今回はノンテーマ!?最新のオススメ仏教関連書をピックアップ!

今回は特定のテーマを定めず、最近読んだ本をいくつかご紹介したいと思います。

もちろん、すべて仏教関係の本です。ただし、必ずしも仏教書ではないけれど、今後の仏教を考える上でためになりそうな本も、何冊か取り上げます。

そして、いずれも個人的にすごく面白いと感じた著作です。今回はテーマをしぼらない分、ただ本としての面白さだけを重視して選んでみました。

① 『仏教論争:「縁起」から本質を問う』 宮崎 哲弥 著

「評論家」を名乗る現代日本人のなかで、間違いなく最も仏教(学)に詳しい、宮崎哲弥氏。待望の書き下ろしの仏教論です。刊行を心待ちにしていました。これまでも対談本などで、氏の仏教に関する見解はおおむね知ることができましたが、遂に、その全貌がじっくりと語られはじめた感じです。

ただし、本書が扱う対象は、わりと限定されています。しかもかなりマニアック(笑)。戦前の東大の仏教学者である、木村泰賢と宇井伯寿のあいだで勃発した論争、その論争に参戦した和辻哲郎の仏教論、そして、この論争の延長上で戦後に行われた、仏教学者(三枝充悳ら)たちによる新たな論争が、おもな検討の対象です。

というわけで、きわめて高度なレベルの論述が展開されます。明らかに通常の新書のレベルではないです(笑)。ともあれ、おおむね3つくらいの点で、とても意義深い知見が示されています。(1)誤解されてきた戦前の仏教論争の根本的な見直し、(2)仏教学と同時代の思潮の関係の問い直し、(3)宮崎氏自身の独創的な仏教観の提示。それぞれ、簡単に紹介しましょう。

(1)従来、木村vs.宇井論争は、十二支縁起を時間的(一方向的な因果関係)にとらえるか、それとも空間的(双方向的な相関関係)にとらえるか、という論点を中心に戦われ、前者が木村で、後者が宇井、そして和辻はおおよそ宇井側に立ったと見なされてきました。

しかし、こうした見立ては大きな勘違いではないか、と宮崎氏は疑念を呈します。とりわけ、和辻の位置づけが間違っているのだと。和辻は、むしろ木村と近い縁起のとらえ方をしており、また、和辻を仏教の世俗合理的な解釈を進めた人物とする(仏教学者のあいだでよく見られる)通説も、まるで当たっていないとのことです。

和辻は、仏教学の専門家サークルではおおむね嫌われているわけですが、その嫌悪は業界の無反省な思い込みからきていることを、宮崎氏による検証は示しています。「仏教学者」としての和辻の復権が行われており(そうした意図はないと、宮崎氏は別のところで語っていますが)、これは、和辻哲郎という知の巨人の業績を見直す上でも、注目すべき仕事かと思います。

(2)戦前の仏教論争をつぶさに読み直すなか、宮崎氏は、木村や(一時期の)和辻の論説の背後に、「生命主義」が存在していたことを発見します。生命主義は、大正期以降にブームになった、生命の力を極端に(ときに宗教的な崇拝に近いかたちで)肯定的に語る思想です。その思想が、自らの実存をかけて仏教に向き合った木村の学問には濃厚に見て取れ、仏教学というやや浮世離れした学問も、世間の思潮からの影響を免れないことが明らかになります。

一方、戦後の仏教学者は、だんだんと象牙の塔にこもり、良くも悪くも、専門的な文献学のなかに自閉する傾向を強めました。これにより、世間の思潮からの影響は受けにくくなったのですが、別のところで問題が起こります。専門家たちが一般社会から離れ、狭いアカデミズムのなかに引きこもるなか、専門家の研究を無視してものすごく自由に解釈された「ポストモダン仏教」が、世間で人気を博していくのです。

その一つの帰結として、仏教をはじめとする既存の宗教を自由自在に再解釈し、悩める若者に支持されたオウム真理教が台頭したのではないか、と著者は指摘します。オウムとその隆盛の構造はなかなか複雑で、仏教(学)という観点からだけでは、もちろん説明し切れない部分が多々あります。けれど、一つの示唆深い見識を示していると思います。

(3)一般読者にとっては、この点が最も興味を引かれる部分ではないでしょうか。たとえば、宮崎氏による「無常」の語りです。無常は、概念でも命題でもなく、したがって、きちんとした定義や論証をすべきものではなく、「ただ私達の投げ込まれた状況であり、苦の根本因として現前しているだけ」である、と。やや実存主義っぽい話ですが、とにかく、無常は本来、議論すべきものではなく、個々人が生きるしかない絶対的な「事実」であり、そして、それを自覚することが「信仰」なのだと。実に魅力的な語り口です。

