炎上よりも怖いのは「お寺が忘れられること」

炎上→本山から召喚→宗教裁判みたいなやつ(そんなのあるのか?)→有罪確定→僧籍剥奪→無職→離婚→路頭に迷う→人生終わる

などという妄想が駆け巡る(この間0.5秒)のですが、そんな杞憂をよそにあっけなくバズは収まっていきます。私の経験では3日間ほどでピークを向かえ、そのあとはあれだけ増えていたリツイートの数字はピクリとも動かなくなります。

そして、何事もなかったように平常に戻っていくと、注目されていたと思っていたのは自分だけで、世間は私のことなどちっとも気にしていなかったことに気づくのです。そんな不思議な経験を、このあと半年に一度くらいのペースで体験していくことになります。

こんなことを繰り返しているとよく「大丈夫?」とか「好きだねぇ」とか言われます。

「大丈夫?」は恐らく「そんな事やって門徒さん減らないの?」とか「怒られないの?」という意味だと思います。「好きだねぇ」はその表情からして「それが何の意味があるの?」というニュアンスではないかと勝手に思っています。「すごいね」とも言われることもありますが、手放しで誉められることはあまりありません。

自分でも誉められるようなことをしているつもりは無いので気にもしませんが、ただこれをやっていて門徒さんが増えたことはありません(減ったこともありません)ので、やる意味があるのかと言われると胸を張ってありますとは言い切れません。

しかし、このつまらないつぶやきを見る人の数はたとえば1万を超えるリツイートの場合、数十万から数百万にも上ります。「この情報技術を伝道に取り入れるべきだぁ」なんて声高に言うつもりはありませんが、まったく無視できる数字ではないと思います。

永明寺はメディアへ露出することを積極的に行っています。一連のツイッターへの投稿もその一環と考えています。そんな時いつも考えているのは「もし永明寺がなくなったとしたら、1年後も地域の人はここにお寺があったことを思い出してくれるだろうか?」ということです。

実際に永明寺は道路拡張の計画に20年前からかかっており、そのために周辺は随分と様変わりしました。建物が取り壊されていくときは物悲しい感じがするのですが、いざ取り壊されて1年も経つと「もともとここは何があったっけ?」なんてことがしばしばあります。

「お寺の人の悪いクセは、ここにお寺があることを地域の人はみんな知っていると思い込んでいること」という言葉を言われたことがありました。

確かにお寺は門構えがあって、いかにもという雰囲気を出しているのでみんなここがお寺であると認識してくれていると思いがちです。しかし、実際にその前を通るだけの人にとってはひとつの風景でしかないことも多いのです。そんな風景になってしまったお寺の宗派や教義について誰が知っていてくれるでしょう。

ましてや建物が無くなってしまったら、記憶に残るはずもなく、ただ長い壁が無くなったとしか感じないのです。これは私にとって炎上して私自身が批判されることよりも怖いことです。

(つづく)

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松崎智海

北九州にある浄土真宗本願寺派「永明寺」住職です。1975年生まれ。札幌龍谷学園高校に5年間、敬愛高校に9年間宗教科教員として勤めておりました。最近は老眼がひどくてつらいです(^^)