそ、「私」というものに執着すべきではない。そう仏教の教えは展開していきます。
しかし、やはりそれが難しいのです。私が「非有」ということがどうしても理解できなかったのは、自分というものが間違いなく「ある」んだ、そうでなくては嫌なんだ、という、自分自身への強い執着があったからなのでしょうね。そしてまだまだその執着は根強く残っていて、こんなことを書きながらも、どこかで自分という存在が揺るぎないものだという思いも手放せずにいるわけですが…
皆さんは、この「非有非無」ということ、どのように感じられたでしょうか。