あるいは、世界的ベストセラー『サピエンス全史』を参照しつつ、仏教が目指すのは「生命進化への反逆」だとする意見など、非常に面白い。人類が進化の過程で獲得した「虚構」や言語は、人類の種としての繁栄をもたらした一方で、個の意識のなかに苦悩の種を植え付けた。そもそも言語がなければ、動物的な苦痛を超えた悩みは存在しえないわけです。ゆえに、言語を徹底的に批判し、さらに生存の持続からの脱却を目指す仏教は、人類という生命の進化を意図的に逆行させようとする、「反逆」の宗教なのです。

繰り返しになりますが、本書はかなりハイレベルな作品で、仏教研究者以外には、まともに読み通せなくて当たり前です(正直、評者も十分に理解できてません)。それでも、本書の随所で垣間見える、宮崎氏の仏教に対するガチな姿勢や、目の覚めるような見識がほんとうに素晴らしいので、是非、多くの方に読んでもらいたいと願います。

② 『感じて、ゆるす仏教』 藤田 一照×魚川 祐司 著

現代的なセンスの冴え渡る禅僧の藤田氏と、アラフォー仏教論客を代表する魚川氏(今後は仏教を主題とした著述からは手を引いていくとのことですが・・・)による対談本です。ということで、仏教本好きであれば当然、刊行後即読了の一冊です。

テーマは「感じて、ゆるす」で、これは「命令して、コントロールする」モードとは、正反対の仏教の実践の仕方とのこと。自分でがんばって、コツコツと坐禅や瞑想に取り組むのではなく、自然や仏の働きに身を任せ、宗教的な感性を磨きながら、「ゆるす」仏教の意義が語られます。

既存のボキャブラリーを使えば、これは「自力」より「他力」を重視する姿勢、と読めます。実際、藤田氏の話は、もっぱら道元が引用されはしますが、総じて浄土真宗っぽい理解になってます。それもそのはず、藤田氏は家庭(妻子)を持ちつつ仏道に生きる身で、その仏教理解が真宗的なのは理の必然、というか、暮らしの必然なわけです。

本書の前半は、そのような藤田氏の仏教理解が成立するに至った経緯が、彼の人生史にそって語られます。そのため、前半の魚川氏は聞き役的なポジションです。狭義の「出家」とは異なるかたちで、一般的な生活のなかで鍛えられていく仏教の思想とは何か。俗世間に埋没した単なる「堕落」にならないよう注意しつつ、解説されます。

後半では、だんだんと魚川氏の語りの量が増えていきます。藤田氏に大きな敬意と共感を示しつつ、一方で、疑問に感じる部分を徹底した理詰めの言葉で問うていきます。かくして、次第にやや論争的な趣向が強まっていき、対談本として、いよいよ面白さを増します。

特に、「感じて、ゆるす」のレリゴー感は、確かに「ガンバリズム」の慢心から人を解放しはするが、しかし「悟り」に至るのに肝要な反省的な意識から人を遠ざけもし、ヘタをすると「傾向性の奴隷」となる人を生んでしまうのではないかと、魚川氏は疑義を呈します。ゆえに、「感じて、ゆるす」を体得する前の、入口的な部分では、「ガンバリズム」の教えや修行的な営みも、大切なのではないか、と。

評者は魚川氏と近い年齢のせいか、彼の主張のほうにシンパシーを感じはしますが、それはさておき。ここで藤田氏の「ゆるす」系仏教に対して投げかけられる魚川氏の疑念は、歴史的に自力と他力のはざまで(あるいは禅の「頓悟」と「漸悟」のはざまなどで)問われてきた問題そのものかと思います。その仏教のとらえ方をめぐる、かなり普遍的な問いを、現代のフレッシュな表現で語り合っているのが、本書の強い魅力でしょう。

なかでも後半の議論で援用される数学者・岡潔の宗教論や、『サピエンス全史』(①の本に続き登場。仏教についてよく考えたい人は必読文献です)の見解など、とても示唆深いです。今後のお二人の活躍に対する期待も、ますます高まります。

③ 『進化するマインドフルネス:ウェルビーイングへと続く道』 飯塚 まり 編著

欧米での流行を受け、この数年のあいだに日本でも爆発的なブームになっている、マインドフルネス。仏教瞑想から宗教性を取り除くかたちで設計された、この心のトレーニング方法に関して、編著者も含めた17人の論客が、それぞれの自説を述べた本です。

論じ手は、大学の研究者が中心ですが、僧侶や医療関係者、さらには人事経営戦略に携わるビジネス・パーソンも含まれます。かなり多様な視点からのマインドフルネス論になってます。それらを、編著者が丁寧に整理し、要点を繰り返しまとめており、現代マインドフルネス論の広がりが、よく理解できるように書かれています。

マインドフルネスは、カジュアルな瞑想実践により、個人の集中力を高め、人格をほがらかにし、仕事もはかどる上に、利他的なマインドも養えそうだいうことで、現代人の「万能薬」であるかのように宣伝されがちです。情報技術を駆使してマインドフルネスが世界中に広がれば、人類が進化して、世界平和が達成されると考える学者さんもいるらしいです。なんかヤバいですね(笑)

こうしたマインドフルネス・マンセー的な風潮が広がるなか、しかし、その負の側面もちゃんと把握しておくべきだと、本書ではたびたび指摘されています。たとえば、マインドフルネスを行うことで個人のトラウマ記憶が再生されてしまうケースが、けっこうあるらしい。あるいは、自分のなかで起きる感情に注意を向け続けるなか、そこに「怒り」などのネガティブな要素があまりに多いのに気づいて、落ち込み、ますますネガティブになり苦しむ、というパターンもあるようです。

マインドフルネスは基本的に「薬」ですが、ときに「毒」にもなるわけです。これは、マインドフルネスを売り物にするメディアなどではあまり語られない事実ですが、きわめて重大なポイントだと思います。

とはいえ、もちろんマインドフルネスの「薬」の効果も大きいわけで、その使い方の可能性について、本書でいろいろと語られています。

たとえば、ワークショップや会議などでファシリテーター(しきり役)を担当する人が、基礎的なスキルを超えた能力を身につけるのに、マインドフルネスはとても有効だとのこと。ファシリテーターが何を「行う」かではなく、彼/彼女の「あり方」が、グループワークの成否を最終的に左右するため、そこで個人の「あり方」を改良してくれるマインドフルネスが、とても役に立つというわけです。

さらに、脳の構造や機能を分析する三人称的な近代科学と、仏教瞑想という一人称的な「科学」の融合の見通しや、瞑想を通して従来の宗教的な問題を世俗社会で問うていく可能性など、仏教(宗教)研究の視点からも興味津々の論点が満載です。

好むと好まざるとにかかわらず、マインドフルネスは今後も勢力を拡大し、日本の社会や仏教の「あり方」を確実に変えていくと思います。では、どう変えていくのか? それを冷静に見極めるためのヒントを、本書からたくさん引き出せそうです。

④ 『人工知能のための哲学塾 東洋哲学編』 三宅 陽一郎 著

著者は人工知能(AI)の研究者で、特にゲームAIの開発に携わっている方です。人工知能を、より人間に近づけるのに必要な学知を、西洋哲学に加えて、東洋哲学からも獲得しようとしており、その模索の成果が本書で解説されています。なお、フッサールなど西洋哲学を中心に論じた『人工知能のための哲学塾』(ビー・エヌ・エヌ新社、2016年)の、続編になります。

「生まれたての人工知能には欲求も執着も興味もありません。人工知能はいわば解脱した状態にあります」。まあ、そうでしょう。著者はしかし、その悟った存在に「興味」や「欲求」や「執着」を持たせ、あるいは「煩悩」を取得させることで、人工知能に、この世界で生きる喜びと苦しみを与えようと試みています。

つまり、仏教が目指すところ(煩悩から解脱へ)の逆を、科学的に実現しようとしているわけです。そのために、仏教をはじめとする東洋哲学の英知を、多面的に参考にします。禅、龍樹、井筒俊彦、荘子など、人工知能に人間性を宿らせるのに応用できそうなアジアの哲理が、独自の目線から読み解かれています。

たとえば、道元の「有時」の思想です。日本を代表する「哲学者」の一人である道元は、人間=存在は時間だと見抜きました。ある瞬間に「有」る世界、それは客観的な時間の流れの一部ではなく、それ自体ですべてであり、それが「時」である。その「有時」が連なって、人間の主観的な世界が立ち上がります。

人間は、この「有時」の連なりを、自己の都合に応じて勝手に形成します。著者の説明に従えば、人間の主観世界とは「知能がいくつかの時をピックアップして作った幻想」です。と同時に、それは「我々が生きる方向付けをするために必要なもの」でもあります。我々は、その恣意的な「時」の連なりのなかで、何かを求めたり好きになったり、嫌いになったり恐れたりします。

人工知能は、こうした「時」を持たず、したがって人間のようには「存在」していません。では、どうしたら「彼ら」も「時」を生きるようになるのか。それを、AI開発の技術や経験と照らし合わせながら考察するのが、著者の独自性の高い仕事の一部になっています。

著者によれば、西洋発の人工知能は、「神>人間>人工知能」という存在の序列を暗黙の前提としており、人間の知能をモデルに新たな機械を開発するという発想が、根強いようです。それに対し、人間も人工知能も、同じ世界の一員として捉えやすい東洋の見方は、人間と同等の存在と想定された人工知能に、狭い意味での「知能」にとどまらない、新たな生命を吹き込む可能性を秘めているといいます。

そして、そのスリリングな挑戦のなかで、仏教の思想がきわめて重要な参照対象になっているわけです。現代の科学技術の視点から見る、仏教の新鮮な捉え方として、わくわくしてくる知見のつまった一冊です。

⑤ 『私はすでに死んでいる:ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』 アニル・アナンサスワーミー 著

アメリカのサイエンスライターによる著作ですが、そのプロローグは龍樹の『中論』に記されたエピソードの引用で、またエピローグでも仏教について多くを語っています。「自己」について深く考える本だからです。

仏教的には、自己は「病」にほかなりません。自己に無闇にこだわることで、人間は苦悩すると考えるからです。ところが、この厄介な自己が、望まずして壊れてしまう人たちがいます。そして、それは精神医学的に各種の病と解されています。その病の実態を、おもに神経科学の立場から多角的に検討したのが本書です。

たとえば、「コタール症候群」。驚くべきことに、生きながらにして「自分の脳は死んでいる」とか「私は存在しない」と思い込む患者さんがいるようです。彼らは、検査をしても嘘をついているとは判断できず、自分の発言に確信を持っている。合理的な推論ができなくなり、自己のとらえ方が故障しているわけです。

あるいは、「身体完全同一性障害」。自分の身体の一部、たいていは手足のどれか一本(たまに二本)を、切り落としたいという強烈な観念に襲われるそうです。そして実際に手術で手や足を切り落とすと、ようやく安定した自己感が得られ、元気に暮らせるようになるらしい。五体満足では自分が自分じゃないような気がして、狂いそうになるわけです。

これらはマイナーな症例で、ゆえにショッキングな印象を与えますが、もっとメジャーな自己の病も、いろいろとあります。わりと身近なのはアルツハイマー病でしょう。自己を成立させるストーリー(ナラティブ)が消え去り、アイデンティティが崩壊します。

あるいは、統合失調症や離人症や自閉症などです。患者たちは、自分自身のことなのに、まるで外から経験したような感覚になったり、情動や感情が鈍化して、それが自己の身体で起こっているとは思えなくなったりします。これらは、自己意識と身体感覚がズレてしまう病ですが、そのズレがエスカレートして、意識が身体の外側に出てしまうケースもあります。「体外離脱」です。身体への内外からの刺激や、位置感覚を脳が統合できなくなり、意識と身体を結ぶ糸が切れたかのように、意識が浮遊する幻想を抱いてしまうのです。

このように、自己というのはそれほど盤石な存在ではなく、各種の病によって、けっこう簡単に崩れ去る、脆弱な存在のように思えます。そうした、か弱い自己の構造について、本書は当事者や研究者への取材に基づき、丁寧に考察しています。

とはいえ、上記したような病にならない限り、自己はなかなか強固なものとして、私たちの生きるこの時に現前し続けるのも確かです。だからこそ、その「病」を治すための思想と技法=仏教は生まれました。強いようで弱く、もろいようで案外しぶとい、自己とは何か? この問いを深めるのに最適の、知的刺激に満ち満ちた書物です。

以上、「最近読んだ(面白い)本」でした。明確な共通テーマはないですが、いずれも仏教論のフロンティアにかかわる著作だったかと思います。現代科学と仏教の接点、変容する人間観と仏教の関係、仏教の実際的な応用可能性、その応用にあたっての注意点など、いずれも重要な問題です。

仏教の社会的あるいは学問的な位置づけは、いま、大きく変わりつつあります。今回取り上げた本は、いずれも、そうした仏教の現状を面白く感じるための指南書と言えるかもしれません。

仏教書のレビューを趣味とする京都在住の研究者。さまざまな本の紹介を通して、仏教の魅力や、仏教を通してものを考えることの面白さを伝えていきたいと思います。